1-1)菅あかねと言います。
「失礼しまぁす…。三年一組スガです…。」
夏休みが明けた。受験生にとっては厳しく長い誘惑との戦いの日々が終わった。この高校では、進学のほとんどが推薦入学や附属大学へのエスカレーターであるため、職員室は忙しそうに書類を書いたり、生徒たちの小論をチェックしたりしている先生たちでいっぱいだ。私はそんなこの学校で珍しく一般受験で、この学校からはしばらく合格者がいないという、日本最高峰の大学を志望している。
私は塾に通っていないため、質問などは基本的に学校で済ませていた。ただ、この様子じゃしばらくは無理そうだ。
「あっ、スガ、ごめん今日は無理だわ…。」
私が来たのに気付いてか、お目あての先生が声をかけにきてくれた。
この学校で一番信頼している世界史の西条悠介先生。結婚三年目の子持ち。奥さんLOVEで他の女性に全く興味がない。年齢不詳、おそらく30代半ば。一年次の担任だった。
「あ、いえ。大丈夫です、わかってます。」
西条先生の申し訳なさそうな顔に微笑を向けたあと、一礼して職員室を後にした。
私は西条先生が好きだ。もちろん恋愛感情ではない。私にとって西条先生はあくまで父親のような存在である。
(夏休み明けで、いろいろ相談したかったのにな…。)
西条先生に用があったのは勉強のことだけではない。家や私のことで、少し話があったのだ。
家にいるのはあまり好きじゃない。長期休みは特にストレスが溜まる。限度を超えたときはいつも西条先生が話を聞いてくれていた。
(しばらくどうしようか…。)
職員室から出たあと、廊下を歩きながら今後の不安でいっぱいになっていると、急にドアが勢いよく開く音がした。
「ひゃっ!」
思わず小さな悲鳴をあげると、
「あ、菅さん…?すみません、驚かせてしまいましたか?」
「あ、ううん、こっちこそごめん、ぼーっとしてて…。」
いつの間にか、職員室からは少し離れている、講師室の目の前に来ていたようだ。この先生はおととし英語を教えてくれた、崎谷真司先生、通称さきちゃん。堅苦しい喋り方をするが、基本的に優しくて面白い人だ。
「じゃあ、私は。」
そう言って、さきちゃんは走っていってしまった。
さきちゃんとはそれなりに仲が良い。ただ、さきちゃん自体人が良いから、仲の良い生徒は大勢いる。
(さきちゃんって確か私の志望校出身でフランスの大学院に留学して博士も出てるんだよね…ほんとなんでこんな学校で高校講師なんてしてるんだろ…?)
さきちゃんに関する謎は多い。異常なまでの高学歴。専門は社会科なのに英語を教えていること。顔も性格も良いのに独身であること(その噂がこじれてバツ7説が浮上)。小さいものまで数えればもっとあるだろう。しかし、真相を知っている人はほとんどいないと思われる。さきちゃんはあまり深く人と関わるのを避けているようなのだ。
(今度さきちゃんに勉強教えてもらおうかな…。)
さきちゃんに関する謎を追求するつもりはないが、漠然と今後のことを考えながら教室に戻った。