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第6話 立ち方を知れ

 夜の冷気が肌を刺す。

 村の門の前には二つの影が並んでいた。

 一人は老いた門番――オルフ。

 もう一人は、栗色の髪を結った娘――リシア。


 オルフは槍を突き立て、低い声で告げた。

「まずは……立て」


「……立つ、だけ?」

 リシアは思わず聞き返した。


「そうだ。槍も剣も持つな。ただ門の前に立ち続けろ。

 恐怖も、眠気も、寒さも……逃げずに耐えることから始めろ」


 その言葉に、リシアの胸が強く鳴った。

 剣を振るう訓練や体を鍛える稽古を想像していた。

 だがオルフが課したのは、ただの「立つ」こと。

 けれど、その声の奥に――夜を越えた男だけが持つ重みがあった。


 リシアは深呼吸をし、門に向かって両足を開いた。

 夜風が裾を揺らし、足元から冷気が這い上がってくる。

 腕を組み、肩を震わせながらも必死に立ち続けた。


 時間が経つにつれて、寒さだけでなく眠気も襲ってくる。

 まぶたが重くなり、足の感覚が薄れていく。

 それでも背後でオルフがじっと見ている気配があり、逃げるわけにはいかなかった。


(私……昨夜は、何もできなかった。

 でも、今度は……立っていたい。あの人のように)


 ちょうどその頃、早起きの村人が数人、通りがかりに足を止めた。

 薪を抱えたおばさんが目を丸くする。

「ちょっと見なさいよ、リシアが門番してるよ!」


「はは、嫁入り前なのに門番とはな」

「いやいや、胸張って立ってるのは門より立派かもしれんぞ」


 年配の男たちが茶々を入れると、近くの子どもが無邪気に笑った。

「リシア姉ちゃん、門より大きいおっぱいだ!」


「こら!」と母親に頭を小突かれ、周囲が小さな笑いに包まれる。


 リシアの耳まで真っ赤になったが、それでも足を止めなかった。

 オルフが無言で横目に見やると、彼女はぎゅっと唇を噛んで視線を正面に戻した。


 横目で見ると、オルフはいつも通り槍を携えて立っている。

 血に染まった包帯がまだ生々しく、その姿は痛々しいはずなのに、背筋は真っ直ぐで揺らがない。


「……なぜ、そこまで立てるんですか?」

 思わずリシアが口を開いた。


 オルフは短く答える。

「立たねば、誰も守れん」


 その言葉は鋭い刃のように胸を刺した。

 守るために立つ。

 ただそれだけの、簡単で、けれど決して軽くはない答え。


 夜は長い。

 リシアの足は痺れ、背中はこわばり、やがて汗が冷えて体温を奪う。

 それでも、彼女は倒れまいと必死に耐えた。


(もし、また襲ってきたら……今度こそ私も一緒に立つんだ。

 オルフさんの背中に隠れるんじゃなくて、並び立って……!)


