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第5話 朝焼けの弟子志願

 空が白み始めるころ、村の門前にはまだ血の匂いが漂っていた。

 夜の戦いで倒れた盗賊の影は消えたが、地面には深い足跡と血痕が残り、夜風が吹くたびに鉄の匂いが鼻を刺した。


 その中央に、オルフがいた。

 背中は大きく、肩には矢傷が走り、衣服は裂けて血に染まっている。

 それでも槍を手放さず、門の前に立ち続けていた。


 村人たちは恐る恐る近づいた。

 夜明けとともに一人、また一人と外へ出てきて、炎に焼かれた柵や地に転がる折れた武器を目にするたびに息を呑んだ。


「おっさん……まだ立ってる……」

「いや、もう“おっさん”なんて言えねぇよ。門を守ったのは、あの人だ」


 誰かが呟き、他の者も口をつぐむ。

 普段は冷やかしや陰口を叩いていた人々の眼に、いまは畏れと尊敬が混じっていた。


 子どもを抱いた母親が涙ながらに声を上げる。

「本当に……守ってくださったんですね……!」


 オルフは顔を上げた。

 夜明けの光に照らされたその眼は、疲労と痛みに霞んでいながらも鋭く、ただ一言を口にする。


「……まだ終わってはいない。立っていただけだ」


 その言葉に、村人たちは押し黙った。

 確かに盗賊は退けられた。だが、この夜襲がすべてではないことを、誰もが本能で感じ取っていた。


 村人たちが慌ただしく動き始める。

 倒れた柵を直そうと木材を運ぶ者、傷ついた仲間を介抱する者。

 誰もがまだ震えていたが、それでも「生き延びた」という安堵が足を動かしていた。


 その中で、オルフは一歩も動かず槍を握り続けた。

 血が滲み、手の震えが止まらない。

 だが背筋は真っ直ぐで、まるで「まだ門を通さぬ」と言わんばかりだった。


 その姿に、村人たちは言葉を失う。

 臆病だと笑われ続けたただの門番が、血と傷の中でなお立ち続けている――その現実が、彼らの心を揺さぶっていた。


 夜明けの光が村を照らす。

 赤く濡れた地面が少しずつ乾き、焦げた匂いに混じって朝の湿った空気が広がる。

 それでも人々は、門の前に立つオルフの姿から目を逸らせなかった。


「……門は通さぬ」


 低く掠れた声が、夜明けの空に溶けて消える。

 その言葉は、村全体に「この男が守っている」という確信を刻み込むようだった。


 朝日が昇るにつれて、村人たちの声が広場に満ちていった。

 夜通し震えていた家々から、恐る恐る人が出てきて、門の前でまだ槍を握るオルフを見て息を呑む。


「オルフさんが……本当に、守ってくれたのか……」

「盗賊が退いたのは、あの人のおかげだ」


 言葉が次々に漏れ出し、やがて安堵と混乱が入り混じったざわめきへと変わる。

 母親は幼い子を抱きしめながら泣き、老人は震える手で胸を押さえた。

 一方で、若い男たちの中には「だが、次も守れるのか?」と不安を口にする者もいた。


 感謝と疑念。その両方が、村の空気を複雑に揺らしていた。


 その中で、一人の娘が人混みをかき分けて進み出た。

 栗色の髪を後ろで結い、頬には汗と煤の跡。

 布の服は破れて土に汚れているが、健康的な肢体は引き締まり、豊かな胸の曲線を隠しきれない。

 彼女の姿に周囲の男たちが思わず視線を逸らした。


 娘の名は――リシア。

 若者兵団の末席に名を連ねていたが、襲撃の夜は恐怖に足がすくみ、何もできなかった。

 だからこそ、槍を振るうオルフの姿を目の当たりにして、胸の奥が強く揺さぶられていた。


 リシアは両腕に大きな籠を抱えていた。

 中には湯気の立つ粥と、果実を刻んだ木皿。

 彼女は息を切らしながらオルフの前まで歩み寄り、籠を差し出した。


「……あの、これを。せめて……お腹を満たしてください」


 声はかすかに震えていた。

 しかしその眼差しは、夜を生き抜いた者だけが持つ真剣さで輝いていた。


 オルフはしばし無言で彼女を見つめた。

 戦いの疲れが深く刻まれた瞳に、若い娘の必死さが映る。

 やがて短くうなずき、籠を受け取った。


「……すまん」


 それだけの言葉に、リシアは胸を押さえて俯いた。

 ただの感謝ではない。

 自分の弱さを突きつけられた悔しさと、オルフへの尊敬が入り混じって、熱いものが込み上げてくる。


 村人たちはその様子を見て、またざわめいた。

「リシアまで……」

「いや、あれだけの戦いを見れば……当然だ」


 人々の空気が、少しずつ変わっていく。

 臆病だと嘲られていた門番が、いまや村の中心に立っている。

 そして、その姿に惹かれて歩み寄る者が現れた。


 だが、一方で若者兵団の面々は沈黙していた。

 剣を下げたまま、悔しそうにオルフを見つめる。

 「俺たちが守るべきだったのに……」

 誰かが小さく呟いた。


 その視線の先で、リシアはオルフを見上げたまま拳を握りしめていた。

 夜の恐怖に立ち尽くしていた自分を思い返し、唇を噛みしめる。

(次は……私も立たなくちゃいけない。守られるだけじゃ、駄目だ)


