彼の胸中
一瞬、場違いなほど平穏な静寂が店内を満たした。
マシューの突然の発言に耳を疑い、シャーロットは聞き直す。
「待って。今なんて?」
「だから、都に行くんです」
マシューはいともあっさりと繰り返した。
「伯父が――都でちょっとした商売してる人で、その人がそっちで働いてみないかって誘ってくれて。ずいぶん前から言われてて、保留にしてたんですけど、そろそろ決めようと思って」
聞き間違いでなかったことにシャーロットはくらりとめまいを覚えた。
都で働く。
二日三日の滞在というのではない。マシューは都に居を移す。
それはつまり、シャーロットの会いに行ける場所を去るということだ。
都までは隣町から鉄道に乗って優に三、四時間かかる。その隣町までも馬車で三十分だ。シャーロットが一人で出向くことは許されない。
震える声で訊ねた。
「なんで?」
「それは、向こうの人手が足りなくなったからです。伯父も俺が行きたがってるの知ってたから声かけてくれて」
マシューは理由を語る。
だがシャーロットの聞きたいのはそんな事情ではなかった。
「なんであなたは行くって決めたの?」
「前から行きたいと思ってたんです。知ってるでしょ」
「そうじゃない」
高ぶる感情のまま子どものように首を振った。
マシューはまだ子供と呼べる年のころから都に行きたいと口にしていた。年季の入ったあこがれだ。だから、それ自体は理解できる。
だけど。
だけど、この町にいてほしいとシャーロットが言ったとき、マシューは笑っていた。
「なんで、なんで今なのよ?」
長い間考えていたとは言うが、都に行く話があるなど彼は一度も口にしたことはなかった。知らなかった側からすればあまりにも急な話だ。
急に縁談を強いられ、自分の気持ちすら置いてきぼりになりそうな今。
どうして、シャーロットを取り巻く環境が乱れ始めたこの時に、彼までもが離れていこうとするのか。
無意味で幼い問いだ。だが口にせずにはいられなかった。
祈るような気持ちのシャーロットに、マシューは視線を合わせなかった。
「……お嬢さんには関係ありませんから」
シャーロットは言葉を失い、それでも首を何度も横に振る。
普段の彼ならそんなことは言わない。
マシューがそんな風にシャーロットを突き放すなんてことは、今まで一度たりともなかった。
そんなことは認められない。認めたくない。
行かないでほしい。
本心に反して、口から出た言葉は冷え冷えとしていた。
「……わかったわよ。もういい」
シャーロットは一度マシューの横顔をにらみつける。それからくるりときびすを返すと、早足で店内を横切り、扉の激しい開閉音と共に雑貨屋を後にした。
町の名士の嫡男、ロバート・キングズリーが雑貨店を訪ねたのは、それから数日後の昼下がりのことである。
「聞いているぞ、都で働く予定なんだって?」
ロバートは店のカウンターに体重を預けて姿勢を崩し、そう投げかけた。
貴族と商人の子という違いはあれど、家が近く同年代、かつ同性である二人は昔から気の置けない間柄だった。
マシューは二つ年上の幼馴染にちらりと視線を送ったのち、濁しがちに肯定した。
「誰から?」
「うちの庭師が郵便屋から聞いたと教えてくれたんだ。さらにその前は君の母君だと」
「まったく……田舎はうわさが早い……」
ため息まじりにつぶやくマシューに、ロバートは訊ねた。
「シャーリーにも話したか?」
「……なんで」
なんでそんなことを聞くのか、あるいは、何で知っているのか、と続けたいのか。
マシューの声はわずかに鋭かった。
なにかがあったことを確信しつつ、ロバートは「実は」と口を開いた。
「シャーロットを訪ねたら追い返されてな。面会できないまま、もう三日だ」
ロバートがそれを知ったのはたまたま庶務でフォーダム邸に出向いたときだった。
用事のついでに幼馴染に挨拶くらいはと思って使用人に取次ぎを願ったところ、顔を出したくないと返されたのだ。心配して翌々日もう一度赴いても返答は変わらず。流石におかしいと思った。
特段ロバートが解決を求められたわけではない。浮き沈みの激しい性格の彼女は、なにかをきっかけに閉じこもるということがたまにあった。そっとしておけば元に戻るのが通例だ。
だがロバートは、あの夜会の日シャーロットが悩んでいたことを知っていた。縁談のこと。それから好きな相手のことについて。
そこにマシューの上京の報だ。
それが関係しているのではないかと当たりをつけ、ロバートはこちらに赴いた。
むっつりと黙りこくるマシューの横顔は険しい。
「何があったのか、聞いてもかまわないか」
「別に、ただ町を出ることを話しただけだよ。なにかあったわけじゃない」
いろいろ訊ねられたけど、とマシューは最後に小声で付け加える。そのいろいろの内容を詳しく問いたくはあったが、濁す程度のことではあるようだ。やっぱりか、とロバートは思った。
「彼女のことだから、引き止めたんじゃないか?」
「別に」
マシューの返答は冷淡ともとれる声音だった。
彼は日ごろそっけない男ではあるが、決してとげとげしい男ではない。今のような態度はむしろ珍しく、今の話題が彼にとって好ましくないのだとうかがい知れた。
そしてそれは、シャーロットとの間に何かがあったのだと証明していた。おそらく、彼女の変調の理由もそれだ。
追求したくはあったが、あからさまに口の重たげなマシューにこれ以上訊ねてもかえって意固地にさせるだけだろうし、何より忍びない。
ロバートは話題を変えた。
「なあ、どうしてマシューは都に行きたいと思ったんだ?」
彼は話題の急転換に拍子抜けしたようだったが、さっきの話題よりはずっと話しやすいらしくすぐに食いついた。
