彼はわたしの中で毎日死ぬ
病室のベッドはもうすっかり片付けられていて、次の入院患者を待っている。
そこに半年ほど前までいた血と肉を持った彼の姿はなく、今はただ桐の箱の中で焼き尽くされ、バラバラにされて、ハンマーで砕かれた後、静かに眠っている。
人の頭蓋は簡単にくだかれる。人生で何度目かの光景だった。
『俺は死んでも××のこと、細胞レベルで愛してるからな』
おどけながら彼は言っていた。最後の最後まで、気丈な人だったと思う。
薄情なことに、わたしはそれになんと返したのか、おぼえていない。
泣いてくれても、弱音を吐いてくれても、八つ当たりしてくれても良かったのにね。
若年性の、癌だった。
気付いたときには手遅れで、彼の全身を細胞単位の彼自身が内側から破壊しつづけていた。
彼の身体は小さな戦場と化していて、医者やわたしがどれほどの武器と物資の供給を彼にし続けても、ついぞ彼は勝利をおさめることはなかった。
研究者であるわたしの研究分野が癌だったのはなんという皮肉だろう。
『細胞レベルで愛してる』
脳内で何度もリフレインする言葉は、生きているのだろうか。死んでいるのだろうか。わたしには判別がつかない。
彼が死ぬ前に、わたしは彼の一部を保存することにしていた。
今日もわたしは培養された彼と研究室で過ごしている。
もう何度目かの作業はどんどん手慣れていった。
試験管から液体になっている透明な彼を吸い上げる。
「こんなのって、ないよね」
涙は出てこなかった。わたしの血液と彼の細胞がシリンジの中で混ざり合う。
一つになったように見えても、わたしが彼を否定する。
どれほど肉体に注入してもだめだった。
わたしの細胞が彼を非自己だと暴れまわり、少しの彼をたくさんの私が虐殺してまわる。
がん細胞の移植は、できない。
理解しているのに分からないのは初めてだった。
彼の愛に答えないのはわたしだ。彼の愛を拒むのはわたしだ。
シャーレの中で培養される彼の愛は尽きることがないのにわたし自身は『わたし』として終わろうとしている。
わたしが死ぬとするのならば、彼に喰らい尽くされて死ぬのではなく、自己の消耗によって死ぬ。
空っぽになったシリンジをぼうっと眺めていた。
でも、彼が詰まった試験管はまだまだある。
「もうやめてください」
2本目を手に取ろうとしたところで、かすれてボロボロになった声を聞いた。
休日だというのに、立っているはずのない助手が後ろに立っていた。
ああ、失敗したなあ。
「そんなことを続けていたら、あなたの体が持ちません」
そんなことは分かっている。始める前から分かっている。
だけど。
「めがね、外したほうがいいよ」
とうとうとあふれる涙がメガネのふちにたまって、大変なことになっていた。
いつもはきっちりとまとまっているショートカットの黒髪は、乱れていて。
『くせ毛が酷くて毎朝スプレーで固めるの大変なんです、今日は時間がなくて』
ぼさぼさの髪を振り乱して、遅刻寸前だと走ってきた彼女が言っていたことをこんな時なのに思い出した。
わたしはこんなにも愛している人がいなくなっても泣けないのに、どうしようもないことをして人様に迷惑をかけるわたしのために泣いている彼女がすなおにうらやましかった。
そして、申し訳なかった。
「わらってる、ばあいじゃ、ないです」
メガネをとって白衣の袖で顔をぬぐった彼女の顔は痛々しいぐらい赤くなっていて。
「ねえ何時から泣いてたの」
昨日今日で出来た痕ではないと思った。
わたしは毎日顔を合わせてる彼女の変化に全く気づくことができなかった。
彼も彼女も傷つけたくないのにどうして傷つけてしまうのだろう。
大切にしようとしても許してもらえないのはなぜだろう。
彼は身体を、彼女は心をわたしが傷つけた。
――もう治してあげられないね。
「博士がやろうとしてることを知った時からです」
わたしには勿体無いぐらい賢くて、優秀な子。
だからこそわたしのことなど放って置いて自分と、誰かの未来を掴み取って欲しいとねがっている。
「やめてもらえないのなら――」
「報告する? 上に? 」
わたしはまたわらってしまった。そんなことが出来る子じゃないって分かってる。
高をくくっていた。
「いいえ。警察へ行きます」
久しぶりに正面から彼女の顔を見る。
わたしを否定などしたことのなかった彼女が今はじめてわたしを否定しようとしている。
同じ研究をして、同じ場所を目指して、笑って、怒って、議論して。
ランチを一緒に食べて、午後にはあまったるいお菓子をつまみながら紅茶を一緒に飲んで。
とても可愛いわたしの助手。
きっと、もう、同じには戻れないね。
「それを渡して下さい」
試験管の中の彼をみた。彼は何も答えてくれない。それでもやっぱり、愛しいとおもう。息をしている、とおもう。
「うん、ごめんね」
彼女はホッとしたようにくしゃくしゃになった顔で優しく笑う。
彼の最後の顔と、だぶった。なぜだか唐突に、さみしくなった。
わたしは差し伸べられた手をふりはらって、走った。
後ろで彼女が転ぶのも構わずにひたすら走った。
どうか、これ以上わたしから何も奪わないで。
息が苦しい。前はこんなにすぐ疲れなかったのにな。
IDカードを切って、第2研究室にたてこもる。
背後では警備員たちがあわただしく扉を叩く音がする。
事前に連携がとれていたのか。やっぱり、賢い子だと改めて感心した。
お願いやめて、という悲鳴を金属製のドア越しに聞きながらわたしは彼をだきしめた。
別の薬が入った注射器を再び手に取ると、ひどく安心して、涙がとまらなかった。
あいしてるよ。
さようなら、おやすみ。