第7話 門の前の二人
朝日が昇り、村を包む霧が少しずつ晴れていく。
門の前には二人の影が並んでいた。
老兵オルフと、その隣でぐったりとしながらも必死に立つリシア。
夜明けの光に照らされ、彼女の顔は疲労で真っ青だった。
足は棒のように固まり、膝は小鹿のように震えている。
それでも最後まで倒れなかった。
「……ふん。まあ、よく耐えたな」
オルフは短くそう言い、槍を突き立てた。
リシアは必死に笑顔を作る。
「で、弟子に……してくれるんですか?」
オルフはしばし沈黙し、やがて深く頷いた。
「……ああ。お前はもう“弟子”だ」
その瞬間、リシアの瞳に涙が滲む。
震える声で「ありがとうございます!」と叫んだ。
その様子を、朝の用事に向かう村人たちが目撃していた。
「おいおい……オルフのおっさんが弟子を取ったぞ」
「しかもリシアだってよ」
「なんとまあ、門の前で嫁入り修行か?」
どっと笑いが起こる。
近所のおばさんが茶化すように言った。
「花嫁修業より門番修行とは、リシアらしいねえ!」
「門に立つ嫁は丈夫だぞ!」
「いや、婿の方が尻に敷かれるに決まってる!」
そんな無責任な声に、リシアの耳は真っ赤になった。
「ち、違います! 私は強くなりたいだけです!」
慌てて叫ぶ姿に、子どもたちがくすくす笑う。
だが笑いだけではなかった。
年配の男たちは腕を組み、真剣な顔で頷いていた。
「昨夜、あの子は門に立ち続けたんだ。立派なもんだ」
「俺たちが若い頃だって、あんな根性はなかったさ」
リシアの胸の奥に、じんと熱いものが広がる。
からかわれながらも、確かに認められつつあるのだと感じた。
オルフはそんな空気にも動じず、淡々と口を開いた。
「弟子になったからといって、楽はさせん。
立つこと、耐えること――まずはそれを叩き込む」
「はいっ!」
リシアは息を切らしながらも、大きく頷いた。
彼女の髪が朝日に揺れ、その影がオルフの足元に重なる。
門を守る老兵と、その弟子となった娘。
村に新しい一日の始まりを告げる光景だった。
弟子入りの一件は、あっという間に村中に広まった。
昼前には、井戸端でも畑でも、誰もがその話題でもちきりだった。
「聞いた? リシアがオルフのおっさんの弟子になったって!」
「聞いた聞いた。門番修行だってさ」
「いやぁ、うちの亭主も少しは見習ってほしいね。門の前で一晩立たせたら腰が抜けるわ」
主婦たちの笑い声が響く。
子どもたちは木の枝を槍代わりにして遊んでいた。
「通さぬぞー!」
「俺はオルフ! 俺の弟子はリシア!」
「リシア姉ちゃん、俺も弟子にしてー!」
そのやり取りを見ていた若い母親が苦笑する。
「こりゃ次の収穫祭で“通さぬ踊り”が本当に始まりそうね」
「ふふ、あんたも覚えときな。『通さぬ』って言えばご飯のおかわり断れるかもよ」
「えぇーっ、それは通されたい!」
隣の子どもが泣き真似をして、周囲に笑いが広がった。
一方で、年寄りたちの会話は少し真面目だった。
「女の子に門を守らせるなんてどうかと思ったがな……」
「だがあの気迫、わしら若い頃でも持ってなかったぞ」
「そうそう。あの子はオルフに似て、腰の据わりがある」
「いや、腰じゃなく胸の据わりだろ」
「じいさん、そっちの話はやめとけ」
茶飲み話に爆笑が起き、通りがかったリシアは思わず顔を真っ赤にして逃げ出した。
だが、からかいと笑いの中に、確かな変化があった。
昨日まで「ただの酒場の娘」と思われていたリシアが、今では「門に立った者」として語られている。
彼女の姿が、村全体に少しずつ勇気を与えていた。
午後、村の広場で買い物をしていたリシアに、見知らぬおばさんが声をかけてきた。
「リシアちゃん、昨日は大したもんだったね。これ、お礼だよ」
差し出されたのは新鮮なリンゴ。
「えっ、あ、ありがとうございます!」
恥ずかしそうに頭を下げるリシア。
その頬は赤く染まっていたが、胸の奥には確かな誇りが芽生えていた。
(私、本当に“弟子”なんだ……)
村の日常の中に、新しい色が少しずつ混ざり始めていた。
昼下がり。
若者兵団の詰め所では、数人の青年たちが剣や槍を磨きながら沈黙していた。
外では子どもたちの「通さぬごっこ」の声が響いている。
