三話
長く住んでいれば何か体からカビが生えてきそうな気がする、相変わらなボロボロのアパート。
そんな安っぽくて不潔な感じが何かピッタリな、見た目だけは良い引きこもりドワーフ。
「ぐひひっひひひひひいっっひ!」
「いい加減、その気持ちの悪い笑い声を止めろ!」
「だってありがとうって、言われたんスよ。これはもう──ぐひひひっひ」
「ぁぁぁあああ! 黙れ黙れ黙れ!」
テンションが以上に高まっている俺は、幸せを分かち合ってやるために、そんな残念ドワーフにこの喜びを伝えてやろうとしていた。しかし有ろうことか、その伝えようとしている相手は俺に黙れと言う。
これはいったい、どういうことか。
「何故だ。俺は純粋に、お前に幸せを届けてやろうとして、だな……?」
「それが迷惑だって言ってんだよ! てめぇの惚気話で幸せになれるわけがないだろうが! だいたい、家に送り届ける話はどこに行ったいんだよ!」
「ああ、それは大丈夫だ。空手をやっている友達と帰るそうだからな。あのときはまだ明るかったし、二人で帰ればまず問題はないだろう。少し、残念だったけどな」
「お前、その友達って……。もしかして、彼氏なんじゃね?」
「え?」
───────うそ、だろ?
「───────────────いやいやいや。ないないない。うん。だって、うん。ないよ。それはないよ。うん」
サァッと顔から血が引いていくのが、自分でもよく分かった。
あれほど俺を鬱陶しそうにしていたマリーナだったが、現在俺に向ける顔には哀れみしか籠っていない。
「だってお前、空手をやっているとか、普通で考えたら男じゃね?」
「いやいやいや! 女性が活発的になりつつある昨今、女性が空手をやっていたとしてもいいじゃないか! おかしくなんかないじゃないか!?」
「じゃあお前、その好きな娘が学校一の美少女とか言ってるが、それが事実なら彼氏がいたっておかしくはないんじゃないか?」
た、確かに。あれほどの美少女を、性欲の化け物のような男子高校生が放っておくのか?
完全にないとは言い切れない。彼女の評価を低くする同級生共を見くびっていたが、俺と同じように彼女の魅力に気づく者がいたとしても、不思議ではない。
むしろ、そう考える方が、自然。
「マジかよ……。何で気がつかなかった、俺。その可能性の方が、高いじゃないか」
頭がフラフラする。立っていられない。思わず俺は床に手をついた。
「ヒロ……」
優しい声で、名前を呼ばれた。ポンと、肩を叩かれる。
顔を上げると、微笑みを浮かべたマリーナの顔があった。
ああそういば、俺はこいつのことが好きだったんだ。
その顔を見て、そんなことを思い出す。とても懐かしい記憶だ。何故か俺の頭の中では、黒い歴史として封印をされていたけれど、一体どういう理由からだろう。こんな素敵な女性を好きになったんだ。胸を張ったっていい。
『これから頑張れよ。小さな末裔様!』
あの言葉が、幼い俺を奮い立たせた。
当時の俺は、末裔とかいうことはよく分からなくて。魔王とか魔物とか、きっと嫌で辛くて苦しいことだと思ったけれど。それが、彼女のためになるというのなら。前に進むことが出来た。
末裔としての俺の原点は、彼女なのだ。
彼女がいるから俺がいる。
それは香木原灯路としての、揺らぎない真実。
マリーナ・トゥトゥルは、俺の始まりなんだ。
彼女の整った顔は、ニヤリと卑猥に歪んだ。
「ざまぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああ!!」
「黙れ黙れ黙れぇぇぇぇええええええええ!」
─────────そうだ、この女は俺の始まりだった。そして同時に終わりだった。
純粋な少年であった香木原灯路の、終わりであり。
今の、軽く頭のおかしな俺の始まりなのだ。
『嫌いなもの? お前みたいな鬱陶しいガキ全般』
そう言われて、それでも尚、好きな気持ちが変わらずに距離を離した七年前。
『新作のゲームはまだかよ。小遣いが足りない? 知るか。いいから買ってこい』
パシリにされていることに気がついた五年前。
『あ、お前声変わりしたんだ。────何か声、気持ち悪ッ! お前もう喋んな!』
自分の中の何かが崩れさる音を聞き、半世界の住人は異種族と愛し合わない事実を知った三年前。
ああ、懐かしき黒歴史。もう二度と、蓋を開けることはあるまい。
俺は頭の中に再度封印を施し、固い決意をしたのだった。