短編2 雨傘
冷たい。
頬に水滴を感じて空を見上げる。重苦しい曇天。堪えきれないとでも叫ぶように、雨粒たちはたちまち家々やアスファルトを叩き始めた。武はパーカーのフードを目深に被り、最寄駅から家路を走った。
一人暮らしの武はテレビを持っていない。新聞も取らない。スマホの天気予報でも見りゃよかった、と悪態を付きながらコンビニに駆け込んだ。外は土砂降り。濡れた店内の床と運動靴が擦れる音が店中に響く。なにを買うわけでもなく菓子売り場を回ってから、雑誌売り場へ足を向ける。初夏の雨が止むまで時間を潰せればいいのだ。
止まない。興味のある雑誌はあらかた読み終わった。とはいえ無趣味な武が手に取ったのは3冊にも満たない。時間にして10分。帰っても特にすることはないが、濡れたパーカーやまとわりつく髪そのままに、雑誌を立ち読みしたい気分ではなかった。先刻、暇そうにしていた店員がやっと出してきたビニール傘に目をやる。300円。家まで5分もかからない。財布の小銭を確かめる気も起きない。
「走るか」
自動ドアを出てすぐの傘立てに無意識に目がいく。数本の傘に混じって、ビニール傘が差してある。
手はほとんど無意識に動き、ビニール傘の1本を引き抜いていた。店内に人もそういない。明らかに傘の方が多い。自分は助かるし、見分けのつかないビニール傘なら入れ替わりを繰り返して、結局誰も濡れずに帰れるのだ、と自分に言い聞かせるような考えが一瞬で脳内を巡り、満たした。武は傘を開いて歩き出した。
「私のよ、それ」
電子音とともに声が背中を追いかける。振り返りかけて、女性と目が合う。肩くらいの背で、肩くらいの髪の女性だ。同い年くらいだろうか。
「それって」
「傘。柄にピンクのテープが巻いてあるの」
「うそ」
言われてみれば巻いてある気もして、無意識に武の柄を握る手に力が入る。女性はフワッと髪を揺らして武に寄った。
「ほら」
武は右手に傘をさし、左手にコンビニのビニール袋を提げて歩く。隣には肩くらいの背の綾が並んでいる。
「私、ビニール傘は公共の財だと思うの」
綾は同じ傘の中で、どこか嬉しそうに言う。
「公共の財?」
「そう、みんなのもの。困った時には誰でも使えるように、同じ形をして、名前もなく、どこにでもあるの」
「へぇ」
「その代わり使った人はいつか、自分でビニール傘を買ってどこかで失くしたり、置いてきぼりにしたりするの。誰かが使えるように」
綾は前を向いたまま話す。少し弱まった雨の中、その声は時折霞む。
「これがグルグル回っていくの。うまく出来てると思わない?」
「そうだね」
綾は振り返る。窺うような目だ。
「だからあなたが私の傘を取っても悪くはないの。私はこっそり、誰かの傘を使うから」
綾は少しいたずらっぽく笑う。左肩が濡れてきた。武は無言で歩く。
「でもね、その傘はダメなの」
「…傘を見張ってたのか?」
武はふと疑問を口にした。ほかと違う傘を選んだ自分にも呆れるが、たかがビニール傘1本にこだわる綾にも武は驚いていた。
「…なんでかって、好きだもの、ピンク」
武の問いを無視して言うと綾はすっと道路に面した家の敷地に入った。問いに答えを得られず拍子抜けしながらも、好きと言いつつ服に選ぶほどピンクが好きではないのだな、などと考えて武が立ち止まると、綾はすでに玄関先で扉を開けていた。
「相合傘をありがとう。濡れずに帰れたら傘は返してね」
そう言い残して綾は家の中に消えた。雨の中に残された武は、ここまでの道のりなど覚えていなかった。住宅街を曲がりくねって歩く間、雨粒がビニール傘のピンと張った膜に当たる音が耳に残っているだけだ。