「……聞いたかよ。リシアが弟子になったって話」
最初に口を開いたのは、痩せ型で口の軽いキースだった。
彼は槍を床に突き立て、苛立ちを隠せない様子で言葉を吐き出した。
「聞いたもなにも、村中その話だ」
「女が門に立つなんてな……まったく世も末だぜ」
苦笑混じりの声に、仲間の一人がぼそりと返す。
「でも、昨夜は俺たちより……立ってたよな」
場が一瞬で静まり返った。
沈黙を破ったのは、屈強な体格のハルドだった。
彼は腕を組み、真剣な顔で呟く。
「……悔しいが、あの子は俺たちが震えてる間に立ってたんだ。
それは認めざるを得ない」
その言葉に、キースが慌てて声を張り上げる。
「おいおい、本気で認める気か? 女だぞ? ただの村娘だぞ!?」
「“ただの村娘”が、俺たちより先に弟子になったんだ」
ハルドの低い声が詰め所に響く。
苛立ったキースは机を叩いた。
「ふざけんな! じゃあ俺たちはなんなんだ!? 臆病者か!?」
仲間たちは言葉を失い、視線を逸らす。
昨夜の恐怖――武器を持ちながら一歩も前に出られなかった自分たち。
それを思い出すだけで胸が重くなる。
「……」
誰も否定できなかった。
その時、詰め所の外から声がした。
「おーい、兵団さんよー!」
窓の外では、子どもたちが枝を振り回しながら遊んでいた。
「俺がオルフだ! 通さぬぞ!」
「じゃあ俺はリシアだ! 門の弟子だ!」
「やーいやーい、兵団は逃げ腰だー!」
子どもたちのはしゃぎ声に、兵団の青年たちは一斉に顔を真っ赤にした。
「なっ……なにを言いやがる!」
「こら、待てぇ!」
慌てて外へ飛び出したが、子どもたちは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
「逃げた逃げた! 臆病兵団だー!」
遠くで響く笑い声が、彼らの胸をさらに抉った。
キースは悔しさに顔を歪める。
「……リシアのせいで、俺たちが笑い者じゃねぇか」
「違う」
ハルドが低い声で遮った。
「笑い者にしたのは俺たち自身だ。立てなかったのは、他でもない俺たちだ」
仲間たちは沈黙した。
悔しさ、情けなさ、そしてどこかで芽生え始めた尊敬。
「……だからこそだ。次に同じことが起きたら、俺は立つ」
ハルドの言葉に、何人かの青年が小さく頷いた。
だがキースは最後まで首を振った。
「認めねぇ。あんなのは気まぐれだ。女が弟子入りしても、すぐ泣いて逃げ出すさ」
彼の声には苛立ちと同時に、揺れるような迷いも混じっていた。
本当はリシアの根性を認めざるを得ない。
だが認めてしまえば、自分たちの弱さを突きつけられる。
若者兵団の中に、静かな溝が広がっていった。
翌朝。
門の前に立つオルフの足元には、一本の木槍が転がっていた。
まだ削りたての木の枝を削っただけの、簡素な槍だ。
「持て」
オルフの低い声に、リシアは慌てて拾い上げた。
手にした瞬間、ずしりと重みがのしかかる。
「え、こんなに重いんですか!?」
「槍は武器であり、支えでもある。おもちゃじゃない」
オルフは構えを示すように槍を突き立て、両手でまっすぐ握った。
背筋が伸び、姿が門の柱と重なる。
「まずは、この“立ち方”を体に覚え込ませろ」
リシアも真似て槍を構えようとするが、腕がぷるぷる震え、槍先は左右に揺れた。
村の通りすがりの子どもが大笑いする。
「リシア姉ちゃん、魚釣りしてるみたいだ!」
「ぶっ……ちょ、やめて笑わないで!」
顔を真っ赤にしたリシアは必死に槍を握るが、余計にぶれてしまう。
「力を入れすぎだ」
オルフが低く言う。
「槍は握り潰すものじゃない。立てて、支えにするんだ」
リシアは息を整え、もう一度構え直す。
今度は少し安定したが、数十秒も経たないうちに腕が痺れ始めた。
「はぁ、はぁ……む、無理です! もう限界!」
「立つのをやめたら、その時点で終わりだ」
「ひどい! 昨日も徹夜で立ったのに!」
リシアが涙目で訴えると、オルフはふっと鼻で笑った。
「弟子になりたいと自分で言ったのは誰だ」
「ぐぬぬ……!」
歯を食いしばり、再び木槍を支える。
その姿に、通りがかった農夫たちが囁き合う。
「おい見ろ、リシアが槍の修行してるぞ」
