第4話 初襲撃
夜は不気味なほど静かだった。
月は雲に隠れ、村の周囲は闇に沈んでいる。
家々の油灯はすでに落とされ、子どもたちの寝息すら届かない。
まるで世界全体が息を潜めているような夜だった。
門の前に立つオルフは、湿った夜気を肺に吸い込んだ。
土の匂い。草の青臭さ。そこに混じる鉄のような匂いが、胸の奥をざわつかせる。
槍を握る手が汗でじっとりと濡れ、背筋に冷たい感覚が走る。
(来る……)
その予感は、やがて確信に変わった。
ザッ……ザッ……。
草を踏みしめる音。一定の間隔で、複数。
風に揺れる木々のざわめきに紛れつつも、訓練された歩調は耳を欺けない。
森の縁に影が浮かんだ。
ひとつ、ふたつ、みっつ……五つ。
人の形をした闇が、月明かりに一瞬照らされて揺れる。
オルフは息を呑む。
喉が渇き、口の中が砂のように乾く。
心臓が胸を叩き、手の震えを必死に抑える。
恐怖。
それは確かにあった。
だが同時に、二十年門に立ち続けた習慣が、彼の思考を冷静に保たせていた。
(兵士の足取りだ。肩の揺れ……剣を振るう者の姿勢……)
影は門へ近づいてくる。
月が再び雲に隠れ、闇が濃くなる。
音だけが迫り、世界が暗闇と足音に支配された。
オルフの脳裏に、若き日の記憶がよぎった。
王都での夜警。
群衆に紛れた暗殺者を見抜けず、仲間が倒れたあの夜。
自分はただ立ち、ただ見ていただけで、救えなかった命があった。
(もし、また見逃せば……この村は焼かれる)
背筋に走った恐怖を、彼は深呼吸で押し込めた。
肺を満たす冷気が、心の炎を逆に燃え上がらせる。
「……門は、通さぬ」
低く呟いた声は、自分自身への誓いのようだった。
その瞬間。
森の闇から、五つの影が一斉に飛び出した。
剣、棍棒、刃物を手にした盗賊たち。
彼らは一直線に、村の入口を目指して突進してくる。
地面を蹴る音が轟き、草を裂く音が連なる。
敵意が波となって押し寄せ、空気が震える。
オルフは槍を構えた。
錆びて刃こぼれした穂先が、月明かりに冷たく光る。
恐怖に震える手を押さえ込み、足を大地に踏みしめる。
退役したただの門番。
だが今この瞬間、村を守る唯一の盾だった。
盗賊たちは迷いなく門へ突進してきた。
剣が月光を反射し、棍棒が空気を裂く。
息を荒げ、獣のような声をあげながら、五つの影が一斉に迫る。
オルフの眼は、その動きを細かく切り取っていた。
右の男は短剣を逆手に。刺突が早い。
左の大柄は棍棒。振りが重いが隙だらけ。
中央の二人は剣と斧。足並みが揃っている。
最後の一人は後方に控え、弓を握っている。
(正面突破……迷いがない。ならばこちらも迷う必要はない)
オルフは大地を踏みしめ、一歩前へ出た。
錆びた槍が低く構えられ、筋肉が軋む。
「通さぬ」
低い声と同時に、最初の一撃。
一歩。
土を踏みしめ、全身の力を槍へ集める。
二歩。
体を捻り、槍を一直線に突き出す。
三歩。
右の短剣の男の喉元へ――。
だが盗賊は素早く身をひねり、刃をかわした。
その瞬間、オルフは腕の筋肉を収縮させ、軌道を変える。
槍の穂先が下がり、盗賊の足首をかすめた。
「ぐっ!」と声を上げてよろけ、土に膝をつく。
次の瞬間、大柄の棍棒が横から唸りを上げた。
空気が爆ぜ、骨を砕く音が幻聴のように耳に響く。
オルフは後退せず、槍を横へ薙いだ。
鉄と木が激突し、火花が散る。
「ぬっ……!」
衝撃が腕を痺れさせ、肩に痛みが走る。
だが力を抜かず、棍棒を受け流すと同時に槍の柄で男の腹を突いた。
「ぐえっ!」と呻いて棍棒の男が後ろへ転がる。
残る二人が同時に襲いかかる。