 門の前で娘が必死に立ち続ける姿は、村人たちの噂にもなった。

「おい、見たか? オルフのおっさんが弟子を取ったらしいぞ」

「弟子? あのおっさんが?」

「しかもリシアだってよ。こりゃ村一番の根性娘だな」


 苦笑混じりの声が飛び交い、少しずつ空気が柔らかくなっていく。


 月が雲間から覗き、白い光が二人の影を照らした。

 夜明けまでの試練は、まだ始まったばかりだった。



 朝日が昇り始めたころ、村のあちこちから人々が外へ出てきた。

 柵の修理に向かう者、畑を見回る者、水を汲みに行く者。

 皆が足を止めて、門の前に立つ二人の姿を見つめた。


 老いた門番――オルフ。

 そしてその隣で、栗色の髪を結ったリシアが真剣に立っている。


「おいおい、見ろよ。あれは……リシアじゃねぇか」

「ほんとだ。あの子、昨日まで酒場で“私なんか何もできなかった”って泣いてたのに」

「それが今日は門番の隣か。いやはや、人間わからんもんだ」


 村人たちの視線は好奇と驚きに満ちていた。


 子どもたちが数人駆け寄ってきて、木の枝を槍に見立てて叫ぶ。

「通さぬぞー!」

「リシア姉ちゃん、がんばれー!」


 その声に、大人たちが苦笑する。

「やれやれ、もう門番ごっこが流行り始めたか」

「次の収穫祭じゃ“通さぬ踊り”でも始まるかもしれんぞ」


 隣の老婆が笑いながら答えた。

「それはそれで村の名物になっていいじゃないか」


 だが中には腕を組み、渋い顔をする者もいた。

「けどな……村を守るのは女の仕事じゃないだろう」

「そう言うなよ。あの子の胸には夢が詰まってるんだ」

「お前、それは胸の話がしたいだけだろ!」


 場がどっと笑いに包まれる。

 その笑いは緊張をほぐし、同時にリシアへの応援の色を帯びていった。


 井戸端に集まった主婦たちもひそひそと話している。

「リシアちゃん、やっぱり目立つねえ」

「門に立ってると、なんだか村の看板娘みたいだよ」

「いや、看板よりも迫力あるかも」

「……ふふ、男たちが無駄に視線を逸らしてるのが笑えるわ」


 肩を揺らしながら笑う声に、周囲の空気が柔らかくなる。


 リシア自身はそんな声に気づきながらも、表情を崩さなかった。

 足は痺れ、背中は強張っている。

 それでも視線を正面に固定し、ただ立ち続ける。


(笑われてもいい……でも、今度は絶対に逃げない)