「大した理由じゃないよ。このあたりにずっといたって退屈だろ? 何もなくてさ。昔から都で暮らす機会が欲しかったんだ。そこに声をかけてもらったから行くだけだ」
「そうか。しかし急だな。『今』決めたのにはなにか事情が?」
聞いた話だと、彼の親戚が働き口の話を持ち掛けたのは数か月前のことだという。昔から行きたかったというのなら、勧められた時点で即座に出立してもおかしくないというのに。
「大した理由じゃないよ。悩んでたのと、家族と相談もしなきゃいけなかったから。うちの店に忙しい時期も何もないけど、それでも準備期間はあるにこしたことないし」
「そうなのか」
「それにもうお役御免だし」
「お役御免とは?」
つい口が滑ったのだろう。マシューは渋面を作り、しかしごまかすのは諦めたらしく、言葉を続けた。
「あの人の話し相手する必要もなくなるから」
その「あの人」が誰を指しているかは明白だった。
「……シャーロットに縁談が来ているから? 知っていたのか」
口では問い直しつつも驚きはしなかった。マシューの言った通り、田舎の小さな町はうわさが早い。貴族家の縁談など格好の話題だ。夜会に出かけていく馬車の目撃情報や郵便の流れ、使用人のうわさなど、情報の出所はいくらでも思い当たる。
「まだ決まったわけじゃないんだがな。申し込みがいくつか来ているだけで」
「引く手数多だろ。お嬢さん、綺麗だし、気さくだし」
そっけない口調でいうマシューに、ロバートはあいまいに頷いた。
ロバートにとってのシャーロットは聞かん気な妹分に近い。貴族的な整った顔立ちであることも自由闊達な性格も言われてみれば納得できるが、マシューの口からそんな高評価を聞くのは意外だった。
また、マシューの評価が客観的かどうかはともかく、シャーロットが資産家たちから声をかけられていることには間違いない。
ただしそれは、彼女の実家が伝統ある貴族であるためだ。彼女に寄せられる見合いには、縁組による権威の獲得への期待がついて回っている。
求婚者の誰もが必ずしもマシューの言ったような彼女の美点を見ている者ばかりではない。
そのことをいっそ伝えてしまおうか、ロバートは少し悩んだ。
シャーロットは望まない結婚を強いられることを嫌っている。ロバートにはそれが痛ましい。おてんばな妹分がしおれている姿を目にして、動揺しているのかもしれない。
ロバートからは何をどうするのが彼女の幸せとは断言できない。富豪との縁談も長い目で見れば一つの道だろう。
ただ、あの幼馴染と目の前の青年が結ばれて、誰もが幸せになるならば、それが叶ってほしいとも思っている。
それに、彼女をどうにかできるのなんて、彼しかいないのだ。
ロバートは他者の将来に口出しする権利がないことは分かっている。
それは承知した上で、せめてもと訊ねた。
「君は、シャーロットの気持ちに気づいていないのか?」
その質問はマシューの認識を確かめるものであり、そして想いを確かめるものでもあった。
シャーロットとマシューの付き合いは長い。互いが十歳頃からの仲であるから、もう七年ほどになる。
そのころから今に至るまで頻繁に雑貨屋に通い詰めているシャーロットの態度は分かりやすい。
では、彼女に付き合い続けるマシューの気持ちはどうなのだろう。
口ぶりは大して気にも留めていない風だが、少なくとも彼がシャーロットの縁談をひとつの転機とみなしていることは確かなのだ。
マシューは肩をぴくりと動かした。
一見何事もないような顔をしているが、その瞬間をロバートは見逃さなかった。
「だとしてもあの人の事情は、俺には関係ない」
「気づいているんだな」
「……何が言いたいんだよ」
マシューは苛立ったように眉をひそめ、低い声で問い返した。
「ただの俺の希望なんだがな」
ロバートは静かに言う。
マシューの態度ときたら、誰に対しても淡泊だ。
だが少なくとも、貴族だから逆らえないということを差し引いても、彼の口からは彼女の愚痴ひとつ聞いたことがない。
「少しでも彼女のことを大事に思っているのなら――見て見ぬふりはしないでやってほしい」
手を取るか、取らないかまでは口出しできるところではない。
だが、それでもせめて、うやむやにしたままにはしないでほしい。断ち切るよりも引きちぎるほうがずっと酷いのだ。
マシューはしばらく黙っていた。ロバートの発言の意図を解釈しあぐねているようだった。
やがて彼は、そうは言っても、と口を開いた。
「どうしようもないだろ。身分が違うんだから」
「そんなこと……」
「あんたには分からないよ」
「……すまん」
先日、ロバートは父を説得して、望んだ女性と結婚する許可を得た。明るく行動的な性格の、平民の少女だ。厳格な性格の父を納得させるのは骨が折れたが、周囲の批判の声を自ら制すること、家を保つだけの能力を身につけることを約束することでようやく、監視付きという条件で許しを得た。
だがそれはロバートが生まれつき立場を保障された、将来の当主だから無理がきいたのだ。
そのことは理解していた。
だが、人の口からはっきりと聞かされるのとでははっきりと違った。まして本人の。
だが。
彼の返答は、彼女に何の情もない男の口にするものだったか。
そのことはこの状況の中では救いであるように思われた。
謝罪の後、だけどな、と、ロバートは再び口を開いた。
「押し通してみるものだぞ」
「……助言になってない」
マシューはカウンターにひじをついて息を吐いた。
もっともだ、とロバートは笑う。
少しだけ空気が和らいだのを感じた。
そして一時の安閑を破るかのように。
扉を叩く音が店内に鳴り響いた。