「なんだか門の前が活気づいてきたな」
「よし、俺たちも畑で立ってみるか」
「お前は畑じゃなくて嫁の前に立て」
「やかましい!」
くだらないやり取りに、リシアは吹き出しそうになりながらも必死に堪えた。
数刻が過ぎたころ、彼女の腕は完全に感覚を失っていた。
槍先がふらつき、とうとう地面に突き刺さる。
リシアは膝をつき、荒い息を吐いた。
「……っ、やっぱり……私には……」
弱音が漏れた瞬間、オルフの声が鋭く飛んだ。
「立て」
「えっ……」
「膝をついたら、そこで終わりだ。
立ちたいと言ったのはお前自身。ならば立て」
その声に、リシアの胸が強く鳴った。
歯を食いしばり、痺れる脚に力を込める。
ぐらつきながらも立ち上がり、再び槍を握った。
オルフは静かに頷いた。
「……それでいい。倒れてもいい。だが、必ず立ち直れ」
その言葉に、リシアの瞳が潤む。
「……はい!」
木槍を握る彼女の姿はまだ危なっかしい。
だが、その背筋には昨夜よりも確かな強さが芽生えていた。
昼下がり。
門の修復作業が一段落し、村人たちは井戸や畑へと散っていった。
穏やかな日差しが差し込む中で、門の外から小さな笑い声が聞こえてきた。
「おーい、待ってよー!」
振り向いたリシアは血の気が引いた。
幼い子どもが二人、柵の隙間からするりと抜けて、森の方へ駆けていくではないか。
「だめっ!」
思わず叫び、木槍を抱えたまま走り出した。
草むらに足を取られながらも、リシアは必死に子どもたちを追った。
森の方からは、かすかな唸り声のような風音が聞こえる。
背筋に冷たいものが走った。
「こっちに戻って! 危ないから!」
子どもたちは無邪気に笑い、振り返る。
「平気だよー! ちょっと探検するだけ!」
「お姉ちゃんも来なよー!」
「だめだってば!」
息を切らせながら追いつき、リシアは二人の前に立ちはだかった。
胸を大きく上下させ、木槍を地面に突き立てる。
その時、森の奥でガサリと枝が折れる音がした。
リシアの心臓が跳ねる。
思わず後ずさりしそうになるが――彼女は一歩も引かなかった。
(ここで逃げたら、子どもたちは……!)
小さな体を背に庇い、槍を構える。
恐怖で足が震えても、必死に声を張り上げた。
「通さぬ!」
張り詰めた声が、森の中へ響いた。
次の瞬間、肩を叩かれる。
振り返れば、いつの間にか追いついてきたオルフが立っていた。
「……悪くない」
彼は短くそう言うと、鋭い眼差しで森を睨む。
気配はやがて遠ざかり、ざわめきだけを残して静かになった。
「子どもたち、戻れ」
低い声に、二人は慌てて村へ駆け戻る。
リシアはようやく肩の力を抜き、その場にへたり込みそうになった。
「はぁ……こ、怖かった……」
だがオルフが静かに告げる。
「今のお前は、倒れずに“立った”。それで十分だ」
その一言に、リシアの胸が熱くなる。
涙をこらえながら木槍を握り直し、力強く頷いた。
(少しだけど……私、前に進めたんだ)
村に戻ると、すでに噂が広まっていた。
「聞いたか? リシアが子どもを守ったんだって!」
「おっさんの弟子、やるじゃないか!」
「通さぬ姉ちゃんだな!」
どっと笑いが起こり、リシアは顔を真っ赤にした。
からかい半分の声に混じって、本物の称賛があった。
オルフはそれを背に聞きながら、無言で槍を携え直す。
だがその口元は、ほんのわずかに緩んでいた。
夕暮れ。
村の喧噪が収まり、家々から夕餉の匂いが漂い始めるころ――森の奥は静かにざわめいていた。
焚き火の赤い炎を囲むのは、傷だらけの盗賊の残党たち。
腕や顔に包帯を巻き、皆が青ざめた顔でうつむいている。
誰も口を開かず、ただ焚き火の爆ぜる音だけが響く。
やがて、その沈黙を切り裂く重い足音が近づいてきた。
闇の奥から現れたのは、漆黒の外套をまとった長身の男。
顔はフードの影に隠れているが、ただ立つだけで残党たちは膝を折りそうになる。
「……門番ひとりに退けられたと聞いた」
低い声が、森の空気を震わせた。
残党の一人が恐る恐る答える。
「も、申し訳ありません……頭もやられ、我らでは……」
「黙れ」
鋭い一言で、誰もが息を呑んだ。
火の粉が舞う中、男は焚き火を見下ろしながら続ける。
