第9話 初めての一撃
夜の空気を切り裂くように、獣が再び咆哮した。
その声は耳を突き破るほどの衝撃で、家々の戸ががたがたと震える。
松明の火が揺れ、村人たちは思わず顔を覆った。
「う、嘘だろ……まだ動けるのか……!」
「もう駄目だ、あんなもの相手にしたら……!」
絶望の囁きがあちこちから漏れる。
獣は肩を沈め、大地を抉るように前足を踏み込んだ。
次の瞬間、黒い巨体が稲妻のような速さで門へ突進する。
「来るぞ!」
オルフさんが短く叫び、槍を構えた。
轟音。
地面が割れるほどの衝撃とともに、獣の爪が迫る。
オルフさんは穂先を突き出し、火花のような光が闇に散った。
「ぐっ……ぬおおッ!」
受け止めた瞬間、槍が悲鳴を上げる。
衝撃でオルフさんの足が土に沈み、膝がぎりぎりまで折れ込んだ。
村人たちはその光景に悲鳴をあげる。
「オルフさんが……押されてる!?」
「もう駄目だ……!」
誰もが絶望を口にする。
一歩下がりそうになる自分の足を、リシアは必死に止めた。
槍を握る手が震え、心臓は喉を叩くように早鐘を打つ。
(怖い……怖い……! でも……)
隣で必死に踏ん張るオルフさんの姿が、彼女の目に焼き付いた。
血のにじむ腕。揺らがぬ背中。
その姿は村を守る盾であり、師としての誇りそのものだった。
(私も……立たなきゃ! オルフさんの隣に!)
獣の咆哮が耳を裂き、衝撃で空気が震える。
リシアは思わず両手で木槍を強く握り直した。
「ひっ……!」
声が漏れる。
だが、足は動かなかった。
恐怖で心が揺さぶられても、背中に逃げ道はない。
門の奥には、眠れぬ夜を過ごす村人たちがいる。
その命を守るために――自分はここに立つ。
「オルフさん!」
震える声で呼びかけた。
オルフさんは歯を食いしばりながら、それでも短く返す。
「退くな、リシア!」
「……はい!」
返事をした声は震えていたが、リシアの瞳には確かな決意が宿っていた。
獣の巨体が迫り、門前の大地が抉れる。
オルフさんの槍と獣の爪が激突し、火花が散る。
その余波で土煙が舞い上がり、リシアの視界を覆った。
胸の奥で恐怖が渦巻く。
それでも彼女は震える足を踏みしめ、槍を構え続けた。
(私も……ここで立つんだ!)
獣の咆哮は鼓膜を突き破るほどの衝撃だった。
リシアは思わず耳を塞ぎたくなったが、必死に木槍を握りしめて耐える。
胸の奥がざわざわと波立ち、息が乱れる。
(怖い……怖い……!)
頭の奥で警鐘が鳴り響く。
「逃げろ」「ここにいたら死ぬ」という声が心を支配する。
視界が揺れ、足元の大地が遠く感じられた。
獣が爪を振り下ろし、オルフさんがそれを受け止める。
火花が散り、衝撃が地を震わせた。
その余波でリシアは尻もちをつきそうになり、慌てて踏みとどまる。
(だめだ……私なんかじゃ到底勝てない……!)
胸の奥で、逃げ出したくなる自分が何度も叫ぶ。
膝が笑い、槍がぶれて視界に涙がにじんだ。
そのとき、脳裏に焼き付いた光景が甦る。
昼間、若者兵団の少年たちにからかわれた場面。
『女が槍なんか握ってどうするんだよ』
『門の前に立つなら、せめて嫁入り修行でもしとけ』
あの嘲笑。
悔しさで胸が苦しくなり、歯を食いしばった。
(……逃げたら、あのときと同じだ)
(逃げたら、私は一生「笑われるだけの弱い女」で終わる!)
視界の端で、オルフさんの背中が大きく揺れる。
獣の爪を受け止め、膝を沈めながらも一歩も退かず立ち続けている。
その姿は傷だらけでも、岩のように揺らがない。
(オルフさんは……一人で立ってる)
(だったら、私も――隣で立たなきゃ!)