剣が閃き、斧が唸りをあげる。
金属音が夜を裂き、火花が飛び散った。
オルフは後退しながら受け止める。
槍の穂先で剣を弾き、柄で斧を逸らす。
だが衝撃が重なり、膝が地面に沈む。
(重い……若い頃ならもっと軽く捌けたはずだ)
痛みとともに、老いの現実が突きつけられる。
だが倒れるわけにはいかない。
オルフは一瞬、剣を握る盗賊の眼を見た。
焦り。驚き。
(今だ)
槍を跳ね上げ、剣の盗賊の顔をかすめる。
驚愕の叫びが夜に響き、その隙に足払いを放つ。
盗賊が転がり、斧の男がバランスを崩した。
その時、後方に控えていた弓の盗賊が矢を放った。
風を裂く音が耳を打つ。
オルフは反射的に槍を横へ払った。
カンッ、と乾いた音を立てて矢が弾かれる。
火花が散り、矢は地に落ちた。
おっさんの反応速度とは思えぬ動きに、盗賊たちが一瞬たじろぐ。
静寂が訪れた。
土埃が舞い、血の匂いが漂う。
倒れた盗賊が呻き、立つ者たちが距離を取る。
オルフの呼吸は荒く、額から汗が流れ落ちる。
だがその眼だけは、獲物を狙う獣のように光っていた。
「……通さぬ」
その一言は、敵にとって呪いのように響いた。
地面に転がった盗賊が呻き声をあげる。
だが残りの者たちは怯まず、むしろ獰猛な光を瞳に宿してオルフを取り囲んだ。
剣、斧、棍棒、そして弓。
四方からじりじりと間合いを詰めてくる。
オルフは槍を構え直し、足を開いた。
呼吸が荒い。肺が焼けるように熱い。
おっさんの筋肉は悲鳴を上げ、肩の関節が軋む。
それでも背筋だけは真っ直ぐに伸ばした。
「退け……と言っても聞かんか」
返事はなく、盗賊たちが一斉に動いた。
右から棍棒。
左から剣。
正面から斧。
後方から弓の弦が鳴る。
オルフは瞬時に体を低くし、槍の柄で棍棒を弾く。
同時に左足を蹴り出し、剣の男を牽制。
だが正面の斧が避けきれず、肩口をかすめた。
「くっ……!」
鉄が肉を裂き、熱い痛みが走る。
血がじわりと滲み、鎧の内側を濡らす。
膝をつきかけながらも、槍を突き上げる。
斧の男の顎をかすめ、歯が飛んだ。
呻き声とともに後退させるが、すぐに剣が迫る。
金属音。火花。
槍と剣がぶつかり合い、衝撃が腕を痺れさせる。
背後で弓が放たれた。
オルフは半身をひねり、矢を肩で受けた。
浅くではあるが、鋭い痛みが背に突き刺さる。
痛み。血の匂い。息の乱れ。
老いが、容赦なく彼を襲っていた。
(若い頃なら……もっと早く動けたはずだ。
立っているだけでは、もう守れないのか……?)
胸に過去の無力感が蘇る。
だがその中で、村の人々の顔が脳裏に浮かんだ。
助けを求める母親。
笑って駆ける子どもたち。
彼らの背を守れるのは、今ここに立つ自分しかいない。
(ならば――折れるわけにはいかん!)
オルフは大地を踏みしめ、膝を伸ばした。
血に濡れた肩を無視し、槍を横に薙ぐ。
棍棒の男の脇腹を打ち、剣の男の足を払う。
「ぬあああっ!」
声を張り上げ、全身の力で敵を退けた。
だが体力は確実に削られている。
呼吸は荒く、視界が揺れる。
盗賊たちも悟った。
――おっさんは確かに強い。だが長くはもたない。
彼らの口元に、不気味な笑みが浮かんだ。
オルフの槍はまだ折れていない。
だが彼自身が、じわじわと限界へ追い詰められつつあった。
金属がぶつかり合う火花と、呻き声が夜を裂いた。
村の家々で眠っていた人々は、異様な音に目を覚ます。
「な、なんだ!?」
「門の方から音がするぞ!」
灯りを手にした村人たちが、恐る恐る外へ出た。
火のついた松明が次々に掲げられ、暗闇の中に赤い光が浮かび上がる。