大通りまで出て家の方向の見当がついたのは雨が止みかけた時だった。もう傘を閉じてもいいだろう。左手を上げると、重みを感じる。綾の買い物が入ったビニール袋だ。別れ際に渡すのを忘れていた。綾の家から大通りまでの道はかろうじて覚えている。仕方ない。武は歩みを綾の家へと向けた。
見なけりゃよかったな、なんて思っても遅かった。なんとなくまださしていた傘を低くする。低く傘を構えたところで、透明のビニール傘は目の前の光景を隠すことはない。少しぼやけても、目の前で崩折れて泣く綾の姿は消えたりしない。戻ってくるんじゃなかったな、なんて思いながら、武はどうしようもなく立ち尽くした。左手の袋が重い。
ふと玄関先の男が武に気づく。男の視線に綾も気づいてこちらを見るが、特になにをするでもなく、武はただ2人の視線に晒されていた。仕方なく武は歩き出した。ついさっき綾を平手で打った男はなにか言いかけたが、なにも言わずに家の中へと消えた。武はそのまま歩を進め、通りすがりに玄関前の門にビニール袋を引っ掛けた。綾はまだこちらを見ていたが、傘を深く前に傾けて見えないようにした。滝のように傘の上を雨が流れて、綾の表情はわからない。家の前を完全に通り過ぎてから、曲がり角の手前で振り返る。綾はまだそこで雨に濡れていた。傘越しに見ているわけではないのに、綾の姿はなぜかぼやけて、消えそうにかすんだ。
それからしばらくは晴天だった。武は相変わらずテレビも持っていないし、新聞も取らない。スマホの天気予報も見ないままに家を出る。
あれから綾を何度か見かけた。あの男と連れ立っていたこともある。目があったことはない。見つけてもすぐ、武は目を逸らす。向こうが気づいているかもわからない。ただ彼女には、雨の降る日にしか会ってはいけないような気がした。天気予報は見ないけれど、武はそろそろ雨が降ってもいいと思っていた。
冷たい。その感触に懐かしさを覚えて空を見上げると、空には雲が立ち込めていた。雨は降り始めの弱さだったが、武はあのコンビニまで走った。そうしたほうがいい気がした。コンビニに着いてまず傘立てを見たが、特徴的なビニール傘はない。店の中にも女性客は1人もいない。
どれでもよかった。手近なビニール傘を傘立てから引き抜いて、小雨の中、ささずに走った。武は綾を探していた。会わなければいけなかった。本当は、もっと早くに。
雨が勢いを増し、武はついに傘をさした。急ぐ足を緩め、早歩きで住宅地を歩きまわった。ズボンの裾が濡れようが構わなかった。そして公園の角を曲がった時、彼女を見つけた。雨を受けた黒いワンピースを肌に張り付かせて、彷徨うように歩く足取りはゆっくりとしていた。走らずとも、追いつくのは容易かった。
無言のまま並んで傘を差しかけると、綾はゆっくりと振り返った。
「…誰の傘?」
「誰かの…いまは、僕と君の」
綾は首を傾げて傘の柄を見、ピンクのテープがないのを見つけて哀しそうな微笑をつくった。
「ちゃんとした傘を買わないと。あなたはビニール傘、似合わないもの」
「君だって似合わない」
「私はビニール傘と一緒だもの」
綾の淡々とした物言いに武は適当な言葉が見当たらない。
「みんなのものなの。どこにでもあって、名前もなく、困った人が使っては、忘れられ、捨てられていく」
「俺の家にある」
唐突に言った武に綾は戸惑った表情を見せた。
「君の傘。いまは、俺の傘だけど」
「濡れずに帰ったら返してねって言ったのに…」
幼い子供を諭すように困った声を出す綾を、抱きしめた。腕の中で綾が驚く感覚。冷たい濡れた服と雨が、熱い身体も芯まで冷やす。
「濡れずに帰れるわけないだろ!君があんなに泣いていたのに、傘をさしたって、俺が、濡れないわけがない」
「私は…」
「君が雨に打たれるなら、俺はこのまま帰れない」
綾の肩が小刻みに震える。押し殺した嗚咽が漏れてくる。
「ほら、今日も俺は濡れたから、君に傘は返せない」