「門を守る老兵……噂以上のしぶとさよ。
だが、それも今宵までのことだ」
男が手を掲げると、森の奥で鎖の軋む音が響いた。
次いで、地面を叩く重い足音。
現れたのは、人の背丈を優に超える異形の獣だった。
黒い毛並みは煤のようにざらつき、眼は血のように赤く光っている。
牙は剣のように長く、吐き出す息だけで土を抉った。
「ひ、ひいっ……!」
盗賊たちは慌てて後ずさる。
「これが“獣”か……」
声にならぬ呻きが漏れた。
黒衣の男は低く笑う。
「恐れることはない。お前たちが戦う必要はない。
次に動くのは、こいつだ」
獣が鎖を引きちぎらんばかりに唸り声を上げる。
その音は森を震わせ、鳥たちを一斉に飛び立たせた。
「老いぼれの槍が、どこまで通せるか……見物だな」
男の嘲笑と、獣の咆哮が夜の森を満たした。
一方その頃。
村の門前では、オルフが静かに森の方へ視線を向けていた。
隣で木槍を握るリシアも、背筋にぞわりと悪寒を覚える。
「……オルフさん、森の方から……」
「ああ、来るぞ。次は“人”ではない」
その声に、リシアは唾を飲み込み、木槍を強く握った。
遠くで響いた獣の遠吠えが、二人の決意を試すように夜空へ轟いた。
夜が再び訪れた。
村の家々からは灯りが漏れ、晩餐の匂いが漂う。
だが門の前は昼と変わらず、静かな緊張に包まれていた。
オルフは槍を携え、無言で立つ。
その隣には、木槍を抱えたリシアがいる。
昼間の訓練で腕はすでに痺れ、足も棒のようだ。
それでも彼女は、背筋を伸ばして踏みとどまっていた。
しばし沈黙ののち、オルフが口を開いた。
「……立ち方は覚えたか」
リシアは荒い息を吐きながらも、必死に頷いた。
「はい……まだふらつきますけど……でも、立ち続ける意味は、少しわかってきました」
「ほう。どんな意味だ」
問いかけに、リシアは唇を噛みしめ、震える声で答えた。
「怖いんです。本当はすごく。足も震えるし、逃げたいって思う。
でも、それでも立つと……心が、逃げないって決めたみたいに強くなるんです」
その言葉に、オルフの瞳がわずかに揺れた。
「……俺が弟子にしても、すぐに折れると思っていた」
オルフは低く呟いた。
「だが――その眼は、折れてはいない」
リシアは驚いて顔を上げた。
オルフの眼差しは厳しいままだが、その奥にはわずかな温もりが宿っていた。
「お前はまだ弱い。槍の扱いも未熟だし、腕力もない。
だが“立ち続ける”と決めたその心は……弟子と呼ぶに足る」
リシアの胸が熱くなった。
「……オルフさん」
溢れる涙を拭わず、彼女は木槍を強く握りしめる。
その時、背後から声がした。
「おーい、通さぬ姉ちゃん!」
振り返れば、子どもたちが駆け寄ってきていた。
「また門に立ってるの?」
「すげー! おっさんと並んでる!」
「俺も弟子にしてくれー!」
無邪気な声に、リシアの顔が赤くなる。
「ちょ、からかわないでよ!」
オルフは鼻を鳴らした。
「弟子が増えるのは早すぎるな」
その一言に子どもたちは笑い、村人たちの間に和やかな空気が広がった。
だが、ふと吹いた夜風が空気を一変させた。
森の奥から、不気味な遠吠えが響いたのだ。
「……まただ」
リシアの背筋に冷たいものが走る。
昼間も聞いたあの声。獣とも人ともつかぬ叫び。
オルフは槍を握り直し、低く言った。
「来るぞ。次は盗賊ではない。もっと……牙の鋭いものだ」
リシアはごくりと唾を飲み込み、足を震わせながらも木槍を構える。
「私も……一緒に立ちます」
その言葉に、オルフは短く頷いた。
「それでいい。弟子ならば、背を向けるな」
二人の影が、松明の明かりに長く伸びる。
村人たちもざわめきながら見守っていた。
恐怖は確かにある。
だがその恐怖を、オルフとリシアの背中が押し返していた。
村の子どもが小さな声で真似をする。
「……通さぬ」
それが次々に広がり、やがて幾人もの声が門前に重なった。
「通さぬ」「通さぬぞ」と。
その声に支えられるように、リシアの瞳は強く光った。
夜空には星が瞬き、森の奥には獣の影が潜む。
だが門前には、師弟の二人が立っていた。
老兵と若き弟子。
その決意は、夜明けに向けてさらに固く結ばれていく。