恐怖で縮こまっていた胸の奥に、小さな火が灯る。
リシアは荒い息を吐き、槍を握り直した。
手は汗で滑っていたが、もう離さない。
「……っ、逃げない」
小さな声で呟く。
オルフさんに届かなくてもいい。
自分自身に言い聞かせるように。
「逃げない……立つ……!」
その瞬間、再び獣が咆哮を上げた。
恐怖で心臓が飛び出しそうになる。
だが、リシアは足を踏みしめ、叫んだ。
「私は……逃げない! 立ちます! オルフさんの隣で!」
声が震えても、確かに夜を切り裂いた。
村の奥で戸の隙間から見ていた人々が息を呑む。
「リシアが……」
「立ってる……あの獣の前で……!」
子どもの小さな声が続いた。
「通さぬ姉ちゃん……!」
震えながらも、応援の声が夜風に乗って広がった。
リシアの胸に熱が広がる。
恐怖は消えない。
けれど、その恐怖の中に「逃げない」という決意が根を下ろした。
(怖くても、立つ……! それが弟子になった証なんだ!)
木槍を構え直し、獣をまっすぐに睨んだ。
獣の咆哮が止まらない。
そのたびに土が震え、村人たちは家の中で息を潜めた。
門の前で対峙するオルフさんの額にも汗が滲んでいたが、その眼は鋭く獲物を射抜いていた。
「……リシア」
低い声が横に響いた。
「は、はい! オルフさん!」
リシアは背筋を伸ばして答えた。
声は震えていたが、槍を握る手だけは決して離さない。
オルフさんは獣の動きをじっと見据えたまま、短く告げる。
「肩の沈み……それが突進の合図だ」
「肩……?」
「奴は前に出る前、必ず重心を落とす。
肩が沈んだ瞬間、次はまっすぐに突っ込んでくる」
リシアは驚いて目を見開いた。
獣の動きはただの暴れ狂う巨体にしか見えなかった。
だが、オルフさんには「次の一手」がはっきりと見えている。
「オルフさん……どうして、そんなに……」
「門に立つ二十年、見てきた。
人でも獣でも、動きには必ず“癖”がある。
それを見抜くのが、門を守る者の眼だ」
淡々と語る声に、リシアの胸が熱くなる。
ただ立っていただけじゃない。
その背中には二十年分の“眼”が積み重なっているのだ。
「リシア」
再び名を呼ばれる。
「はい、オルフさん!」
「次に奴が突っ込んできたら……肩の沈みを見ろ。
怖くても目を逸らすな。
その一瞬で、槍を突け」
「わ、私が……ですか!?」
リシアの胸が跳ねる。
恐怖と驚きで声が裏返った。
「そうだ。俺が隙を作る。
お前は一歩でもいい、前に出て槍を突け」
(私が……獣に槍を……!?)
脳裏で何度も繰り返す。
怖い。
失敗したら死ぬ。
それでも、オルフさんが自分を信じて任せようとしている。
(だったら……応えなきゃ!)
リシアは木槍を強く握り直した。
「……わかりました! やってみます!」
獣が再び唸り、腰を沈めた。
爪が土を抉り、肩が大きく沈み込む。
「来るぞ!」
オルフさんの声が飛ぶ。
リシアは必死に赤い眼を見据えた。
心臓は暴れている。
汗が背を伝う。
それでも――目を逸らさなかった。
(肩が……沈んだ!)
その瞬間、獣が黒い影となって飛び出す。
土煙が舞い上がり、夜空が揺れた。
「リシア、今だ!」
オルフさんの声が鋭く響いた。
獣が地を蹴った。
黒い巨体が弾丸のように門へ飛びかかる。
土煙が爆ぜ、夜空が揺れる。
「今だ、リシア!」
オルフさんの声が鋭く飛んだ。
リシアの心臓が爆発しそうに跳ねた。
喉が乾き、息が詰まる。
恐怖で視界が揺れ、体が凍りつく。
(だめ……足が動かない……!)
目の前には迫る死。
逃げたい。
全身が叫んでいる。
それでも耳の奥に、さっきの言葉が響いた。
『怖くても目を逸らすな』
リシアは必死に目を見開いた。
赤い眼、爪、肩――沈んだ瞬間。
(今……!)
木槍を握り直し、一歩前に踏み出す。
膝が震え、今にも崩れそうだった。
けれど確かに前へ進んだ。
「通さぬっ!」
叫びとともに木槍を突き出した。
月光を反射して、穂先が一直線に走る。
その瞬間――獣の爪が振り下ろされる。
オルフさんが槍を大きく薙ぎ払い、軌道を逸らす。
生まれた一瞬の隙間に、リシアの突きが飛び込んだ。
ザシュッ。
確かな手応えが手に伝わった。
獣の肩口に穂先が食い込み、赤い血が飛び散る。
リシアの頬に熱い飛沫が弾けた。
「……っ!」
全身が震えた。
怖さで震えているのか、興奮で震えているのか、自分でもわからなかった。
獣が怒りの咆哮をあげた。
赤い眼がぎらりとリシアに向けられる。
その殺意に喉が詰まり、呼吸が止まる。
(わ、私が狙われる……!)