 オルフが隣で小さく頷いた。

「……少しは門らしくなってきたな」


 その言葉にリシアの頬がわずかに熱くなる。

 背後ではまだ村人たちの笑いや囁きが続いていたが、それはもう嘲りではなかった。


 ――門に新しい風が吹き始めていた。



 昼前。

 村の広場の片隅、若者兵団の詰め所では重苦しい空気が漂っていた。

 木の机を囲んで数人の若者が座り込み、剣や槍を傍らに置いたまま沈黙している。


「……見たか、リシアのやつ」

 最初に口を開いたのはキースだった。

 痩せ型で口数の多い彼は、苛立ちを隠せない様子で机を指で叩く。


「ああ、門に立ってたな。おっさんの隣で」

「ったく、女が門に立つなんて聞いたことあるか? 笑わせるぜ」


 そう言いながらも、彼らの声にはどこか力がなかった。

 昨夜、盗賊の襲撃を前に足がすくみ、まともに戦えなかった自分たちの姿が脳裏に焼き付いていたからだ。


 沈黙を破ったのは、体格のいいハルドだった。

 腕を組み、渋い顔で呟く。

「……だが、あいつは立ってた。俺たちは立てなかったのに」


 その一言に、場がぴりつく。

 誰も反論できず、ただ視線を逸らす。


 キースがむきになって声を上げた。

「立ってた? ただ立ってただけだろ! 剣も槍も持たずに、突っ立ってただけじゃねぇか!」


「……それでも、俺たちよりはずっと立派だ」

 ハルドの低い声に、他の若者たちは口を閉ざすしかなかった。


 その時、戸口から声が飛んだ。

「リシアを笑うな!」


 全員の視線がそちらに向く。

 息を切らせたリシアが立っていた。

 昼休憩の合間に詰め所に来たらしい。

 栗色の髪は乱れ、頬にはまだ緊張の色が残っている。


「私だって、昨夜は何もできなかった。怖くて動けなかった。

 でも……オルフさんを見て、決めたの。私は、もう逃げない」


 その真剣な声に、若者たちはたじろいだ。

 キースが鼻を鳴らす。

「……女が戦えるもんか」


「じゃあ聞くけど、あなたたちは昨夜、戦えたの?」


 リシアの言葉に、場が凍りつく。

 誰も答えられない。

 その沈黙が、彼女の言葉の正しさを物語っていた。


 ハルドは深く息を吐き、リシアに向き直った。

「……本気でやるつもりか」


「はい。本気です」

 リシアは拳を握りしめた。

 豊かな胸が上下し、呼吸が乱れていても、その瞳だけは真っ直ぐに光っていた。


「私は弟子になります。オルフさんから、立つことを学びます」


 その宣言に、若者たちはざわめいた。

 「弟子だと?」

 「おっさんが弟子なんて取るのか?」


 ざわざわとした空気の中、キースが小声で呟いた。

「……でも、もし本当に強くなったら……」


「おい、聞こえてるぞ!」

 誰かが肘で突き、場がまた笑いに包まれる。

 その笑いは嘲りではなく、動揺を隠すためのものだった。


 リシアは一歩前に出て、はっきりと言った。

「次に襲撃があったら、私も門に立ちます。守られるだけじゃなく、守る人になるんです」


 その決意に、若者たちは何も言えなかった。

 ただハルドだけが、静かに頷いた。

「……なら、俺たちも負けてられねぇな」


 その言葉に、沈んでいた空気が少し変わる。

 プライドと尊敬、悔しさと憧れ――相反する感情が入り混じり、若者兵団の胸を熱くしていった。



 夜が更けていく。

 門の前に立つリシアの体は、すでに限界に近づいていた。


 両脚は痺れ、ふくらはぎは鉛のように重い。

 指先は冷えきって感覚がなく、歯の根はかちかちと鳴って止まらない。

 視界の端がぼやけ、世界がゆらゆらと揺れて見える。


(こんなに……“立つ”だけが辛いなんて……)


 戦いを想像していた彼女にとって、この修行は予想以上の苦痛だった。

 剣を振り回すよりも、重い荷を担ぐよりも、はるかに心を削る。

 なぜなら――「逃げ出す口実がいくらでもある」のに、それを許されないからだ。


 頭の中に、あの夜の光景がよみがえる。

 燃え上がる松明。

 血に濡れた地面。

 震えて動けず、ただ祈ることしかできなかった自分。


(あのとき、私が立っていたら……子どもたちを後ろに下がらせるぐらいはできたはず。

 なのに、何もできなかった)


 胸の奥がきゅっと痛む。

 悔しさと情けなさが、冷たい夜気よりも強く彼女を責め立てる。


 隣では、オルフが無言で槍を支えながら立ち続けていた。

 時折、風に揺れる外套の隙間から血に滲んだ包帯が覗く。

 あれほどの傷を負いながら、背筋を伸ばし続ける姿は岩のように揺るぎない。


(……私も、あの背中みたいに……)


 そう願うのに、膝が折れそうになる。

 ぐらりと身体が傾いた瞬間、オルフの低い声が響いた。


「倒れるな」


 それは叱責ではなく、支えのような響きだった。

 リシアは歯を食いしばり、再び両脚に力を込める。


 だが、心の中では恐怖も膨らんでいた。

 暗い森の奥から聞こえる梟の声や、木々が軋む音。

 それらがすべて「また盗賊が来るのでは」という不安を煽る。


(怖い……やっぱり、私は向いてないのかな)


 弱音が喉までこみ上げる。

 しかし同時に、あの夜泣きながら助けを求めた子どもたちの顔が浮かんだ。


(守りたい……!)