 その決意は、まだ言葉にはならない。

 だが確かに、彼女の心に芽生え始めていた。


 陽がすっかり昇るころ、若者兵団の面々は村の酒場に集まっていた。

 酒場といっても、石造りの建物に粗末な机が並ぶだけの小さな場所だ。

 だが夜襲の後で人心がざわつく今、そこは彼らが悔しさを吐き出す場所になっていた。


「くそっ……俺たち、何やってたんだ」

 椅子を蹴るように腰を下ろしたのは、鍛えた腕を持つ青年ハルドだった。

 その隣で、槍を抱いたままのキースが深くうなだれる。

「……門を守ったのは、結局オルフのおっさんだった。俺たちじゃない」


 沈黙が重く垂れ込める。

 昨夜、彼らは武器を手にしながらも足がすくみ、村の奥で震えていた。

 戦いの音を聞きながら、一歩も前に出られなかった自分たちの姿が頭から離れない。


「臆病者だって笑ってたのは、俺たちだぞ……」

「その“臆病者”が、俺たちより強かったんだ」


 言葉が刃のように胸に突き刺さり、誰も顔を上げられなかった。


 その場に、リシアもいた。

 粗末な椅子に腰を下ろし、拳を膝に置いたまま硬く握りしめている。

 昨夜の戦いで彼女も若者兵団に加わっていた――が、体は震え、何もできずに立ち尽くすだけだった。


「……私も、怖かった」

 沈黙を破るように、リシアが口を開いた。

「足が動かなくて……ただ泣きそうになってた。あんなに必死で戦ってる人がいたのに」


 声は震えていた。

 だがその瞳は涙で濡れながらも、はっきりと光を宿していた。


「だから……私、悔しい。守られるだけで、何もできない自分が」


 その言葉に、青年たちは一瞬口を閉ざした。

 自分たちの弱さを突きつけられた気がしたからだ。


「……俺たち、どうすればいいんだ」

 キースが低く呟く。

「次にまた襲ってきたら、今度こそ村は……」


 重苦しい空気の中で、ハルドが拳を握りしめた。

「もっと鍛えるしかない。槍の構えだって、オルフのおっさんに学べば……」


「冗談じゃねぇ!」

 別の若者が叫んだ。

「臆病者って笑ってたのに、今さら教えを乞うのか? そんなの、プライドが許さねぇ!」


 感情がぶつかり合い、酒場に怒声が響いた。

 プライドか、生き残るための実力か。

 彼らはその狭間で揺れ、答えを出せずにいた。


 リシアは唇を噛みしめ、椅子から立ち上がった。

 胸の奥から熱がこみ上げ、言葉が溢れる。


「……私は学びたい。オルフさんから」


 青年たちが一斉に振り返る。

 その視線に怯えながらも、リシアは真っ直ぐに言った。


