墓
8月も終わりに差し掛かったころ、私は、墓参りのために地元へ帰った。普段はお盆に合うように休暇を取るのだが、今年は仕事が忙しく、それが叶わなかった。実家にも、顔見せ程度に寄るくらいで、明日にはもう勤務地へ帰らねばならない。
お参りを済ませた後、せめてこれくらいは、と、いつもより念入りに墓石を磨き、周辺の掃除などもしていたところ、塀を一つ隔てた先にある墓に拝んでいる中年の男を見掛けた。なぜこの時期に、と訝ったが、自分も同じであることを思い直し、むしろ一種の親近感のようなものを懐きながら、男を見つめていた。拝み終えた男と、一瞬、目があった。男は儚げに微笑んで、会釈をした。私も、それに応える。なんとも言いようのない静寂がしばらく続いたが、それを打ち消すように、男が、
──すいません、ほうき、貸してもらえますか。
と呼びかけてきた。先刻まで私が掃除のため使っていたほうきのことである。私は、ああ、と答え、男の方へ向かった。
ほうきを手渡すと、男は軽く礼を言い、掃除を始めた。
──お盆を、外してしまいましたね。
と、私は半ば独り言のように呟いた。
──ええ。まあ、気持ちの問題でしょう。来ないよりは。
掃除を終えた男は、こちらに向き直って答えた。うん、と軽く相槌を打ち、深入りするのも何だろうと思い立ち去ろうとした私を呼び止めるように、
──拝んでやってくれませんか。
と男が願い出た。他人の家の墓に拝むというのは、経験がなかったが、断る理由はないだろうと思い、墓の前へ歩み寄った。目を閉じ手を合わせ数秒、再び目を開くのと同時に、男は思いも寄らぬ一言を発した。
──私が殺したんです。
私は耳を疑った。狂言なのだろうか、しかし、そのような人物には見えない。至って誠実な口調で、確かに男はそういった。
──え?
僅かに振り向き、目を合わせぬままにそう返した。視界の端に見える男は、やや肩を震わせながら続けた。
──30年前です。私が、本当に、一瞬の気狂いで──。あの時の私は、私じゃなかった。いや、言い訳無用です。私が殺したのには変わりない。それで、捕まって、暫く獄中に入って。出てきてから毎年、拝むようにしてるんです。せめてもの、罪滅ぼしです。家族さんには合わす顔がなくて、大体いつもこの時期に……。
嘘を言っているようには思えなかった。私は、目線を落としたまま体だけ振り返り、そうですか、と答えた。いま眼の前にいる、痩せぎすの男が、かつて人殺しをした男であるという。朴訥として、表情はどこか柔和にすら見える。見た目からは俄には信じられないが、背中越しに聞いた先刻の声だけは、その話に強烈な真実味を帯びさせているように感じた。
──あの感触を思い出すと、今でも──。ああ、駄目だ。私が悪いんだから。まして、墓の前で。本当に、申し訳ないことをした。謝って済むはずがない。ああ、一瞬の、気の狂れだ。ああ、ああ。
男はそう言うと、ついに泣き出してしまった。一瞬の狂気──。少なくとも今眼前に居る人物から、そのような狂気の臭いは毫も感じ取ることが出来ない。恐らく、この男の狂気は、今もこの墓の下に眠むっているのだ。死者の魂とともに。ああ、人の手で殺められるのみならず、その狂気とともに眠むる恐ろしさよ。
蓋し、狂気とは誰の心の裡にも在るものだ。この男は、何かの切っ掛けで誤った引き金を引いてしまい、狂気を増幅させてしまったのだ。もちろん、彼は罪人である。人殺しの重罪を背負った、許されざる罪人である。しかし、彼はまた被害者でもあるのだ。墓の下に眠むる狂気という、恐ろしき悪魔の。彼はいま、狂気によって生かされている。その能う限りの生を持って償い続けよ、との命令に操られている。たとえ一瞬でも、耐え難い狂気に憑かれた人間は、このように、狂気の傀儡として生きる運命を強いられるのであろう。
すすり泣く男は、すいません、有難うございますとか、何か呟きながら、再び墓の前で手を合わせた。私は、何も言わず立ち去ることにした。
去り際、膝をついて拝む男の肩越しに、狂気の不気味な横顔が見えた気がした。私は心の中で案じた。あの狂気が再び目を覚ます事のないように。そして、私の裡に在る狂気の片鱗が、せめて私と共に眠むることが出来るように。