 心臓が強く打ち、寒さより熱いものが胸に広がる。


 リシアは震える脚を動かし、わざと地面を踏みしめた。

 土の感触を確かめることで、「まだ立てる」と自分に言い聞かせる。

 吐く息は白く、瞳には涙が滲んでいたが――それでも彼女は一歩も退かない。


「……逃げない。私は……立つ」


 小さな声が夜に溶けた。

 それは自分に対する誓い。

 そして、オルフの隣に立ちたいと願う心の証だった。



 夜明けが近づくころ、リシアの身体は限界に達していた。

 足先の感覚はとうに消え、膝は笑うように震え続けている。

 背中を支える筋肉は鉛のように固まり、肩は石を担いでいるかのように重かった。


 それでも――倒れなかった。

 オルフの隣に並び立ちたい一心で、必死に呼吸を整え続けていた。


 その様子を横目で見ていたオルフが、静かに口を開いた。

「……立つというのは、簡単なようで、一番難しい」


 リシアは荒い息を吐きながらも、必死に耳を傾ける。


「剣を振るうのは、覚えれば誰でもできる。

 槍を握るのも、力があれば子どもでもできる。

 だが――“立ち続ける”ことは、誰にでもできるわけじゃない」


 オルフの声は低く、夜気の中でよく響いた。


「恐怖を前にしても、痛みに耐えても、心が折れれば足は止まる。

 仲間が叫び、血が飛び散れば、立つことさえできなくなる。

 それでも立ち続けられる者だけが……門を守れる」


 リシアは歯を食いしばり、揺れる視界の中でオルフを見上げた。

 その顔は焚き火に照らされるように厳しく、けれどどこか哀しみも滲んでいた。


「……オルフさんは、どうしてそんなに立てるんですか」

 かすれた声で尋ねると、オルフは一瞬黙り、森の奥に目を向けた。


「……昔、王都で夜警をしていた。

 あの時も俺は門に立っていた。

 だが群衆に紛れた暗殺者を見抜けず、仲間を一人、死なせた」


 短く、淡々とした言葉。

 しかしそこに込められた悔恨は重かった。


「俺はただ立っていただけだった。

 守るべきものを守れなかった。

 だから……もう二度と、見逃さぬと決めた。

 門を通さぬと決めた」


 その声はかすかに震えていた。


 リシアは胸が締めつけられる思いで、その言葉を受け止めた。

 老兵の背負うものの大きさに、涙がこぼれそうになる。


(私なんかが……そんな人に弟子入りを願ったんだ)


