八話
自慢ではないが、我が家は一般的な家庭よりも裕福である。
暮らしている家の敷地も結構広い。我が家の父が贅沢をすることが好きなのではなく、母の家庭菜園をしてみたいという強い要望により広い庭を作ったことが原因なのだとか。俺としては新鮮で上手い野菜が食べられるのだから、嬉しい限りである。
頑丈そうな門を開けて、家の玄関へと歩く。センサーが反応して、照明が俺を照らした。節制を心がける父だが、職業柄もあり、防犯のためならば金を惜しまない。今も照明によって姿がはっきりとしている俺を、カメラが捕らえ続けている。
玄関の扉はオートロック式で、カードを読み込ませるタイプ。それとピッキングが不可能とまで言われている最新式の鍵である。注意しなければならないのは、取っ手の付近に付いている鍵穴はデコイで、本当の鍵穴は足元にある目立たないもの。それを開錠してから、カードを通すのだ。そうしなければ鍵は開かなくなってしまい、父の持つスマートフォンにその旨を伝える連絡が届く。
父はスマートフォンを操作することで、現在俺を映している監視カメラの映像を見ることができる。映し出される人物が、いわゆる間違いを犯してしまった人間ならば、容赦なく御用。という仕組みになっている。
俺はその手順を間違えることなく扉を開けると、家の中へと入った。
「ただいま〜」
ふと玄関の靴置き場を見ると、見慣れた黒い靴。
「おかえり」
聞えた声は、いつもと違って二つ。
女性らしい高い声と、女性曰く、俺とそっくりだという男性の声。
俺はちょっとだけ、早歩きになった。
「父さん。帰ってきてたんだ」
居間への扉を開けると、ゆったりとしたソファーに腰を下ろした中年男性の姿。
「ああ。仕事が片付いた」
香木原甲。あのエリアを担当していた末裔としての先輩でもあり、現在は現役の刑事である、俺の父さん。
詳細は聞いても応えてはくれないが、どうやらそこそこ重要な地位にいるらしい父は、我が家に帰ってくることは非常に稀だ。小さかった頃の俺は、父と会えなくて寂しくなり、情けないことに泣いてしまったこともあったらしい。勿論現在はそんなことはないが、やはり小さい頃からの習慣か、今も少し興奮している。
俺にとって父に会えるということは、特別なことなのだ。
「もう。甲さんったら、連絡もしないで帰って来たのよ? おかげでご馳走を作れなかったわ」
台所から不満げな声を上げたのは、我が家の母。
「悪かった。しかし、五実さんの作る料理は、僕にとっていつもご馳走だよ」
「あぁぁん。甲さんったら、いつも上手なんだから〜」
体をくねらせるなよ、40代……。
「あ? 何か言ったか?」
「いえ、何も」
ええ。何も言っていませんよ。思うだけです。
「そう? なら、甲さんのために私張り切るから、夕飯はもう少し後になるわよ」
「分かった。今日の夕飯は何?」
「秋の味覚のフルコース! 栗ご飯に、サンマの塩焼き、焼き茄子に、何と貰い物の松茸様を使ったお吸い物!」
「おお! それは楽しみ。因みに父さんが帰ってこなかったら?」
「カップラーメンでも食べとけば良いんじゃない?」
「───母さん。俺、母さんの息子で良かったよ」
「ありがとう。お母さんとっても嬉しいわ」
冗談を言い合える家族。とっても素敵。
──────────冗談、だよな?