足がすくみ、木槍を取り落としそうになる。
だがその前に、オルフさんが体を滑り込ませた。
槍の柄で獣の爪を受け止め、火花が散る。
「……よくやった」
短い一言。
その声に、リシアの胸が熱く震えた。
「は、はい……!」
涙がにじむ。
恐怖で泣きたいはずなのに、今はそれ以上に嬉しかった。
自分が、本当に戦えた。
槍が届いた。
(私……できたんだ……!)
胸に初めて芽生えた確かな誇り。
それが恐怖を押し返し、次の一歩を踏み出す力へ変わっていった。
木槍の穂先が獣の肩を裂いた瞬間、世界が止まったように思えた。
リシアの腕に伝わる重い抵抗。
その直後、温かい血飛沫が頬に散った。
耳鳴りが響き、心臓が破裂しそうなほど脈打っていた。
(あ、当たった……! 本当に……!)
恐怖で震えながら放った突きが、確かに届いた。
自分が獣を傷つけたのだという実感が、体を貫いた。
しかし歓喜する暇は与えられなかった。
獣は痛みに怒り狂い、咆哮をあげる。
赤い眼がぎらりと輝き、今度は明確にリシアを標的にした。
「ひっ……!」
全身がすくみ、木槍を落としそうになる。
その瞬間――。
「下がるな、リシア!」
オルフさんの声が雷鳴のように響いた。
次の瞬間、巨体がリシアに迫る。
鋭い爪が振り下ろされる寸前――オルフさんが体を割り込ませた。
槍の柄が火花を散らし、獣の爪と激突する。
衝撃で土煙が舞い、門の柱が悲鳴を上げた。
「ぬおおっ……!」
オルフさんの肩に血が滲む。
それでも押し返し、獣を一歩退かせた。
「リシア」
短く名前を呼ばれる。
「は、はい! オルフさん!」
「……よくやった」
その一言に、リシアの目から涙があふれそうになった。
恐怖で泣きそうなのに、今は嬉しさで胸が震えていた。
(私……認められたんだ……!)
獣は退かない。
傷口から血を垂らしながら、さらに怒りを増している。
咆哮とともに地面を爪で抉り、門を突破しようと身を低くする。
リシアは木槍を握り直した。
震える手を抑え込み、唇を強く噛む。
「……もう逃げません。
次も、私が立ちます。オルフさんの隣で!」
その言葉に、オルフさんがわずかに口元を緩めた。
村の奥で誰かが叫んだ。
「リシアが……獣に当てたぞ!」
「立ってる……! あの獣の前で!」
ざわめきが広がり、子どもが泣きながらも戸の隙間から叫ぶ。
「がんばれー! 通さぬ姉ちゃん!」
声が夜風に乗り、門前に届く。
リシアは頬を赤く染めながらも、胸の奥が熱く満たされるのを感じた。
獣は再び咆哮をあげ、突進の構えを取る。
だが今度は、リシアの瞳に恐怖だけでなく決意の光が宿っていた。
槍を構え直し、叫ぶ。
「通さぬっ!」
その声は震えていても、確かに夜を切り裂いた。
オルフさんも隣で槍を構え、低く呟く。
「――通さぬ」
師弟二人の影が、松明の光に並んで伸びた。
その背を見た村人たちは、もう「絶望」ではなく「希望」を口にし始めていた。
門前で血を流す獣と、それに立ち向かう二つの影。
その光景を、村人たちは戸の隙間や窓の陰から固唾をのんで見守っていた。
「リシアが……本当に、あの獣に……!」
「信じられん。女の子が……!」
囁き声はすぐにざわめきに変わった。
子どもたちが小さな声で叫ぶ。
「リシア姉ちゃん、がんばれー!」
「通さぬ姉ちゃんだ!」
母親に抱かれた幼子が、ぐずりながらも手を伸ばす。
「おねーちゃん、がんばれ……」
その無邪気な声が、門前まで届いた。
リシアの胸にじんと熱いものが広がる。
一方、畑帰りの男衆や商人たちも顔を見合わせていた。
「……まさか、リシアがここまでやるとは」
「昼間まで酒場で笑ってた子だろうに」
「笑ってた俺らの方が、情けねえな」
苦笑まじりの声。
だがそこには、確かな尊敬が混じっていた。
老婆たちは井戸端に腰を下ろしながら、くすくす笑う。
「通さぬ嫁修行だってさ」