「昨日、私は動けなかった。でも、あの人は立って、戦って……私たちを守った。

 だから今度は、私も立ちたい。誰かに守られるんじゃなくて、自分で守れる人になりたいの!」


 声が酒場の空気を震わせる。

 若者たちは言葉を失った。

 リシアの胸が大きく上下し、涙が頬を伝う。

 それでも彼女の瞳は、オルフを見たときの強い光を失っていなかった。


 沈黙を破ったのはハルドだった。

「……本気、なんだな」


 リシアは力強くうなずいた。

「はい。本気です」


 その姿に、何人かの若者の目が揺れた。

 尊敬と、悔しさと、羨望。

 感情が入り混じり、誰もが拳を強く握りしめる。


 その夜の酒場には、敗北の苦さと、新たな決意の芽吹きが同時に漂っていた。

 そしてリシアの心には、ひとつの確かな思いが芽生えていた。


(オルフさんに――弟子入りを頼もう)


 戦いから一夜明けた昼下がり。

 村の広場には折れた槍や矢じり、壊れた柵の残骸が積まれ、村人たちが修復作業に追われていた。

 その喧噪の奥で、村長の家にオルフの姿があった。


 年老いた村長は杖を突き、重い息をつきながらオルフを迎えた。

 深い皺の刻まれた顔は、どこか沈痛な影を帯びている。


「……オルフ。わしは、お前に謝らねばならん」


 その言葉に、オルフは片眉を上げた。

 夜明けから何度も繰り返された言葉――「ありがとう」や「助かった」ではなく、謝罪の響き。


「お前を“臆病者”と呼び、門に立つだけの無用者だと思っていた。

 だが昨夜……村を救ったのは紛れもなく、お前の眼と槍だった」


 村長の声は震えていた。

 彼の後ろに並ぶ数人の古老も、静かに頭を垂れている。


 オルフはしばし沈黙し、やがて短く答えた。

「俺は……立っていただけだ」


 それは戦いの夜から繰り返している言葉。

 だが村長には、その裏にある固い信念が伝わっていた。


「立ち続けたからこそ、村は生き延びた。

 お前の眼はただ門を睨んでいたのではない。

 敵を見抜き、隙を捉え、未来を守ったのだ」


 その言葉に、オルフの瞳がわずかに揺れた。

 過去の失敗――守れなかった仲間の影が胸を刺す。

 だが村長の眼差しは揺るがず、深い敬意を宿していた。


 その会話を、戸口の影からじっと聞いている者がいた。

 栗色の髪を結った村娘――リシアだった。


 両手は強く胸元で握りしめられ、瞳は真剣に二人を見つめている。

 村長の「未来を守った」という言葉が、心の奥に突き刺さって離れない。


(やっぱり……あの人はただの門番じゃない。

 村を守るために立ち続けた、誰よりも強い人だ)


