第15話 ただの人、ただの男
庵に滑り込んだ景安は、庭を通り過ぎ、奥にある自身の寝所へと翠蓮を連れ込んだ。
いつもの縁側へ向かわなかった理由を尋ねる余裕は、いまの翠蓮にはなかった。
景安は寝台に彼女の身体を下ろす。そして血の気の引いた顔で、寝台の隅から小瓶から取り出し、丸薬を口へと放り込んで喉へと流し込んだ。
ただの傷の手当てとは明らかに違う、その張り詰めた異様な緊迫感に、翠蓮は取り乱しながらも急いで薬草と包帯を掻き集めて戻ってくる。
「……自分でできますから、柳姑娘は下がっていなさい」
薬が効き始めるのを待つように目を閉じたまま、景安は静かに言い張った。だが、その声は微かにかすれている。
「私のせいだから……私が手当てする……!」
翠蓮は彼の拒絶を頑なに拒み、震える手で寝台に座る景安の白い衣をそっと脱がせていった。
露わになった深い傷口を見た瞬間、翠蓮の動きがピタリと止まる。
赤く、温かい、人間の血。
いつも涼しい顔で、お茶を片手に自分の剣をいとも簡単にかわしていた男。自分とは違う、遥か高みにいる「仙人」のようだと、どこかで本気で信じていた男。
(違う……。景安は、本物の仙人なんかじゃない。私と同じ、血の通った人間なんだ……)
「……柳姑娘?」
固まった彼女を、景安が怪訝そうにのぞき込んでくる。
「……なんで、避けてくれなかったのよ」
翠蓮の声は、蚊の鳴くように小さく、震えていた。
いつもの気の強さは完全に消え失せ、うつむいたその顔は今にも泣き出しそうに歪んでいる。気丈な彼女は頑なに涙こそ流さなかったが、その佇まいは痛々しいほどにしおらしかった。
「あんたなら、あんな刃、簡単にかわせたでしょう!? なんで、私のために怪我なんて……!」
「言ったはずです。私はあなたを庇っていたと。……それに」
景安は、その目を心持ち細め、自嘲気味に吐息を漏らした。
「私も人の子です。刃で斬られれば、血も流しますし、怪我くらいしますよ」
その言葉が、翠蓮の胸に容赦なく突き刺さる。
激しい罪悪感と、それ以上の「彼を失いたくない」という切実な感情が、濁流のように押し寄せた。翠蓮はたまらず、景安の傷ついていない左の肩に、そっと額を押し当てた。
「ごめんなさい……私のせいで……。景安……」
衣服越しに伝わる、自分の額の熱。それを上回るような、景安の確かな体温。
──その瞬間、彼の身体が不自然に強張ったのが分かった。
景安の肌の温度が、にわかに跳ね上がる。先ほど往来で見せつけた、あの人智を超えた武功の残滓だろうか。それとも、何か別の──「熱」だろうか。
押し当てた額のすぐ下で、彼の心臓が恐ろしい速さでトクトクと脈打ち始め、部屋の空気が息苦しいほどに濃密に変わっていく。
驚いて顔を上げると、景安は表情を険しくさせたまま、さっと翠蓮から視線を逸らした。端正な横顔の顎の線が硬く引き結ばれ、まるで何か恐ろしい衝動を必死にねじ伏せているかのようだ。
翠蓮は微かな胸騒ぎを覚えながらも動揺を抑え込み、一心不乱に手当てを進めた。
「……さっきの、魔教の男が言っていた調気剣の話だけど」
「ああ。他人の気を吸い取るとかいう、あれですか」
「私は、そんなこと絶対にしない……!」
堪えきれず、翠蓮は包帯を握りしめたまま、ガタッと立ち上がってしまった。
必死な面持ちのまま、座っている景安の瞳をじっと見つめる。
「それだけは……あんたにだけは、信じてほしいの……」
そう訴えながら、ふと、景安の痛々しく傷ついた右腕に視線が落ちた。自分のせいで、彼が流した血。
突如として込み上げてきた激しい感情に唇が震え、視界が涙で歪み始める。
ああ、駄目だ。今泣いたら、彼をさらに困らせてしまう。
慌てて深く息を吸い込み、涙を堪えるように再び手当ての続きへと戻った。
景安の顔を見たら今度こそ涙が溢れてしまいそうで、もう顔を上げることができない。
うつむいた翠蓮の頭頂部に、彼の静かで、熱い視線がじっと注がれているのを痛いほどに感じる。
しばらく黙々と手当てに没頭しているうちに、翠蓮はようやく感情の高ぶりが落ち着いてきた。
「……できたわ。これで、少しはマシなはずよ」
ほっと息を吐きながら包帯の端を丁寧に結び終え、触れていた彼の肌からそっと手を離す。
「助かりました」
景安は突き放すようにそっぽを向いた。喉の奥から絞り出したようなその声は、驚くほど冷たく、そして低い。
──拒絶された。
冷え冷えとしたその響きに、胸が痛いほどにズキリと痛む。
そう思った瞬間、考えるよりも先に身体が動いていた。あんな魔教の妄言のせいで、景安との間に壁ができるなんて絶対に嫌だ。彼の本当の心が知りたくて、翠蓮はとっさに、寝台の上に置かれていた彼の左手を強く握りしめた。
「ほ、本当に、私──」
のぞき込むようにして彼の顔を伺おうとした、その瞬間だった。
「ひゃあっ!?」
視界が、急激に反転する。
景安の左手が、電光石火の速さで翠蓮の手首を掴み返したのだ。そのまま逆らう隙も、彼女が身を翻す猶予すら与えず、彼女の身体を寝台へと押し倒す。
ドサリ、と静かな庵の寝所に、重い音が響いた。
背中に伝わる寝台の感触と、目の前に迫る圧倒的な質量。
翠蓮は咄嗟に彼の胸に両手を当てて支え、驚きに大きく目を見開きながら、かろうじて声を絞り出す。
「景安……!? 傷に障るわ、放して──」
抗おうと言いかけた翠蓮の言葉は、すぐ目の前まで迫った彼の顔を見た瞬間、喉の奥に張り付いてしまった。
その瞳は、もはやいつものように凪いでなどいない。
昏く、ひどく熱い光を湛えて、射抜くように翠蓮を見下ろしていた。いつも彼がまとっている無気力な仮面が、今、完全に剥ぎ取られている。
「……言ったでしょう」
降ってきた景安の声は低く、彼女の鼓膜を直接揺らすようにかすれていた。
「私は、仙人などではない。……そんな手つきで、そんな顔で触れられて、のんびりぐうたらでいられるほど、私は悟りを開いてなどいない。私も──ただの男なんですよ、翠蓮」
「っ……」
掴まれた手首から、そして彼の胸に押し当てた掌から、景安の激しい鼓動と容赦のない体温が、翠蓮の身体へと流れ込んでくる。
向けられているのは、人智を超えた剣仙としての武功ではない。一人の「男」としての、あまりにも生々しい本性だ。
息が詰まるほどの圧倒的な迫力を前にして、翠蓮はただ、言葉を失って寝台の上に硬直するしかなかった。
身体の自由を奪われ、彼の熱に気圧されながら──それでも、胸の奥の、自分でも説明のつかない熱が、今までにないほど激しく爆ぜていくのを確かに感じていた。




