七話
今までの人生で、最高だった瞬間を言え。と、いう課題があったら。俺は間違いなく今この時間のことを話そうと思う。一瞬じゃねぇ。とか言われたって構うものか。
俺は今幸せだ。好きな娘と会話をしているんだぞ? それも二人っきりで。もうどうすればいいのか。この幸福な気持ちをどうすれば他人に伝えられるのか。いや、伝えてなんかやるものか。これは俺だけの幸せだ。誰にだって渡さないぞ。
「あの本、おもしろい?」
あの本と言われて疑問符が浮かんだが、彼女は俺が本を読んでいる所を見ており、その彼女の記憶の中で俺が読んでいる本は、一冊しかない。はずだ。少なくとも俺はこの学校で本というものを、一冊しか読んでいない。正確には一冊目の本を読んでいる最中。
昔に書かれた、いわゆる、ファンタジー小説。
そこにはまるで見て来たかのような、リアルな異世界の姿が書かれていた。
平和な世界。平和な日常。
ある日、そこに闇が忍び寄る。
世界は混沌へと堕ちて行く。
そこへ現れる、光の使者。
彼は『勇者』と呼ばれ、世界を光へと導こうとする。
そこまで、俺は読んでいる。
決して長過ぎることもなく、それでいて読み難くもなく。
非常に読者初心者にオススメな本なのは分かるのだが、読むのに長い時間を掛けてしまうので、前の内容を忘れてしまうことが多い。俺はこの本を、何度も最初から読み直しているのだった。
俺はそのことを恥ながらも喋る。文月さんはそんな俺を聖母のような優しい目で見つめると、言葉を返してくれた。
「ゆっくりで良い。だから、読んで。とっても、オススメ」
知っている。
だから読んでいるんだ。
文字を読むのは苦手だ。疲れる。だから俺は殆ど本を読まない。
でもあの本は別。何故なら好きな人が好きな本だから。
まるで初恋をした乙女だ。高校生男子が考える内容じゃない。
心の中で、自分に苦笑する。
目の前の彼女は、たまに図書室であの本を手に取る。そして、普段の落ち着いた雰囲気とは真逆の、無邪気な子供の様な笑顔を見せるのだ。
だから知りたいと思った。彼女がそんな表情を見せる、物語を。
「彩〜! ごめん、待たせた!」
遠くから聞こえてくる、活発的な声。きっと彼女が、文月さんと帰る友達だろう。
ピリリリリという無機質な着信音。俺の電話からだ。
一人の声と、一つの音はまるで合図のよう。
残念ながら、この幸福な時間は終わりなのだと理解した。
「じゃあ、また、明日」
「あ、うん。また明日」
文月さんは背を向けて、友達の方へと歩き始めた。
「あの、絶対に読むから!」
使命感に駆られたのだろうか。自分でも分からない。
気付けばその背にそう声を掛けていた。
文月さんは、俺の言葉に振り向く。
「感想、待ってる」