三話
自分には何も出来ない。一人では何も出来ない。
精々逃げる前に小細工をして、禁術を妨害しただけだ。本格的に発動するのも、時間の問題。
仲間が必要だ。『人間』ではない、他種族の仲間が。
王子は理解していた。それがいかに無様で情けない行動であるのかを。
国の追っ手から逃げ切った王子は、川を水を飲んで暫しの休息を取る。そこで見た、水面に映る自分の姿! ……なんという、醜い姿なんだろう。王子の容姿が悪いのではない。泥が顔に付いていたからでもない。
自分は、『人間』じゃないか! 愚かで卑しい『人間』なのだ!
知っているはずだ。自分は全てを知っているはずだ。無から有は生まれない。発展には、犠牲が伴う。
『人間』は、『人間の王国』は一体何を犠牲にした? 一体何から、誰から、奪ってきたというのだ!
それなのに、困ったから助けてだと? 下らない下らない下らない!
どれだけ自分は愚かなのだ! どれだけ自分は卑しいのだ!
こんなものが、こんなに醜い存在が、何故今までのうのうと生きていたのだ。
こんなモノ、消えてなくなればいい!
王子は剣を抜いた。そして、水面に映る自分を切り刻む。
勿論意味はない。ただ王子はそうするしかなかった。自害などという、最も愚かな選択を選ばないように。その誘惑に負けぬように。自分は汚いまま、更に罪を重ねるために、前へ進まなければならないのだから。
瞳から流れる液体を無視した。喉から零れる音を無視した。
まずは、エルフだ。
もっとも長命であり、もっとも深い知恵を持つ彼らは、他種族からも一目置かれている。彼らを味方につければ、ドワーフやホビット、ビーストの説得もまた容易になると王子は考えた。しかし同時に、彼らは最も説得が難しいであろう種族であった。彼らは気難しく、森の奥深くに住み、決して出てこない。知恵を授けてくれたとしても、王子の構想する、『他種族による、人間の殲滅』において、直接的な力を貸してくれるとは思えなかった。
だからといって、諦めるわけにはいかない。
彼らの卓越した魔法は、戦場において絶大な戦力となる。
自分が理解することが出来なかった、禁術を止める力にもなってくれるだろう。
王子は笑う。自傷の笑みだった。
どこまでも自分は、汚いらしい。
剣を収める。もう王子の心に、迷いはなかった。
汚れたままでいい。寧ろもっともっと、汚れてやる。それが『人間』である、自分にはお似合いだ。そしてその汚れきった手で、全ての人間を冥界へと引きずり落とす。それが『人間の王国』の『王子』である、自分の役目なのだから。
森は深い。
日の光は葉によって遮られ、僅かな隙間から漏れる光のみが、王子の頼みの綱だった。更に、生い茂る草を掻き分けるのに多くの体力を消耗した。エルフは森が傷つくことを良しとしない。森は彼らの故郷であり、家であり、身体の一部。これから助力を頼もうとするのに、態々無礼な行いをするわけにはいかない。切れ味の良い自身の剣で薙ぎ払うことは出来なかったのだ。
見たこともない草木。そして時折出会う虫。どれが自分へ害を与えるのか分からない。
この世には噛まれてしまえばたちまち死に至る毒虫がいるというし、触れれば皮膚が焼けるようにただれる植物が存在しているという。今自分の周りにある植物や、目の前を飛んでいる虫がその限りではないと誰が信頼できるのだろうか。いっそ、そんな知識がなければ、臆せずに進めただろうに。王子は自身を怨んだ。
しかし王国で読んだ書物の中に、食べられる果実が書かれており、王子はそれを食して飢えを凌いでいた。決して彼が今まで得てきた知識は無駄ではない。
王子は肉体的にも精神的にも疲れきっていた。
動物達には注意を向けていなければいけないし、何より自分が辿り着くべき場所が分からないのだから、それも無理のないことだ。
そう、エルフがこの森の何処に住んでいるかなど、『人間』である王子には分からない。エルフ意外に分かるわけがない。何せ交流がないのだから。ただ漠然と、森の奥に住んでいることが判明している。
王子にとってはそれだけが指針。ただひたすらに先へ、奥へと進む。帰りる道のことは、王子の考えにはない。エルフと出会えて、強力を得られればきっと案内をしてくれる。他力本願。情けないとは思う。それでも進む。他者の力を、エルフの力を得られなければ、自分の目的は叶わないのだから。
木漏れ日が赤く染まっている。夕暮れだ。
周囲を見回し、身を隠せる場所を探す。夜に獣に見つかれば、ひとたまりもない。夜目の効かない人間である王子は、夜中はただ身を隠してその脅威から逃れるしかない。獣は火を恐れるが、同時に森を傷つける結果になっては堪らない。
自分の命よりもエルフとの親交を得ることを優先する王子は、背負っていた毛布を身体に巻きつけると一本の立派な木に寄りかかった。鼻にツンとした、刺激臭が通る。不愉快だが、我慢できない程ではない。破魔の霊樹と呼ばれるこの木は、虫や獣が寄り付かない臭いを常に発している。絶対ではないが、安心出来る。生きているこの木に出会えるのは珍しく、王子は自らの幸運に微笑んだ。
剣を抱き、座って身を小さくしながら目を閉じる。すると直に睡魔が襲ってきた。
まどろみの中で過去の情景が浮かび上がる。それは自分に微笑みかける、父の姿。自分を慕う国民達の姿だった。
座って眠ったからか、身体に痛みが走り王子は目を覚ました。目覚めは決してよくはない。夢見もよくはなかった。
「ようやく起きたか」
瞳に入ったのは光だった。王子はそれが朝日だと思った。しかし、それにしてはおかしい。
日は上から降り注ぐもののはずだ。なら何故、一直線に光が飛び込んでくる?
矢だ。
理解した瞬間。王子の動きは、寝起きとは思えないほど俊敏なものだった。風が予知できずに頬に触れるように、王子が体勢を整えて右手を剣の柄に添えるまでの動きは、予知など誰にも出来ない。気付けば、そうなっていた。
「動くな!」
王子が動きを止めたのは、警告を恐れたからではない。やろうと思えば、矢が放たれる前に剣を振るうことは出来た。しかし王子はそれをしない。してはならないと、一瞬の内に理解した。
なんということはない。気付いたからだ。
目の前の男。朝日に照らされた男の耳は鋭く尖っている。
それだけ見れば、王子にとっては十分過ぎる情報だった。
間違いない、エルフだ。
「問おう。お前は何をしに、この森へやって来た?」
「──────────罪を、重ねるために」
若きエルフ、アグレルファーが始めて出合った『人間』は、とても綺麗で濁った目をしていた。