第三話 違和感
サトミが赤ん坊に乳をあげている。
僕はこの光景を横で見るのが大好きだ。
健康に産まれた。
女の子。
サトミの語感と賢い子になって欲しくて「サトリ」と名付けた。
小さなまぶたを閉じて、口だけせわしなく動かしている。
自分の中に暖かい気持ちが溢れる。
——お母さんに見せたかったな。
母は、静かに、確実に弱っていった。
最後は語りたくない。
僕はまた、見送る側になった。
サトリは眠ってしまった。
穏やかな寝息。
小さな手。
僕の差し出した指をしっかりと握る。
視界がにじむ。
母を失ったあと、いろいろなものに助けられた。
サトミはもちろんのこと。
仕事の忙しさにも。
ソクラも素っ気ないように見えて、僕を気遣ってくれていたように思う。
そして、サトリ。
まだ見ぬ、「時間」。
——この子が幸せになりますように。
僕は、願う。
前に進むしかない。
「ごめんね。しばらく帰れない」
僕は心底申し訳なく言った。
「大丈夫。うちのお母さんも来てくれるし」
遠くから来てくれる義母にも、本当に申し訳なく思う。
「じゃあ。いってくるね」
サトミとサトリにそっと口づけをして、家を出た。
腕時計を見る。
——9時24分を少し回ったくらい。
AIソクラが言う。
「このままだと予想収穫量を下回ってしまう。技術的介入を提案する」
日本列島を縦断した台風の影響が痛かった。
——そうとうテコ入れしないと、まずいな。
このところ徹夜続きだ。
こめかみのあたりがズキズキと痛む。
「ソクラ。実現可能な改善案を3つ提案して欲しい。
僕は少し席を外す」
「わかった」
ソクラの瞳に青い光がともる。
冷たい水を両手で受けようとして、慌てて腕時計を外す。
一瞬だけ秒針が止まる。
何回も顔を洗う。
頭痛は治まらない。
不意に、サトミとサトリの顔が浮かぶ。
穏やかなふたりの寝顔。
——ダメだ。あきらめるのは早い。
顔を拭い、オフィスに戻る。
オフィスに入って感じたのは、微かな違和感。
「おかえり、セツナ。
今年も例年通り収穫が期待できる確率92.4%」
——ソクラ?一体なにを言ってるんだ?
データを確認する。
台風は?
被害報告は?
そこにあるはずのデータが、消えていた。
——冷静に。
自分に言い聞かせる。
デスクに肘をつき、指を組む。
——そうだ、腕時計。
慌てて、取りに戻る。
洗面台にぽつんと置かれた腕時計。
腕時計をつけながら、鏡の中の自分をじっと見る。
なにも変わりはない。
こめかみがまた痛み始めた。
ソクラは、椅子に腰掛けたまま、微動だにしない。
デスクのディスプレイには、
——AIソクラ。再接続中。
台風の被害地域には、赤いアラート。
予想を大きく下回る収穫量。
無意識に手首の腕時計に触ってしまう。
「おかえり、セツナ。
改善案を出力しておいた。
目を通して欲しい」
ソクラの声に、一瞬背筋が凍りつく。
——冷静に。
僕はもう一度、同じ事を言い聞かせる。
思考が、ある一点に収束する。
「ソクラ。
さっき君はどこに接続していた?」
「座標を送る」
ディスプレイに表示された場所。
『国立種子保存センター』
地下に作られた巨大な冷凍施設。
——行かなければ。
身体が、更に冷えていく。
腕時計の秒針の音が、少し大きく聞こえた。