 昨夜、自分は震えるだけで動けなかった。

 だがオルフは傷だらけになりながら、誰一人通さなかった。

 その背中に、強さと覚悟を見た。


 村長は続ける。

「だがオルフ、このままではいかん。次に奴らが来たとき、お前一人では村を守り切れぬ。

 若者たちも鍛えねばならん。村の防衛を整える必要がある」


 オルフは短くうなずいた。

「……俺は立ち続ける。それだけだ」


 村長は深く息を吐き、苦笑を浮かべた。

「頑固なやつよ。だがその頑固さに、わしらは救われたのだ」


 その瞬間、リシアの中で決意が固まった。

 彼女は戸口から飛び出し、真っ直ぐにオルフを見据えた。


「村長さま、すみません……! 私、どうしても言いたいことがある!」


 突然の声に、室内の視線が集まる。

 リシアは胸を上下させながら、オルフに歩み寄った。


「オルフさん……! 私、あの夜、何もできなかった。怖くて、立つことさえできなかった。

 でも、あなたを見て……決めました。私も、立ちたい。守る人になりたいんです!」


 その言葉はまだ弟子入りの宣言ではなかった。

 だが、燃えるような決意の炎が込められていた。


 オルフは彼女をしばらく見つめた。

 村長も古老たちも言葉を失い、ただ若き娘の声に耳を傾けていた。


 リシアの拳は白くなるほど強く握りしめられている。

 豊かな胸が大きく上下し、呼吸が乱れていても、瞳は揺らがなかった。


(私は……弟子になる。この人の背中を追うんだ)


 その強い意志は、まだオルフには告げられていない。

 だが確かに、この瞬間、彼女の心に芽生えた。



 襲撃から二日後。

 村にはようやく日常の営みが戻りつつあった。

 壊れた柵は村人たちの手で修復され、荷車で材木が運び込まれ、子どもたちの泣き声も少しずつ笑い声に変わり始めていた。


 だが、村の誰もが門の前に立つオルフを意識していた。

 朝も昼も、血の滲む包帯を巻いたまま、彼は相変わらず槍を携え、村の入口を睨み続けている。


「おっさん……いや、オルフさんのおかげで、俺たち生き延びられたんだな」

「もう“臆病者”なんて言えねぇ。あれは本物だ」


 そんな声があちこちから聞こえ、子どもたちは木の枝を槍に見立てて遊んでいた。

「通さぬ! 通さぬぞ!」と真似をして叫ぶ声に、大人たちは苦笑しながらも誇らしげに頷いた。


 その光景を少し離れた場所から眺めるリシア。

 胸の奥がじんわり熱くなり、拳を握りしめる。

(あの人の姿が、村を変えてる……)


 決意は強まるばかりだった。


 彼女は昼の休憩時間を見計らい、桶に水と布を用意して門の方へ歩み出た。

 オルフは相変わらず槍を手にしたまま佇んでいる。

 近づくと、張り詰めた空気に思わず喉が鳴った。


「あ、あの……」


 声をかけると、オルフがゆっくりと振り返った。

 疲れの色を帯びた鋭い眼差しに、リシアは一瞬ひるむ。

 だがすぐに桶を差し出した。


「水を……どうか、傷を洗ってください」


 オルフはしばし無言で彼女を見つめ、やがて槍を壁に立てかけて受け取った。

 ごつごつとした大きな手が、桶を扱う仕草だけは不思議と丁寧だった。


 リシアは布を取り、ためらいがちにオルフの肩口へと手を伸ばす。

 裂けた衣服の隙間から見える深い傷跡に、思わず息を呑んだ。


「……これほどの怪我を負って、それでも立ち続けて……」


 言葉がこぼれた。

 オルフは淡々と答える。

「立たねば、村は焼かれた」


 その一言に、リシアの胸は強く打たれる。


 沈黙の中で、布が血を拭う音だけが響く。

 リシアは震える手を必死に抑えながら、心の奥で叫んでいた。


(私も……この背中に並び立ちたい)