そこで彼らが目にしたのは――血に塗れたオルフが、数人の盗賊を相手に槍を振るう姿だった。
「オルフが……戦ってる!?」
「嘘だろ、あの人は立ってるだけじゃ……!」
信じる派も疑う派も、誰もが息を呑んだ。
盗賊の剣が振り下ろされ、火花が散る。
オルフは肩を裂かれながらも踏みとどまり、槍を突き出す。
棍棒を握る男を腹に一撃して退け、なお立ち続ける。
血に濡れた背中。
膝は震え、息は荒い。
それでも門の前から一歩も退かない。
「おっさん……本当に村を守って……」
誰かが呟いた。
その声が、周囲の空気を変えた。
松明を掲げる手に力がこもり、村人たちの眼に光が戻る。
泣きそうな顔で母親が叫ぶ。
「お願いです、立って! あなたがいなければ、この村は……!」
その声に応えるように、オルフは吼えた。
「俺は立つ! 通さぬッ!」
震える槍先が月光を反射し、盗賊の頬を裂く。
悲鳴が響き、敵の隊列が崩れる。
その光景を目の当たりにした若者兵団の面々も駆けつけた。
だが彼らはすぐに飛び込めなかった。
目の前で戦っているのは、昼間「臆病者」と笑った男だったからだ。
「な……なんで……」
震える声をあげる若者。
彼らの胸に、嫉妬とは別の感情――尊敬と悔恨が芽生え始めていた。
村人たちは口々に叫ぶ。
「オルフを助けろ!」
「村を守るんだ!」
夜空に響く声援が、老兵の背中を押した。
混乱の中、ひときわ鋭い声が闇に響いた。
「下がれ、役立たずども!」
盗賊たちの後方から、一人の男が歩み出る。
全身に革鎧をまとい、手には大剣。
他の盗賊とは明らかに気迫が違う。
獣のような眼光でオルフを睨みつけた。
「門を一人で守っている門番がいると聞いて笑ったが……どうやら噂以上のようだな」
大剣の男は口の端を吊り上げる。
「だが、お前の槍はもう血で濡れ、腕は震えている。老いぼれ一人で何ができる?」
オルフは血のにじむ肩を押さえ、荒い息を整えた。
だが背筋は曲がらない。
「……俺の名はオルフ。門は通さぬ。それだけだ」
短い宣言に、村人たちの胸が震えた。
動作分解① ― 大剣の突進
大剣の男が吼え、地を蹴った。
重い刃が夜気を裂き、一直線に振り下ろされる。
地面に叩きつけられた瞬間、土が爆ぜ、砂煙が舞った。
オルフは半歩横へ身を翻す。
しかし衝撃の余波で身体が弾かれ、膝をつく。
「ぐっ……!」
体中に鈍痛が広がる。
追撃が迫る。
オルフは槍を突き上げ、大剣の軌道を逸らす。
火花が散り、金属音が耳を打つ。
剣と槍がぶつかり合う。
大剣の重みは圧倒的で、オルフの腕が悲鳴を上げる。
足元の土が削られ、じりじりと後退する。
(力では敵わん……だが、俺には“見る眼”がある)
大剣が振り上げられる瞬間、肩の筋肉が盛り上がる。
踏み込む足がわずかに遅れる。
オルフはその癖を見抜き、体を低く沈めた。
刃が頭上を掠め、髪が散る。
すかさず槍で男の脇腹を狙うが、革鎧に阻まれ傷は浅い。
「ちょこまかと……!」
大剣の男が吼える。
連撃。
大剣が左から右へ、上から下へ、容赦なく振り下ろされる。
オルフは必死に受け流すが、腕に痺れが走り、ついに体勢を崩した。
地面に膝をつき、肩から血が滴る。
大剣が振り下ろされようとしていた。
村人たちが悲鳴をあげる。
「オルフ!」
「やめろ!」
その声が耳に届き、オルフの瞳に光が戻った。
脳裏に蘇る過去。
王都で守れなかった人々の顔。
助けを求める母親と子どもの姿。
(もう立っているだけじゃ足りない。
だが、立ち続けてきたからこそ見えるものがある。
――ならば、この一突きで通さぬ!)
