【3】死後の話
死んだら私たちってどうなるの?という疑問にお答えします。
今回は死後の話だ。
死んだら自分は一体どうなるのか。それは、生きている人は誰も知ることができない。
未知の領域を私たちは必ず通る、それは恐怖でしかないのだ。
私たちは死んだらどうなるのだろう。
ある人は「無になる」という。
ある人は「天国に行く」と言い、「地獄に行く」と言う。
ある人は「成仏なんてできない」とも言う。
「正解」というものはある。だが、誰もその正解はわからない。人々は信じるだけなのだ。それが宗教であったり伝承であったりする。
断っておくが私はそれらを否定はしない。それで救われてきた人もいるのだ。
さあ、それではこれを読んでくれた皆さんにだけ「正解」を教えよう。もちろんそれだって証明はできない。私が伝えたいと思ったから伝えるだけだ。信じなくてもいい、否定してもいい。読み流してもいい。
長い人生の中の「ひとつの知識」としてしってくれたら幸いだ。
まず前置きとして言っておくことがある。今から語ることはすべての魂には適応しない。魂というものは、全てにおいて所属する世界、というものがある。それを「8大世界」という。この世界は大きく言って8個に分かれている。俗にいう「異世界」というものである。これらについては別に語らせてもらう。
さて、私たち「人間が内包する魂」というのは霊界とこの霊界を除く7つの世界からごく一部来ている。簡単に言うと、死後はそれぞれの魂の世界に帰ることになる。この世界(この世)に旅行に来た魂が家のある世界に帰る、という想像が楽だろう。
よって、天国・地獄・無などということはない。
「いってらしゃ~い」と言われこの世に生まれ、「おかえり~」と言って迎えられる。この世にいる人間に内包する魂は、ほとんどが「霊界」という場所から来ている。人間の魂が属する世界である。この世界のことを天国と称したりもする。
他界の所属の魂は、霊界管轄の魂とは違い、いろいろな理由でこの世に転生している。
例えば戦争からの亡命であったり、気まぐれに趣味で人間に興味を持ち楽しむためであったり…。つまり、人間というものはこの世に生まれてくる目的など千差万別なのだ。一括りには言いづらい。
さて話を戻すことにする。ここでは「一般的な霊界所属の魂」という前提で語らせてもらう。
人は、死んだら霊界に行く。それは前述したとおりだ。ではどうやって行くのか。そこである。
人は死んだら「先導者」という者が迎えに来る。(来ない場合もある)よく「お迎えがきた」というのはこのことだ。おばあちゃんが、親が、妻が、というのはよく聞く話だが、果たして正解だろうか?
正解を言うと、「先導者」というものは決まっていない。誰が来るかはわからないのだ。
「え?おまえだれ?」
という人が来るときのほうが多いかもしれない。
では「迎えに来たよ、行こうか」と言われた時に「いやだ!」と言った場合どうなるのだろうか?
「いやだ!俺はまだ死んでいない!誰が帰るか!」
「ええ…困ったなあ」
ということになる。その場合、「回収者」というものがやって来る。コレが俗に言われている「死神」である。そう、死神というものは存在するのだ。少しワクワクしてきただろう。私もそれを聞いた時「ああ本当にいたんだ」とドキドキしたものだ。
死神は骸骨の面をかぶり黒い布を羽織ってデスサイズ(死神の鎌)をしているのだろうか、という当然の疑問。コレの正解を言うと、格好に決まりはない。いろいろな者がいるそうだ。
余談であるが、私の魂の母親にあたる人はものすごくババ…いえ、長命なのだがロリータ・ファッションを着てツインテールをしている。それを考えると、昨今のラノベであったり漫画などは実は意外と的を得ている作品とうものは多く存在する。作品を見てて「おお!よくわかったなあ!」と感心することもしばしばである。
さて、また話がずれてしまった。回収者の話に戻るが、回収者というものは「強制権」を持っている。税金の滞納者に国税局がやってくるということはよく耳にするだろうが、そういうことである。成仏を嫌がっている魂を強制的に連れていくことができる。
まず先導者が「迎えに来たよ、成仏しよう。ついてきてね」と優しく言い、ごねる魂に「オラァ!うるせえ行くぞ!!」というのである。究極の飴と鞭だ。実際はもっとキツい言葉を浴びせるようだ。
自殺、他殺、病死、寿命まど死に方にもたくさんあるが、死に方には関係なくこの二人はやってくる。
よく「自殺すると成仏できない」などということを聞くが、それは正しくない。成仏は前述通りできるのだが、そのあとが死に方で変わってくるのである。
ここで少しだけ触れておくが、人はカルマ(業)というものを背負って生まれてくる。それは前世等で背負ったものがあるのだが、そのカルマの中には「原罪」というものがある。聞いたことはないだろうか?
原罪というのは、人が生きていくために背負うカルマのことである。
人は、生きているものを殺し、そして食べて生きていく。そうしなければ生命維持はできない。殺すことが業であるなら、食べる度に背負うことになり、カルマ量はとてつもない量となる。なので、これらは「原罪」としてカルマの中でも別枠ということになる。すべからず背負う業である。
自殺、というものはこの原罪でないカルマ量がとてつもない多さになる。人は基本的にカルマの解消のために生まれてくるのだが、それが増えるのだ。人生も厳しい物になる。死んだあともつらいものになる。
「楽になりたい、もうこの世はイヤ」と自殺をするが、死んだあとは生きていた頃よりも何倍も何倍もつらいことになる。首を吊って死んだのならその苦しみは永劫に続き、飛び降りたならその衝撃の痛みも続く。俗にいう「自殺したらその自殺を繰り返すことになる」というのは本当である。
と、ここまで言うと「では自殺は悪なのか?」となってくるのだが、そうではない。まず善悪の基準というものはその世界が決める。私たち人間の倫理とはかけ離れたところに存在している。私たちにはわからないものだ。ただ、この人間の世界(この世)の倫理・善悪は存在している。私たち生きている人がそれを決める。生きている間に法律に反することをしたら罰せられるのは当然のことである。だがその罰が死後にも適用されるのかということは私たち生きている人間には計れない。
私たちは、いつか死ぬ。その時までせめて人生を謳歌していこう。
だからみなさん、人生を謳歌しましょう。