四話
やらなければならない。なら、やる。
そんな簡単に考えられないのが人間というもので。
やりたくないから、やりたくない。そっちの感情が勝るのは仕方がないだろう。しかし、そのままでいることが許される訳がない。いつかは向き合うときが来る。ならば今向き合おう。とは、いかないのが俺。
つまりは俺はこの日一日、ずっとウジウジと頭を抱えていた。辛うじて手を機械的に動かして、ノートを取ることには成功したものの、内容はまるで頭に入ってはいない。これは絶対にテスト前に後悔するパターンだ。自信がある。俺はテスト前になるまで、このノートを自宅で開かない。
授業が終わり、下校の時間。部活に所属する生徒は部室へと急ぎ、帰宅部は早々に学校から出る。
俺はというと、普段ならば掃除道具を取りに清掃器具庫まで駆けるのだが、今日は違う。素早く荷物を纏めると、俺は図書室への道を突き進んだのだ。勿論早足で。ただし走ってはいません。廊下を走るのは危険である。
図書室には今日も恐らく俺の好きな人がいるが、今日に関しては彼女に早く合いたいがために急いでいるのではない。いや、決して合いたくない訳ではないのだが、今回は純粋にその場所本来の目的で使用するためである。
目的の本は、いわゆる常識やらマナーやら、その他色々、失礼のないような礼儀作法が書かれている本である。出来れば図、もしくは写真が載っていると望ましい。両親の教育によって多少の礼儀はなっているつもりだが、完璧ではない。今こそスキルを磨くときである。
「─────どべッ!?」
人間誰しも、たまに階段で転ぶときがある。
あると思う。あってほしい。俺は恥ずかしくないはずだ。
「ふぉぉおぉぉおぉおおおお…………」
足元を見ずに、脳内で他事を考えながら歩くと危険。俺は十六にもなって、それを学習した。
強打した額を押さえて悶える。痛い。凄く痛い。
「──────────────大丈夫?」
「……あ、ああ。大丈夫です。大丈夫」
誰かに見られてしまったらしい。恥ずい。
「血、出てるよ」
綺麗な手が俺に伸ばされる。その上には、一つの絆創膏。
それを見て、抑えていた手が血で濡れていることに気が付いた。痛みで感覚が麻痺している。ついでにクラクラする。でも大事はないだろう。日々の嫌な経験からか、肉体の情報を判断して、状態を把握するのが得意になっていた。今回もその奇妙な技術で、怪我の具合を理解した。ちょっとだけ傷ついただけ。顔は血管が多いから、血が多く出ているだけだ。ありがたく絆創膏を張っておけば、直に治るだろう。
「すみません。ありが、とう?」
緊急事態発生。女神が目の前にいます。
「香木原君、意外と、ドジなんだね」
あああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああ!
よりにもよって、一番見られたくない人に! 恥ずい! とんでもなく恥ずい! そして情けないぞ俺!
「ふ、ふふふ文月さん。ありがとう! それじゃあ!」
俺は嘗て無いほどの高速な動きで、文月さんの手の平に存在する絆創膏を優しく受け取ると、駆け足で彼女から逃げる。廊下は走ってはいけない? そんなこと知るか!
「─────────大丈夫、そうだね」
気付けば俺は学校から外に出ていた。ドラゴンの事とか、礼儀とか、そんな小さな事は俺の頭の中にはもう存在しなかった。ただ、いくら恥ずかしいからって、ろくに感謝の言葉を送らずに逃げてしまったことを後悔し、そして手の中にある絆創膏の感覚を確かめて、今度どのようにお礼をするかで悩む。
その間にも額から血が流れていて、通りすがりの人からはギョッとした目をされるものの、俺はそんな視線には気付かずに、頭を抱えていた。
「どうすれば、俺はどうすれば!」
俺の中では、ドラゴンと対面するよりも、好きな人に嫌われないことの方が、大切で重要なのである。