 彼女の豊かな胸が大きく上下し、息が乱れていることに気づいたオルフは、少しだけ視線を逸らした。

 だが、彼の心にもわずかな変化が生まれていた。

 これまで門を守ることだけが生きる意味だったが、今は隣に立ちたいと願う者が現れている。


 リシアは布を絞り直し、もう一度オルフの肩に触れた。

 その指先は力強く、しかし震えを帯びていた。


「……次にまた来たら、今度は私も立ちます」


 小さな声だったが、確かな決意が込められていた。

 オルフはその瞳を見返し、わずかに目を細めた。


「立つことは……容易ではないぞ」


「それでも」


 リシアははっきりと答えた。

 胸を張り、真剣な眼差しで。


 村の日常は少しずつ戻っていく。

 だがその中で、ひとつの新しい絆が芽生え始めていた。

 老いた門番と、若き村娘。

 門の前に並ぶ未来は、まだ誰も知らない。



 夜。

 昼間の喧噪が嘘のように、村は再び静けさを取り戻していた。

 家々からは灯りが漏れ、食卓を囲む笑い声や子どもの囁きが遠くに響く。

 だが門の前には、いつもと変わらぬ姿があった。


 ――オルフ。

 血の滲む包帯を巻いたまま、槍を手にして立ち続けている。

 風が吹けば肩の痛みが走るはずなのに、その背筋は真っ直ぐで揺らがない。

 まるで門そのものが人の形を取ったかのようだった。


 その背中を見つめる影がひとつ。

 リシアだ。

 栗色の髪を解き、布を羽織って夜風に身を包みながら、彼女は震える唇を噛みしめていた。


(言わなきゃ……今、言わなきゃ絶対に後悔する)


 昼間から胸の奥で燃え続けていた想い。

 あの夜の戦いで、自分が何もできず立ち尽くした無力さ。

 その一方で、血にまみれながらも立ち続けたオルフの姿。


(あの背中に、私は並び立ちたい)


 勇気を振り絞り、一歩踏み出す。

 砂を踏む音に気づいたのか、オルフがわずかに振り返った。


「……リシアか」


 低く掠れた声。

 驚きも怒りもなく、ただ淡々と名を呼ばれたことに、リシアの胸が震えた。


 彼女は深呼吸をして、まっすぐに見つめ返した。

 豊かな胸が上下し、声が震える。

 けれども眼差しだけは、揺らがなかった。


「オルフさん……お願いがあります」


「……なんだ」


 リシアは拳を握り、言葉を吐き出す。


「私を――弟子にしてください!」


 その声は夜の静けさを破り、門前に響いた。

 オルフの瞳がわずかに細められる。


「……弟子、だと?」

 低い声に、リシアはこくりと頷いた。


「私は、あの夜……怖くて、何もできませんでした。

 でも、オルフさんは違った。

 傷だらけになりながらも、門を通さなかった。

 あの背中を見て……私も立ちたいって思ったんです。

 誰かに守られるだけじゃなく、誰かを守れる人になりたいんです!」


 言葉が止まらなかった。

 胸の奥に溜めていた悔しさと憧れが、涙とともにあふれ出す。

 頬を伝う雫を拭おうともせず、リシアは必死に訴えた。


 オルフはしばらく沈黙した。

 夜風が吹き、火の消えた松明がカタカタと音を立てる。

 彼の瞳は暗い森を越えて遠くを見ているようだった。


「……俺は、ただ立っていただけだ。

 戦いを教えたところで、お前の望むような強さが手に入るとは限らん」


 厳しい言葉。

 だがリシアは食い下がった。


「それでもいいんです!

 怖くても……弱くても……それを乗り越える方法を、私に教えてください!

