九話
電話が鳴った。無機質でシンプルな着信音。急な音に驚いて、体がビクンと反応してしまう。誰も見ていないのは分かっているけれど、何となく恥ずかしい。
鞄の中に入っていた携帯を取り出す。画面を見ると、救太からだった。
『助けてくれ!』
開口一番の台詞は、まさかの展開であった。
「どうした?」
『あいつが出た! 俺だけじゃあキツいから手伝ってくれ!』
「───まさか、『食べ過ぎ』か?」
「そう! 至急手を貸してくれ!」
マジかよ……。
俺は額に手を当てて項垂れた。
「────────あいつじゃあ、仕方ない。今から向かう」
「助かる!」
余程慌てているのか、俺の返事を聞くや否や、救太は電話を切った。
「はぁ」
秋だもんなぁ。出るよなぁ、そりゃ。秋だもん。
自室から出て階段を降りる。サンマの焼けた臭いが食欲を引き立てる。めちゃくちゃ食べたい。醤油と大根おろしを添えて。ああ、食べたい。
しかし、そんな余裕はない。
「あら、灯路。丁度いいわ。ご飯、出来たわよ」
「──────嬉しいけど、無理です」
「え?」
「……魔王、か?」
父さんの問いに無言で頷く。そして救太の担当するエリアに『食べ過ぎ』が出たため、助勢をすることを伝えた。
「そう。私はよく分からないけれど、頑張って来なさいよ!」
母さんは『末裔』ではない。故に魔王がどんなものかは知る由もない。けれども、結婚した後に父さんが話た、夢物語のような、繋がっている世界の話を信じている。そして俺の背中をかなりの勢いで叩いてくれる。痛い。でも、やる気は出た。こうゆう所が、父さんが自分には勿体ない嫁だと言い続けている理由なんだろうか。
「じゃあ、行ってくる」
出て来たやる気を、自分の中で何倍にも膨れ上がらせて、自分を鼓舞する。
そして玄関に向けて歩こうとした所で、黙っていた父さんが声を掛けてくる。
「灯路」
「何、父さん?」
「いつも僕が言っていることは、覚えているね?」
「───────────うん。勿論」
「そうか、ならいい。行ってこい」
俺は玄関の扉を開けて、外に出た。駐車場に置いてある、今のような急用で使うための自転車を取り出し、股がった。足に力を込めて一気に自転車を動かすと、体に冷たい空気がぶつかる。それを感じながら町の中を走り続ける。目標は、LINK。
『末裔であることを忘れるな』
「分かってるっての……!」
体が運動で暖まる。煩わしかった空気が、体を突き抜けるのが心地好い。
心の中に籠っていた、複雑に絡み合った何かもまた、消えていくような気がした。
世界地図が一枚あるとして。その地図を見た時に、大抵の人間は未完成であると考えるだろう。もしくは遊び心がある人が、ちょっとした戯れに作ったと思う人もいるかもしれない。
しかし、半世界の地図が存在するのなら、それが正しい。
バグによって壊され、修正された世界は不安定。複数の大地のある場所がエリアとして区別され、エリアとエリアの間は存在しない。地図にするならば、紙には複数の円があり、そこには地図が書かれている。それ以外は、白紙。そんなふざけているとも言える地図。
住人は各エリアに存在する転移魔法陣を利用して、隣接するエリアへと移動する。遠くのエリアに行こうとするならば、魔法陣を使って一つ一つエリアを経由しなければならない。よって、住人は自分の住むエリアから移動することはとても稀になった。ククのように他のエリアへ仕事をしに行くこともあるが、それでも隣接もしくは二つ先のエリア程度。
そもそも金のやり取りを非常に便利だからという理由で行っているだけで、本来住人達は物々交換によって生活することも可能なのだ。それも、トラブルなどなく。
籠の中の鳥のようだ。彼らには境界線なんてなく、どこへでも駆け抜けることは出来たはずだ。
『俺達』は、どこまでも罪深い。
「どうしたんですか末裔様? そんなに急いで」
「食べ過ぎた!」
「へ?」
「間違えた! 救太の担当するエリアに『食べ過ぎ』が出たんだ! 今から手伝いに行く!」
「そうですか。頑張ってくださ〜い」
LINKの店員さんの応援を背に、俺は店から飛び出る。
末裔の力を凝固。救世の武器、ただの杖を召還。必要最小限のマナを供給。魔力を練り上げ、瞬時に飛行魔法を発動。サーフボードのように杖に飛び乗り、魔法で作り出す空気の波に乗る。
「末裔様〜」
「花火やって〜」
空を飛ぶ俺に、地上から声が掛けられる。声が幼い。チラッと見た情報から判断すると、ビーストの子供達だろうか。これでもかなりの速度で飛んでいるはずなのだが、その動体視力の高さはさすがにビーストといった所だろうか。
俺は彼らがいるであろう場所の上空に向けて、魔法を放った。
ヒュンという空気を切る音がしてすぐに、破裂音が鳴る。すると上空に綺麗な彩色で書かれた『野菜もしっかり食えよ!』の文字が現れた。因に音は演出である。勿論うるさ過ぎないように十分に配慮した。
地上から笑い声と歓声が聞こえる。遠視の魔法で見ると、子供達と幾らかの大人は渋い顔をしていた。彼らは全員、肉食系のビースト。総じて野菜嫌いな面々である。いくら肉食系のビーストだからといって、野菜を食べれないことはない。寧ろ、野菜を適度にとった方が体に良いのは、この世界の医療が証明しているのである。
だから文句を言わずに食べろよ、子供達。あと、少数の大人。
そのまま飛行魔法で長距離を短時間で移動すると、大きな壁が視界に入る。これが、エリアの端。この壁のようなものが、エリアを覆っている。ただ天井は見えない。高さがかなりあるのも理由の一つだが、大規模な魔法で虚構の空を作り上げているからでだ。
地上へ降りる。公民館を利用した施設の中へ入った。ここが、転移魔法陣を設置している場所だ。また、ここは魔王対策避難用転移魔法陣の移動先の一つでもある。魔王による被害から避難してきた人々はここにあるエリア転移用魔法陣を利用して安全な隣のエリアへと移動するか、もしくは俺よりも魔法の操作が上の父でさえも破ることのできない強力な結果魔法陣を発動し、篭城するのである。
他のエリアに避難しに行く場所がこの場所ならば、他のエリアから避難して来るのもこの場所。
つまり現在。救太が担当するエリアから避難して来た人々でごった返していた。そのため俺は、末裔専用の通路を通って、『行き』のエリア転移用魔法陣まで走る。
「救太から助勢を依頼された灯路だ。転移を頼む」
「了解いたしました」
魔法陣のある場所にいた無表情の職員達との会話はこれだけだ。他に移動しようとする者は、勿論いない。なので顔パスで終了である。
暖かい光が床に書かれた魔法陣から溢れ出る。
体が光の中へと溶け込んで行く。世界からマナを供給するときと、同じような感覚だ。
決して悪くはない。寧ろ、心地好い感覚。
「頑張って下さい、末裔様」
転移する瞬間。無表情だった職員達が、笑顔で俺に手を振った。
「勤務中は、私語は厳禁じゃあなかった?」
俺が担当するエリアの住人達は、どうしてこうも不真面目な連中ばかりなのだろうか。
「────────頑張るよ」
職員達は、ニヤリと笑った。