恩寵泥棒
「あの——」
木村くんがそう言いかけた瞬間、
「ごめんなさい...その前に」
草薙美咲が図々しくも述べ始めた。
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木村くんが手を挙げたのを、佐々木は見ていた。
部屋が少し静かになった瞬間も、見ていた。七ヶ月通って、木村くんが手を挙げたのは初めてだったのだ。他の全員も、たぶん気づいていた。だからあの静けさが生まれたんだと思う。
だが、間隙を美咲が割った。
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美咲がこのグループに来始めた日は、佐々木より一ヶ月早かった。
まず、最初に気になったのは彼女が纏うコートだった。よく知らないが、随分と高そうだった。次に気になったのは話し方だった。自分の番になると滑らかだった。詰まらなかった。言葉が途中で消えなかった。
もちろん、それだけなら何も思わなかった。
気になったのは、他の人が話すときの美咲の姿勢だった。
前のめりになって、小さく頷いて、目を潤ませて、「わかります」と言う。誰が何を言っても「わかります」と抜かす。三年外に出られなかった河合さんが震える声で何とか絞り出した言葉にも、木村くんが「大丈夫です」とだけ言ったときにも、美咲は同じ顔で頷いた。
自分はわかる人間だと、理解者だと、美咲は信じていると佐々木は思った。
一考の余地もなく。
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「今日ここに来る途中、すごく嫌なことがあって」
美咲の声は少し震えていた。うまい具合に震えていた。
「ちょっとだけ吐き出してもいいですか。ごめんなさいね、ちょっとだけ」
職場の話だった。同僚が自分の提案を横取りしたらしい。会議で名前を呼ばれなかった。それを上司に言えなくて、でも言えない自分も嫌で、帰り道にコンビニのトイレで泣いた。
美咲が話している間、佐々木は木村くんを見ていた。
木村くんは膝の上に手を置いて、指を組んで、ほどいて、また組んでいた。窓の外に視線を向けていた。雨が降り始めていた。木村くんのスニーカーのつま先が、少し濡れていた。
暖房の音がした。
椅子が軋んだ。
美咲が一回泣いて、一回笑って、「でも来てよかった、ここだけが救いで」と言った。
中村さんが頷いた。何人かが頷いた。
佐々木は木村くんの手を見ていた。指が、ゆっくり、ほどけていった。
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「木村くん、さっき——」
中村さんが振ったとき、木村くんは窓から視線を戻して、首を横に振った。
「大丈夫です」
美咲が「木村くんも色々あるよね、無理しないでね」と言った。
木村くんは小さく頷いた。
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帰り道、エレベーターで美咲と二人になった。
扉が閉まった。美咲はスマホを開いた。画面に太った猫の写真があった。待ち受けだった。丸くて、のんびりした顔の猫だった。
「今日も来てよかった」
美咲は虚空に言った。「やっぱりここ、落ち着く」
扉が開いた。美咲はヒールの音を立てて先に出た。
佐々木は少し遅れて出て、後ろを見た。木村くんが階段から降りてくるのが見えた。エレベーターを使わない。いつもそうだった。
佐々木は立ち止まって待った。
木村くんが気づいて、少し驚いた顔をした。
「今日、手挙げたじゃないですか」
木村くんは下を向いた。
「何か、話したいことあったんじゃないかと」
「……大丈夫です」
「大丈夫じゃなかったら」
雨の音がした。木村くんのスニーカーは、さっきより濡れていた。
「……父親が。父が、去年....死んで」
声が出るまでに、少し時間がかかった。
「それだけです。それだけのことなんですけど」
佐々木は何も言わなかった。言えなかった。それだけのことじゃないと言いたかったが、それを言う資格が自分にあるかわからなかった。
木村くんは頭を下げて、雨の中に出ていった。
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次の回。
美咲は開口一番に言った。
「みんな平等に話せる場所って、大事ですよね」
深く、頷きながら。
中村さんが「そうですね」と言った。
全員が頷いた。
木村くんも、頷いた。
ある映画を観た。
苦しい境遇の主人公が、夢に向かって走る話だった。バイトで学費を稼いで、一人で上京して、それでも前を向く。スクリーンの中の彼女は美しかった。
でも観ながらずっと、何かが喉に引っかかっていたんだな。
今なら分かる。
「苦しさ」が、綺麗すぎた。
貧しさの描写はあったよ、でも構造はなかった。誰が搾取しているか、怒りをどこに向ければいいか、なぜ一人で全部背負わなければならないのか。そういう話は隠されていた。臭いものには蓋をすると言ったところだね。
高みの人が想像する、陳腐で定型化された不憫な人が背負う苦しさは主人公を輝かせる燃料として消費され、最後には感動的なハッピーエンドに変換された。
....もちろん売れたよね。その作品。素晴らしいと絶賛されているよ。
でも、本物の苦しさの中にいる人間は、たぶんあの映画を観て、何も言えなかったと思うな。
恩寵泥棒だよね。