 一瞬、身の程を思い知らされる。

 だがすぐに拳を握り直した。


「……それでも、私は立ちます」


 リシアの声は弱々しくも真っ直ぐだった。

 オルフがわずかに目を細める。


「立つと口で言うのは簡単だ。

 だが――立ち続けるのは地獄だぞ」


「わかっています。

 でも、私もあの夜を忘れたくない。

 守られるだけで泣いていた自分に戻りたくないんです」


 震えながらも放たれたその言葉に、オルフの胸にかすかな熱が走った。

 かつて自分が持っていた、若き日の憧れ。

 それを目の前の娘が口にしている。


 やがてオルフは槍を支え直し、静かに告げた。

「……なら、夜明けまで立ってみろ。

 それができたら、お前の覚悟を信じよう」


 リシアは涙を拭い、強く頷いた。

「はい……必ず!」


 冷たい風が吹き抜け、二人の影を揺らした。

 師の語りと弟子の誓いは、夜明けの静けさの中で確かに刻まれた。



 その頃、村から離れた森の奥。

 月の光も届かぬ闇の中で、盗賊の残党たちが肩を寄せ合っていた。

 あの夜、オルフに敗れた者たちだ。

 顔や腕には粗末な包帯が巻かれ、誰もが怯えた眼をしている。


「ち、畜生……かしらをやられるなんてよ」

「門番ひとりに負けた、なんて……笑い話にもならねぇ」


 吐き出す声は震え、焚き火の炎がその影を不気味に揺らす。

 敗北の痛みだけでなく、背後に控える“存在”への恐怖が彼らを縛っていた。


 不意に、森の奥から重い足音が響いた。

 地面を抉るような音に、残党たちは一斉に顔を上げる。


「……来たぞ」


 低い声とともに現れたのは、漆黒の外套をまとった長身の男。

 顔はフードに隠れているが、ただ立つだけで空気が冷え込む。


「門番に過ぎぬ男が、お前たちを退けたと聞いた」


 低く響く声に、残党たちは縮こまる。

 返す言葉もなく、ただ焚き火のはぜる音が耳に刺さった。


「……愚か者ども。頭を失っただけで浮き足立ち、村を潰せぬとは」


 冷たい嘲笑が夜気に溶け、誰も反論できない。


 男はゆっくりと腕を上げた。

 その合図に応じるように、森の奥から「ゴウッ」と低い唸り声が響く。

 木々が揺れ、枝が折れる音。

 現れたのは、獣とも人ともつかぬ巨大な影だった。


 毛皮は煤のように黒く、赤い眼が闇に光る。

 口を開けば鋭い牙が月光を反射し、吐息だけで空気が震えた。


 盗賊の一人が恐怖に声を上げた。

「な、なんだよ……あんな化け物、聞いてねぇぞ!」


「静まれ」

 黒衣の男の一言に、空気が凍る。


「これこそが“獣”。

 次はこいつを村へ送り込む。

 老いた槍がどこまで通せるか……見ものだな」


 獣が森の木を爪で引き裂き、耳をつんざく咆哮を上げた。

 残党たちは青ざめ、誰もが膝を折りそうになりながら顔を伏せる。


 夜風が血の匂いを運び、焚き火が吹き消される。

 闇の中で、黒幕の低い笑いだけが響いた。


 一方その頃、村の門前。

 リシアは必死に立ち続けながら、森の方へ目をやった。

 暗い木々の奥に、得体の知れない気配が蠢いているのを肌で感じたからだ。


「……オルフさん、何か……来ます」


 オルフは槍を握り直し、静かにうなずいた。

「感じ取れたか。ならば――立つ意味を、ようやく掴みかけている」


 リシアはごくりと唾を飲み込み、視線を前に戻した。

 心臓が早鐘を打つ。

 だが、もう逃げたいとは思わなかった。



 長い夜が終わろうとしていた。

 東の空が白み始め、鳥のさえずりが遠くで聞こえる。

 冷え切った大地に霜が降り、吐く息は白い。


 その門の前に、二人の影が並んでいた。

 一人は槍を突き立てた老兵――オルフ。

 もう一人は、栗色の髪を結んだ娘――リシア。


 彼女の足は痺れ、もう棒のようだった。

 瞼は重く、涙と眠気で視界が霞んでいる。

 それでも倒れなかった。


(私……立ってる……夜明けまで……!)


 ふらつく身体を必死に支えながら、リシアは心の中で叫んだ。

 胸の奥には、恐怖や不安よりも、確かな達成感が宿っていた。


 オルフが隣で低く言った。

「……よくやったな」


 その一言に、リシアの瞳が潤む。

 全身の力が抜け、思わずその場に膝をつきそうになるが、必死に堪えた。


「まだ……倒れません……! 私、立ち続けます……!」


 荒い息の合間に絞り出した声。

 それを聞いたオルフは、ほんのわずかに口元を緩めた。


「強がりも、立派なもんだ」


 村の人々も、朝の支度をしながら門の様子に気づき始めた。

 牛を連れた農夫が足を止め、目を丸くする。

「おいおい、徹夜で立ってたのか? あの子」


 隣の老婆が笑う。

「ほら見な、若いってのは恐ろしいねえ。あの胸で夜通し立ってたんだよ」


「胸は関係ねぇだろ」

「いや、重し代わりで安定してるのかもしれん」


 くだらない掛け合いに、近くの子どもがくすくすと笑った。

 重苦しい空気だった村に、少しずつ柔らかな光が戻っていく。


 リシアは人々の視線を感じて頬を赤らめた。

 だが、その胸には確かな誇りが芽生えていた。


(昨日までの私なら、笑われるだけで泣いて逃げてた。

 でも今は……違う。私は“弟子”なんだ)


 小さく拳を握り、彼女は自分の足に言い聞かせるように地を踏みしめた。


 オルフは静かに言った。

「……これで、弟子と認めよう」


 その瞬間、リシアの瞳に涙があふれた。

「……ありがとうございます! 絶対に強くなります!」


 声は震え、全身は疲れ切っていた。

 それでも彼女の姿は、夜明けの光を浴びて誰よりも凛として見えた。


 だが、安堵の空気は長くは続かなかった。

 遠くの森から、不気味な咆哮が響いたのだ。


「――オオォォォォン!」


 獣のものとも、人のものともつかぬ低い叫び。

 村人たちの笑い声が一瞬で凍りつき、皆が森の方へ振り返った。


「な、なんだ今のは……」

「獣か? いや、あんな声は聞いたことがねぇ」


 ざわめきが広がる。


 オルフは槍を握り直し、目を細めた。

 リシアも必死に立ち続け、隣に並ぶ。

 恐怖で足が震えても、今度は逃げる気はなかった。


「……聞いたな、リシア」

「はい……」


「次は、“立ち方”だけじゃ足りん。

 お前に必要なのは――“戦う覚悟”だ」


 静かに告げられた言葉に、リシアは息を呑んだ。


 東の空はすっかり明るくなり、朝日が二人の影を長く伸ばした。

 村を守る老兵と、その弟子となった娘。

 その前に迫るのは、盗賊を超えた新たな脅威だった。


 試練はまだ始まったばかり。

 だが二人は確かに――夜明けとともに師弟となったのだった。

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