第五話 決意
オフィスに出勤する。
ガラス張りのロビーに、僕の姿が無音で映る。
歩幅は一定。心拍も安定。
誤差は許容範囲内。
ソクラが告げる。
「セツナの対策の効果だ。
前年度と同じ水準の収穫が期待できる」
声はいつも通り、透明だ。
揺れがない。誤差もない。
「そうか、いいね」
僕は、短く答える。
いいね。
それは、本当に「いい」のか。
「ありがとう、ソクラ。
いつもとおりに報告書を頼む」
「わかった」
ソクラは何も悪くない。
責めてはいけない。
責める相手がいないことほど、残酷なことはない。
世界は正常に稼働している。
収穫は安定。
供給は維持。
飢餓率は低下。
目標達成率、ほぼ完全。
完璧に近い社会。
完璧に近い僕。
なのに、どこか冷たく、寒い。
玄関の扉を開ける。
「パパ帰ってきた!
サトリちゃん、パパだよー」
サトミの声は、現実だ。
計算されていない音。
サトリが笑う。
その笑顔は、統計に存在しない。
サトリに顔を寄せる。
赤ん坊特有の、甘いいい匂い。
生命の匂い。
視界がにじむ。
鼻の奥が痺れる。
これは、データではない。
これは、揺らぎだ。
サトミとサトリを無言で抱きしめる。
長い時間。
離せない。
離した瞬間、何かが崩れる気がした。
「何かあったの?」
サトミが不安そうに尋ねる。
その目は、僕を人間として見ている。
「大丈夫だよ。何もかも。大丈夫」
嘘ではない。
でも、本当でもない。
涙は止まらない。
「国立種子保存センター」での記憶を探る。
白い廊下。
低温保存庫。
数百万の未来。
「目標達成率:99%
充実度:安定」
残りの1%。
数値に換算できない誤差。
それが何か、分からない。
でも、それがサトミとサトリに関わるものでないことを、
僕は祈っている。
——祈る? 何に?
神はいない。
アルゴリズムだけだ。
自由意志で築いて来た。
逆境を乗り越えて来た。
そう思っていた。
本当は、
最適解をなぞっていただけではないのか。
成功確率の高い選択肢を選び続け、
合理的に生き、
効率的に愛し、
安全に家庭を築いた。
それは、自由か。
それとも、
高度に設計されたシナリオか。
——空虚。
だが。
僕が家族に抱く感情。
それだけは。
それだけは、演算ではない。
サトリの重み。
サトミの体温。
この涙。
これは誤差だ。
制御不能だ。
だからこそ。
唯一絶対的な基点。
——自由は、自分の中にある。
僕は、生きる。
理解し、失いながら。
たとえ世界が最適化されていても。
たとえ僕が設計された存在でも。
この揺らぎを、
選び続けること。
それを、自由と呼びたい。