「相変わらず仲が良い様で、僕はホッとしたよ」
「え? ………う、うん」
微笑む父。笑う母。そして微妙な顔の俺。
明日の食卓にカップラーメンが置かれていないことを祈るばかりである。
「じゃ、じゃあ部屋に行くわ」
魚の骨が喉に引っかかったときのような、やるせない気分になりながらも、居間を出た俺は階段を上り二階の自室へと入る。
俺は部屋に基本的に物を置かない。部屋の中には寝るためのベッドに、勉強用の机と教科書を入れる本棚。そして服やその他様々な小物を入れるためのタンスのみである。
男子高校生が持っているであろう漫画は、LINKに毎日行く俺にとってわざわざ買うようなものではないし、テレビゲームはやる時間が無いからいらない。ゲーム機で持っているのは、何処でも手軽に起動できる携帯ゲーム機だけである。
俺は鞄を置くと、寝巻き兼部屋着である使い古したジャージに着替え、ベッドにダイブした。この瞬間が何となくだがとても幸せな気がする。
十分に幸せを堪能すると、部屋の窓を開ける。
秋の冷たい風が部屋の中を包み込み、甘い香りが俺に届く。金木犀だ。家の庭にも植えてある。この特有の芳香が俺は好きで、ベッドに寝転がりながらその香りを楽しんだ。
秋だな。しみじみと、そんなことを思う。
こうしていると、何もかもが夢であるかのようだ。
異世界があることも、魔法があることも。
そこで暮らす人々がいることも、そこに友人がいることも。
魔王を倒していることも、明日もまた、そこへ行くことも。
もちろん記憶の中には住人達の笑顔が深く刻まれている。彼らとの一時は、俺にとって人生の宝となっていくだろう。まだまだ短い人生だけれど、そのくらいのことは分かる。だってこの記憶達を思い出すだけで、口元が緩んでいる。心が暖かくなる。これを幸せと呼ばずになんと呼ぶんだ?
でも、記憶に形はない。この手で実際に触れることはできない。
それが酷く俺を不安にさせる。
腹の立つ魔王達と戦うとき、あれほど俺を助けてくれたマナを感じることはできず、マナの存在しないこの世界では、体に残していた魔力もまた消えてしまった。まるでそれが存在していたのが嘘だと言うように。
いや、この世界ではそれは嘘と言って相違ないのだろう。
本来ならばあの場所との繋がりは存在せず、俺はただの情けないガキであったはずだ。そして、当たり前のように幻想への憧れを抱いていたのだろう。異世界に言ってみて〜。と、救太あたりの友人と話ていたはずだ。下手すれば俺は、いわゆる痛い男になっていたかもしれない。
末裔として感じられる、あの世界との繋がり。
それが唯一、今の俺が、妄想を作り出してしまった痛い男ではないことを証明していた。幸せが虚構ではないことを証明していた。
俺にとってそれは喜ぶべきこと。しかしそれは、あの世界の彼らにとって良いことなのか?
答えは決まっていた。それを俺は知っていたはずだ。例えそれが、今あの世界に住む優しい彼らが頷く答えではないとしても。末裔である俺の答えは、決まっていた。
『俺達』がいなければ、あの世界は半分にはならなかった。
そして繋がることも、魔王が現れることもなく。彼らは元の大地と自然と共に、暮らしていたはずだった。この風のように、四季の流れを感じられる土地もあったはずなのに。
バグだったのだ。『俺達』は。
今のあの世界は、バグによって壊されてしまったのを継ぎ接ぎに作り直して、バグが存在するのを、あたかも正常であるかのように見せているだけ。壊れたものは、壊れたまま。
何もかも。元のままの方がいいに決まっている。バグなんて、消してしまった方が良い。
願いを叶えられるなら何を叶える?
魔王を消すだけじゃたりない。俺達もまた、いる必要が無くならなければ。
『全て、元通りの大地へ』それが俺の願いではなくてはならなかった。
俺は俺なのだから。俺は、末裔であるのだから。
────────でも、もし。もしも、仮定の話として。俺が俺でなく、別の俺として、ただの個人であの世界に行けて、あの世界で彼らと出会ったら。別の俺は、どんな答えを出してどんな願いを願うのだろうか。
ああ、くだらない。そんなことはありえない。意味も何もない。
だがあえてそれを考えるなら────────────────。