 オルフさんのように、立ち続ける強さを!」


 彼女の胸は激しく上下し、豊かな曲線が夜風に揺れる。

 涙で濡れた瞳は、頑なな老兵をも押し動かす熱を帯びていた。


 オルフは槍を地に突き立て、重い息を吐いた。

 その音はまるで心の奥に積もった何かを吐き出すようだった。


「……立ち続けるというのは、簡単なことじゃない。

 痛みにも、恐怖にも、時には孤独にも耐えねばならん。

 それができなければ……命を落とす」


「わかっています」

 リシアは迷いなく答えた。


「それでも、私は立ちたい。

 あの夜、守られるだけで泣いていた自分には……もう戻りたくないんです!」


 その叫びは、彼女自身の弱さを断ち切るように響いた。


 オルフはリシアの瞳をじっと見つめた。

 震えながらも真っ直ぐな眼差し。

 そこに、かつて失った仲間たちの輝きを重ねる。


 やがて、ゆっくりと口を開いた。


「……なら、立つことから始めろ」


 リシアの目が大きく見開かれる。


「槍を振るうのも、剣を構えるのも、その先だ。

 まずは――立ち続けること。それができなければ、弟子にはなれん」


 それは承諾であり、試練の宣告でもあった。


 リシアは涙を拭い、大きく頷いた。

「はい……! 必ず立ち続けてみせます!」


 その声は夜空に澄んで響き、まるで村全体に新しい決意を告げる鐘の音のようだった。


 オルフは槍を握り直し、再び門へと顔を向ける。

 その隣に、若き弟子の影が静かに並び始めていた。



 村に静けさが戻った夜更け。

 門前ではオルフとリシアが並び立っていた。

 老いた門番と若き娘――新しい師弟の姿を、月が淡く照らしていた。


 だが、森の奥では別のざわめきが蠢いていた。


 暗い林の中。

 焚き火を囲む数人の影が、呻くような声を漏らしていた。


「ちくしょう……かしらがやられちまった……!」

「信じられねぇ。村の門番風情が……!」


 傷だらけの盗賊たち。

 彼らはオルフとの戦いから逃げ延びた残党だった。

 腕や顔に包帯を巻きながら、悔しさと恐怖を隠せずにいる。


「だが……あのままじゃ引き下がれねぇ。

 俺たちに命令を下した“あの人”に、顔向けできねぇからな」


 低く言った男の声に、焚き火の影が一斉に震えた。

 それは“黒幕”の存在を示す言葉だった。


 その時、闇の奥から重い足音が響いた。

 残党たちが慌てて立ち上がる。


 姿を現したのは、漆黒の外套を羽織った長身の男だった。

 フードに隠された顔からは表情は読めない。

 だが放たれる圧だけで、盗賊たちは膝を折りそうになる。


「……門番に過ぎぬ男が、頭を倒したと聞いた」


 低い声が焚き火の周囲を震わせる。

 誰も反論できず、ただ頷くしかなかった。


「愚か者ども。お前たち程度では勝てぬのは当然だ」


 冷たい嘲笑が木々の間に響き、盗賊たちの背筋を凍らせた。


 男はゆっくりと焚き火の前に立ち、地面に剣の鞘を突き立てる。

 その刃先から漏れる気配は、ただの盗賊ではない“何か”を示していた。


「だが安心せよ。

 次は我が直々に……いや、“獣”を差し向けよう。

 あの村がいかに抗おうとも、必ず灰にしてみせる」


 闇の奥で、低い唸り声が木々を揺らした。

 焚き火の明かりに、巨大な影が一瞬だけ映る。

 人のものとは思えぬ牙、そして鋭い爪。


 盗賊たちは青ざめ、声も出せない。

 その怪物が次に村を襲う存在であることを、誰も疑えなかった。


 一方、村の門前。

 リシアは夜風に揺れる髪を抑えながら、オルフに問いかけた。


「オルフさん……本当に、これからもっと強い敵が来るんですか?」


 オルフは目を細め、森の奥を見据えた。

 老いた瞳は、何かを確信しているかのように鋭い。


「……来る。奴らはまだ終わってはいない」


 その声音は静かだが、揺るぎなかった。

 リシアはその言葉に背筋を震わせつつも、槍を握るオルフの姿に心を奮い立たせる。


「なら、私も……次は一緒に立ちます」


 決意に満ちた声。

 オルフはしばし彼女を見つめ、やがて短く頷いた。


「……立つことを覚えろ。夜明けまでな」


 月明かりの下で、二人の影が並んだ。

 その背後で、森の奥から獣の遠吠えが響き渡る。

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