「槍を持って婿を通さぬ、ってかい?」
「お前さんの息子もあの子に一喝されたら、しっかり働くかもね」
からかい半分の会話に、重い空気の中でも小さな笑いが起きた。
若者兵団もその場に駆けつけていた。
嘲笑していたキースは顔を真っ赤にして呟く。
「なんで……なんで女が……俺たちより先に立てるんだよ……!」
ハルドは腕を組み、真剣な眼差しで門を見据える。
「悔しいが、あれが現実だ。
あの子は俺たちより先に“通さぬ”って言えたんだ」
その言葉に、兵団の仲間たちはうつむき、拳を握った。
再び獣が唸り、村全体が震える。
それでも村人たちの視線は、もはや恐怖だけではなかった。
門前に並ぶ二人の影――おっさんと弟子。
その姿に、誰もが「守られている」と感じていた。
「リシア、頑張れ!」
「オルフさん、負けるな!」
「二人なら、きっと通さぬ!」
声援が一つ、また一つと重なり、夜空に響いていく。
その声を背に受けながら、リシアは震える息を吐いた。
(私……こんなに応援されてる……!)
恐怖で震えていた膝が、ほんの少し強さを取り戻す。
オルフさんが横で短く言った。
「……聞こえるか、リシア」
「はい、オルフさん!」
「村が、お前を認め始めた」
リシアの瞳に涙がにじむ。
それは恐怖の涙ではなく、誇りの涙だった。
リシアの木槍が獣を裂いた瞬間、村人の心に希望の火が灯った。
だが、戦いは終わらない。
獣はなお健在だった。
肩から流れる血を気にもせず、さらに怒りを増幅させるように咆哮をあげる。
その声は夜空を震わせ、門の柱を軋ませるほどだ。
「グオォォォォッ!!」
地面が割れ、爪痕が深く刻まれる。
松明の火が風圧で揺れ、赤い光が不気味に踊った。
オルフさんは槍を構え直し、血に濡れた手をぐっと握り込む。
額から汗が滴り落ちても、背筋は揺るがない。
「……これで終わりじゃない。獣はここからが本気だ」
低い声が、隣に立つリシアの心を引き締める。
「……はい、オルフさん!」
リシアも槍を構え直した。
まだ震えは残っている。
けれど、その震えは恐怖だけではなく、決意の証でもあった。
村人たちは戸口から顔を出し、声を重ね始めた。
「負けるな!」
「通さぬんだろう、二人とも!」
「俺たちの村を……守ってくれ!」
応援の声は次第に大きくなり、恐怖に凍っていた空気を少しずつ溶かしていく。
泣いていた子どもが、涙を拭って叫んだ。
「リシア姉ちゃん、オルフさん、がんばってー!」
その声に、リシアの胸が熱くなった。
(もう私、逃げられない……! みんなが見てる……!)
獣は唸りながら大地を爪で抉る。
その体から放たれる圧は、村全体を覆うほどだった。
だが、門前に立つ二人の影が、その圧力に真っ向から抗っていた。
リシアは震える声で叫ぶ。
「……通さぬ!」
その言葉に、村人たちが呼応するように声を上げた。
「通さぬ!」「通さぬぞ!」
夜風に響く合唱が、獣の咆哮とぶつかり合った。
森の奥では、黒い影がその光景を見ていた。
フードを深くかぶった男が、不気味に笑う。
「……なるほど。老いた門番だけではない。
村が、声を合わせて“門”になろうとしているのか」
その瞳に赤い光がちらりと宿る。
「だが、それでも……潰す価値はある」
闇の中で別の獣の影が蠢き、鎖の音が低く鳴った。
門前では、オルフさんとリシアが再び並んで槍を構えていた。
松明の炎が二人の影を長く伸ばし、村の背を覆う。
「リシア」
「はい、オルフさん!」
「次が本当の勝負だ。怖くても……絶対に目を逸らすな」
「……わかりました!」
リシアは震える声で返事をし、木槍を強く握った。
胸に宿った恐怖と決意が、同じだけ重く心を満たす。
夜の静寂を破り、獣が再び大地を蹴る。
土煙が爆ぜ、村の空気が張りつめる。
――決戦は、もう避けられない。
門を守る師弟の戦いが、今まさに始まろうとしていた。