九話
王子は子供の頃、空をよく見ていた。
果てしなく広がる青い空。そして優雅に飛ぶ鳥。当然のように、王子は彼らに憧れる。ただ王子は知っていた。
人は決して、鳥にはなれないことを。
ならば、高い場所に行こう。自分が行ける、一番高い場所へ。
普通の人間と、王子が違った所は、そういう所であった。王子は幼い頃から、進む力を手にしていた。
その日から王子は世話使いの目を掻い潜り、城内を駆け回った。王子にとって、初めての冒険であった。城内には、万が一に備えて数多くの秘密の通路が存在する。それを探り当てて、先に進むことが楽しかった。頭の中で描かれる地図が、日に日に広く、鮮明になっていく。その地図が、幼い王子の誇りであった。
しかしその場所に辿り着くことは出来ない。どれだけ探検を重ねても、その箇所だけは空白のまま。
城の全てを知る者。即ち王であり、自分の父に聞くことは、王子にとって譲れぬ一線であった。その手段だけは取らぬように、最上の広間へと辿り着きたかった。意地になった王子はがむしゃらに城内を駆け回る。気付けば、時は経っていて、自分がその場所への興味を無くしていることを理解した。
だから王子は尋ねた。あの場所へはどうやって行くのかと。
すると王は応える。それを知るのはまだ先であると。
王子は、その場所に辿り着いた。
知るのは、今なのだ。
「父が死んだ。母が死んだ。妻が死んだ。そしていずれ、私も死ぬ」
「それが生き物の、定めです」
「だから抗うのだ。私は永遠となる」
「他の全てを犠牲にしても?」
「そうだ。全てを喰らう。しかしそれは罪ではない。それこそが『人間』に授けられた祝福。恐れずに、前へと進む力」
「私を、犠牲にしても?」
「とても苦しい。私はお前を愛していた。だが、お前は裏切った! 私の愛を踏み躙り、私の『先』を、破壊しようとしている!」
世界は光で満ち溢れていた。禁術が、その効果を発揮し始めたのだ。
「どうしてそれがいけないの? 私はそう問い掛けました」
憧れ続けた最上の広間。憧れ続けた、最高の父。
自分があの時、疑問を問いかけなければ、今頃どうなっていたのだろう。
「貴方は私を叱りました。私はそれを理解しました。そしてそれを知りました」
止めよう。もう、止めよう。
後悔なら、何度だってしよう。私はそれだけの過ちを犯していた。
「この世界は、一つであることを知りました。奪うことが、罪であることを知りました。そして、私達は咎人であることを知りました」
だが、決して。決して。
後ろに下がることは許されぬ。『人間』の力は進む力。歩を止めれば、もう何者でもないのだから。
「もう、十分でしょう。これ以上を、罪を重ねてなんになるというのですか。私達は、多くの罪を重ね過ぎた。新たな道を進むべき時なのです。贖罪の道を、進むべき時なのです」
「黙れ! 愚かな息子! 偽善を振りかざすのはもう止めろ。貴様のそれは、進んでいるのではない。後退だ! 私は常に罪を重ねて生きてきた。国民のために! くだらぬ有象無象のために! 虫唾が走る! ただの偽善だ! 罪によって何かを守るなど、そんなことは出来ない。新たな罪を重ねるための、切欠を生み出しているに他ならない! 私の進み方は、『人間』の進み方は、唯一その方法であるということに他ならない! ならば私は、先に辿り着くために、最上の罪を犯す!」
「貴方こそ、どうしてそれが後退であることに気が付かない! 貴方のそれは、壁からの逃亡だ! 進むべき道にある、超えるべき壁を恐れ、恐怖で生み出された偶像から逃げている! 最も簡単な逃げ道を! 後ろにある、これまで刻んだ、確かな罪の足跡を! 進むべき道であると己を偽り、後ろへと逃げ続けているんだ!」
進もう。壁を登ろう。
諦めるのはお仕舞だ。逃げるのはお仕舞だ。
馬鹿馬鹿しい、理想を見るんだ。嘲笑を受けろ、罵倒を受けろ。
夢物語を、真実の記録へ。
「黙れぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇええええええええええええええええええええ!」
「理想は語らなければ、目指すことすら叶わない。それほどに遠い場所だ。それでも大丈夫なんだよ、父さん。だって僕達には、進むための力があるじゃないか」
世界の力を受けた、王の剣は神速の領域。
しかし広間には、鉄と鉄が激しくぶつかり合う音が木霊する。
それは単に、愛する者の力。彼が愛し、愛された、聖女の力。その力が王子を包み込み、王へと追いつく。
「例え一人では無理でも、沢山の仲間がいれば何通りもの方法が浮かび上がる」
「それでも駄目なら、子に願いを託しましょう。何代先も、その想いを継がせましょう。きっと、いつか。私達の『末裔』が、壁を越えるための、正しい答えを見つけてくれる」
「導こう。僕達の子を、前へと導こう」
「信じましょう。私達の子の、進む力を」
王子の形勢が不利になる。すると聖女が剣を抜き、彼に加勢する。
二人の息は、まるで元々一つであったかのように。鏡によって映されたかのように。
「これはそのための、最後の罪だ」
重なり合い、王を貫いた。
「はははッ! は、ははは! たかだか剣で、今の私が、こ、殺せるとでも?」
心臓に剣が刺さってた。そこから即死量の血を流し、足取りは覚束ない。ただ、生きていた。
「剣で山を砕けるか? 剣で森を切り倒せるか? 剣で海を涸らせるか? つまりは、そういうことだ。世界はもう、私が消えるのを拒絶している!」
とても、惨めな姿であった。まるで、死にながらに生きているようだ。
早く楽に、してやりたかった。それが、子である自分の、定めであると理解した。
「ははは! 私は、死なない! 不死の存在へと至ったのだ!」
「果たして、そうでしょうか?」
「──────────────────何?」
禁術が発動した今。自分で王を殺すことが出来ないのは、王子も理解していた。
しかし心臓に剣を刺したのは、王子なりの、『けじめ』であった。
何せ間接的とはいえ、王を殺すのは、自分に他ならないのだから。
「山を砕き、森を焼き払い、海を涸らす! それが可能な生物が、この世界には存在するではありませんか……! 至高なる存在! 絶対なる存在! あの方々もまた、この世界に生きている!」
ならば、この事態に動かぬはずがない。
いや、本来ならば、それでも動くことはなかったであろう。
重い身体を動かしたのは、王子と『救世主』達。『人間』であった。
「偉大なる──────────────ドラゴン」
「──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────ッ!」
視界に映ったのは、前足。
天井を砕き、現れたその足は、王を踏み潰す。
ただ、それだけであった。
「…………」
直前に、王が呟いた、名。
それが誰のものかは、永遠に知る由もない。