十一話
竜庭。そこはドラゴンの住む場所。
招かれなければ決して辿り着くことは出来ず、その場所からドラゴンが外に出ていることを期待するしかない。しかしドラゴンが外に出ることは、非常に稀だ。不死に近い時間を生きるドラゴンは、常に安寧と平穏を求める。つまりは面倒事が非常に嫌いであり、何もしないという幸福を知っている生物なのである。外に出れば、多くの者が接触を図ろうとして来る。そんなことを、彼らが好むはずもない。
王子がドラゴンと出会えたことは、幸運であった。ましてやその場所に招かれたのである。もはや偉業の領域だ。
それを理解すれば、現状に誰もが驚く。先ほどの、人間達の悲鳴など大したことではない。
空を見れば、それが当然であるかのようにドラゴンが飛んでいる。それも単体ではなく、何百。いや、それ以上のドラゴン。竜庭にいる、つまりは現存する全てのドラゴンが、世界中の空を飛び回っていた。
遥か上空を飛ぶドラゴンは視界に映る範囲では、まるで鳥のよう。渡り鳥のように忙しなく翼を動かしている。
もう本当の鳥達は、決して空を飛ぼうとは思わないだろう。何故なら、あんなにも恐ろしく美しい存在が空を飛んでいるかもしれないのだから。恐怖と羞恥で翼は広げられまい。
そんな冗談を誰かが考えるほど、その光景は現実離れしていた。
「着々と準備は進んでいる。『箱舟』もまた、各地で完成しているようだ」
「はい」
「覚悟は出来たか? 異界の人間よ」
「既に」
王へ引導を渡したドラゴンと、聖女の会話は簡素だった。
ドラゴンによって語られた、この世界を救う方法。その方法を行うためには、異界からきた人間の力が必要であった。だからこその、この質問と回答。愛しい人が消える覚悟は出来たか。そして答えは、会話の通り。
禁術によって形が分解。ただの力となり、王の肉体へ。結合と昇華。そして、新たな形が生まれるはずだった。それが王子達とドラゴンの一撃によって阻止されたことにより、行き先を失う。
一度始まった大きな変化は止まらない。このままでは、形が無くなり、力だけが、ただただ彷徨うようになる。
ならば、形を与えよう。正確には、偽りを与えることによって、恰もそれがこの世界の形であるかのように錯覚させる。世界もまた、形を無くすことを望んではいない。止まることが出来なくて、焦っている。つまりは本来ならば王の肉体と結合するはずだった力を、別のものへ結合させるのだ。代用品を用意して、少し力を導けば、喜んで世界から手を伸ばす。
部分的にしか行うことは出来ないだろうが、それでも生物が住むための土地は十分にあるだろう。それがドラゴンの策であった。
代用品には何を用意するか。その答えは簡単に導かれた。
大地や森や海。その全てがそこにある。『繋がり』の、向こう側に。
「皆には、全て伝え終わったよ。今は、急いで『箱舟』へ避難している」
瞳を閉じて静かに佇む聖女。そこへ王子が駆け寄る。
当然のように、二人の距離は近い。
「そう。別れも済ましたのね?」
「アルには殴られてしまったよ。見てくれ、頬が腫れてしまった。最後なのに、それがお前にはお似合いだとさ」
「その通りよ。格好付けるなんて、許さない」
「酷いな。涙が出てきたよ」
言葉の通り、王子は涙を流していた。
「強い女は良い嫁になると聞く。きっと君の夫となる人は、幸せになるだろうね」
「当然よ。世界で二番目に、幸せな人になる」
「一番目は?」
「私。そうなるような人としか、私は一緒にならないわ」
「仕方がないね。君を嫁にするなら、それ位のことは成し遂げなければ」
聖女もまた涙を流す。いつの間にか二人の手は繋がれていて、いつの間にか二人の唇は触れ合った。
「幸せに」
一瞬の後、聖女から離れた王子は、彼女に背を向けて歩き始める。
彼は『人間』であった。そして次代の王であった。ならば最後まで、『王子』であり続ける。それが彼の選択。
聖女は決して、王子の姿を眼で追うことはしなかった。
「よいのか?」
「ええ」
光が溢れる。次第に、聖女の視界に映る全てが、薄く曖昧となった。
唯一鮮明なのは、隣に存在するドラゴン。纏う光が別種。それが禁術への結界になっているのだ。
「では私もまた帰ることにしよう。そなたと違い、私達はこの世界の生物。今は耐えているが、このままでは、消えてしまう」
「協力、感謝します。ドラゴン」
「虚言はいらぬぞ」
ドラゴンは大きな翼を広げると、風に舞う綿毛のように自然と空へ浮かび、空へと飛んでいった。風圧は何も感じない。もしかしたら、彼なりの謝罪なのかもしれないと、聖女は感じた。けれども彼女にとって、それはどうでもよいことであった。
空を見上げると、夜空に新たな複数の月が現れたかのようであった。大きな一つの光と、それよりも小さな複数の光。前者が竜庭で、後者が『箱舟』である。
竜庭はこの世界に存在しながらも、別の世界に存在する場所。つまりは作り出された、小さな偽りの世界。禁術による干渉も遮断されている、安全地帯。『箱舟』はそれを模して作られた魔法。一時的なものにはなるが同じく禁術からは守られ、新たに形が作られる世界への架け橋となる。正しく、箱舟。
気付けば空には光しかなかった。星もなければ、月もない。夜の闇すらなかった。
下を見れば地面も存在しない。しかし不思議と地に足を付けているように、聖女は立ったままだ。
『さぁ、私達の役目を果たしましょう』
同郷の仲間達へ言葉を伝える。そして、自身の力を集めた。
聖女は黙々と作業を進めていく。勤めて冷静に、胸に込み上げる感情を忘れるように。
このとき、既にこの世界の人間は消えてしまっていた。
そして新たな時代がやってくる。偽りの大地に生きる時代、彼女達が、魔王と戦う時代。
箱舟の中から、その様子を眺める一人のエルフは、決してこの光景を忘れることはないと悟った。