オルフは槍を地面に突き立てて身体を支え、一気に跳ね上がった。
大剣が振り下ろされる寸前、槍の穂先が逆に男の顎を貫くように突き上がる。
「がっ……!」
男の動きが一瞬止まる。
オルフは全身の力を槍に込めた。
一歩。大地を踏みしめる。
二歩。肺を焼くような息を吐き出す。
三歩。腕の筋肉が悲鳴を上げる。
四歩目で、穂先が男の胸を強かに突いた。
革鎧が裂け、血が飛び散る。
大剣の男が呻き声を上げ、よろめいた。
「……馬鹿な、おっさんに……!」
大剣が手から滑り落ち、地面に突き立った。
村人たちは息を呑み、沈黙した。
荒い息を吐きながら立つオルフの姿が、夜の闇の中で大きく見えた。
血を吐きながらも、大剣の男はまだ立っていた。
胸を押さえ、荒い息を吐きながら、憎悪に染まった瞳でオルフを睨みつける。
「……この俺が……村の門番風情に……!」
その声には怒りよりも、屈辱が滲んでいた。
大剣を拾い上げ、再び構える。
傷口から血が滴り、地面を赤く染めても、なお立ち向かおうとする執念。
オルフは槍を握り直した。
全身が痛み、肩から血が流れ続けている。
視界は揺れ、耳鳴りが響く。
(ここで倒れれば……村は焼かれる。
ならば、この一突きにすべてを懸けるしかない)
大剣の男が吼え、突進してきた。
地面を蹴る音が雷鳴のように響く。
巨大な刃が振り下ろされる瞬間、オルフは呼吸を整えた。
肺が焼け、心臓が破裂しそうだった。
それでも一歩前へ。
村人たちの声が背中を押す。
「負けるな、オルフ!」
「おっさん、頼む!」
一歩。大地を踏みしめ、槍を突き出す準備。
二歩。大剣の軌道を読み、体をわずかに右へ。
三歩。敵の呼吸が一瞬乱れたのを逃さず――。
「うおおおおッ!」
咆哮とともに、オルフは槍を突き出した。
全身の力、二十年の経験、村を守りたいという意志。
すべてを穂先に込めて。
刃と刃が交錯する一瞬――。
大剣が槍を押し潰そうとしたが、オルフの眼はそれを見切っていた。
「門は……通さぬッ!」
槍が鋭く突き上がり、大剣の男の胸を貫いた。
大剣が空を切り、地面に落ちる。
男の瞳が見開かれ、呻き声が夜に響く。
「……おっさん、の……くせに……!」
その言葉を最後に、盗賊の頭目は膝を折り、地に崩れ落ちた。
静寂。
闇の中に、血の匂いと重い呼吸だけが残る。
周囲で見ていた盗賊たちは一瞬硬直した。
やがて誰かが叫ぶ。
「に、逃げろ! 頭がやられた!」
影たちは蜘蛛の子を散らすように森へ駆け戻っていった。
オルフは膝をつき、槍を支えにして必死に立っていた。
視界は赤く滲み、耳鳴りが続く。
それでも門の前から一歩も退かなかった。
(……通さなかった。村は……守れた)
その胸中に、小さな安堵と誇りが灯った。
森に逃げ帰る盗賊たちの背中を見送りながら、オルフはようやく大きく息を吐いた。
槍を支えにしていなければ、その場に崩れ落ちていたに違いない。
肩から血が流れ、背に受けた矢傷がずきずきと疼く。
息は荒く、胸は火のように熱い。
(だが……通さなかった。村を……守った)
門の前に立ち続け、影を退けたという事実が、全身の痛みを和らげるようだった。
その時、背後からどっと人の声が押し寄せた。
「やったぞ! 盗賊が退いた!」
「オルフが、村を守ったんだ!」
松明を掲げて駆け寄る村人たち。
誰もが目を見開き、血に塗れたオルフの姿を見上げていた。
「おっさん……いや、オルフ! 本当に一人で……」
「俺たちの村を……」
言葉を失った声があちこちで漏れる。
泣きながら子を抱いた母親が駆け寄り、オルフに深く頭を下げた。
「また守ってくれた……! 本当にありがとう……!」
オルフは首を横に振った。
「俺は……立っていただけだ」
その一言に、村人たちの胸が震えた。
信じる派も疑う派も、この瞬間ばかりは誰一人として彼を笑わなかった。
若者兵団の面々も駆けつけていた。
昼間は「臆病者」と嘲笑った彼らが、今は何も言えずに拳を握りしめていた。
その眼には悔しさと、同時に尊敬が入り混じっていた。
「……すげぇよ、オルフのおっさん」
小さく誰かが呟き、仲間たちはうつむいた。
最後に、村長が杖をつきながら前に出た。
険しい顔でオルフを見つめ、しばらく沈黙していたが、やがて深く息を吐いた。
「……どうやら、わしが間違っていたようじゃな。
お前の眼と、その槍が、この村を救った」
言葉は短かったが、その声には確かな敬意があった。
オルフは答えなかった。
ただ槍を立て直し、門の前に立ち続ける。
やがて夜が明け、東の空が白み始めた。
村人たちは疲れた顔をしながらも、少し誇らしげに門を振り返る。
そこには血まみれのまま立つ一人の男の姿があった。
(これで終わりではない……)
オルフは瞳を細め、森の奥を見据えた。
撤退した盗賊の背後には、もっと大きな影が潜んでいる――その確信が胸にあった。
「通さぬ……」
掠れた声が朝の風に消えていく。
こうして、退役した門番は村の守り手として初めての戦いを勝ち抜いた。
だが、これからが本当の戦いの始まりだった。