第3話 門の外の気配
夜の村は静まり返っていた。
昼間あれほど響いていた子どもたちの笑い声もなく、畑仕事を終えた農夫の足音も消え、ただ虫の声だけが闇に漂っている。
月は半分ほど欠け、銀色の光を地面に投げていた。木の門と、その前に立つ男の影を長く伸ばしている。
オルフ・バルナーはいつものように立っていた。
錆びた槍を握り、背筋を真っ直ぐに。
その姿は村人から見ればただの頑固なおっさんにしか見えないだろう。
だが彼の眼は、暗闇に潜むわずかな動きを見逃さぬ鋭さを帯びていた。
夜風が止み、空気が生ぬるく淀む。
虫の鳴き声がふっと途絶えた。
その瞬間、オルフの首筋に冷たい汗が流れる。
(……来るか)
門の外、森の縁に影が揺れた。
風で木が動いたのではない。確かに“誰か”が動いた。
月明かりに一瞬照らされ、草を踏みしめるような影の流れ。
耳を澄ます。
ザッ、ザッ……。
一定の間隔。規則正しい。
獣の四足歩行なら、もっと速く、不規則な音を立てる。
(獣じゃない。人間の歩き方だ)
さらに目を凝らす。
肩の揺れ、足の上げ下げ。
それは農夫の疲れた歩きでも、子どもの駆け足でもない。
兵士、あるいは狩人のそれに近い、訓練された足取り。
恐怖が胸をよぎる。
背筋が冷え、手のひらにじっとりと汗が滲む。
呼吸が浅くなるのを感じ、彼は意識して深く息を吸った。
夜風の匂いが肺を満たす。
湿った土の匂い、草の青臭さ――そこに混じる、かすかな鉄の匂い。
血か、武器か。
かつての記憶が脳裏をよぎった。
王都の城門で立っていた頃。群衆の中に紛れた暗殺者を見抜けず、仲間が深手を負った夜。
あのときもっと目を凝らしていれば、命を救えたかもしれなかった。
(同じ過ちは繰り返さない。俺は門番だ。門の外から来るものを必ず見抜く)
影は森の奥へと消えていく。
その動きを眼で追いながら、オルフは心の中で数を数えた。
一……二……三……。
三つの影。少なくとも三人はいる。
槍を握る手に力を込め、オルフは深く息を吐いた。
戦うことはできないかもしれない。
だが“見る”ことなら、誰よりもできる。
やがて影は完全に闇に紛れ、音も気配も消えた。
門前は再び静寂に包まれる。
オルフは姿勢を崩さず、夜明けまで立ち続けた。
その胸中に刻まれた言葉はただ一つ――
(次は必ず来る)
夜明けの村は、鳥のさえずりと牛の鳴き声で目を覚ました。
だがその朝は、どこか空気が重かった。
羊飼いの老人が、顔を青ざめさせて広場に駆け込んできた。
「羊が……一匹、消えたんだ!」
村人たちがざわめく。
「柵は壊れていなかったのか?」
「いや、ちゃんと閉めておいたさ! なのに影も形もなくなっちまった」
さらに別の農夫が声を上げた。
「うちの畑にも妙な足跡があった! 獣のものじゃねぇ、人間の靴跡だ!」
漁師の妻も続ける。
「川辺に干しておいた魚が半分なくなってたのよ! 犬やカラスの仕業なら跡が残るはず。でも、きれいに持っていかれてたの」
村人たちは口々に不安を訴え、広場は一気に騒がしくなる。
そこに村長が杖を突きながら現れた。
「落ち着け、落ち着け! 狼か野犬じゃろう。冬を越せず、餌を求めて山を下りてきたのじゃ」
その言葉に何人かはうなずいたが、納得できない者も多かった。
「だが足跡は靴の形だったぞ」
「柵を器用に外す獣なんて聞いたことがない!」
ざわめきが大きくなる中、オルフが一歩前に出た。
昨日と同じように槍を握り、背筋を伸ばして。
「……獣じゃない。人間だ」
低い声が広場に響き渡り、人々が一斉に彼を見る。
オルフは言葉を区切りながら告げた。
「昨夜、森の縁に影を見た。三人以上……。足の運びは獣ではない、人のものだった」
その断言に、村人たちは息を呑む。
「三人……盗賊の仲間か?」
「また狙われているのか……?」
不安が広がる一方で、疑いの声も飛ぶ。
「証拠はあるのか? 影を見たくらいで大げさに騒ぐな!」
「門に立ち続けてると、幻でも見えるんだろ!」
村長も厳しい目を向けた。
「妄想に惑わされるでない。村を混乱させるだけじゃ」
しかし――一人の女が前に出た。
かつて盗賊から助けられた子どもの母親だ。
彼女は涙を浮かべて声を上げる。
「私は信じます! あの時、子を救ってくれたのはオルフさんです!
あの眼がなければ、うちの子は……!」
その言葉に、数人の村人が頷いた。
「確かに……盗賊も、スリも見抜いたのは偶然じゃなかった」
「やっぱり、この人には“見える”んだ」
広場の空気が二つに割れる。
信じる者と、疑う者。
希望と不安が入り混じった視線が、門の前の男へと注がれる。
オルフは余計な言葉を吐かず、ただ村人たちを見渡した。
その眼は静かで、しかし強く光っていた。
昼になっても、村人たちのざわめきは収まらなかった。
畑へ向かう者も、森へ薬草を取りに行く者も、どこか落ち着きなく振り返る。
羊飼いは何度も空を見上げ、子どもたちを叱りながら群れをまとめていた。
そんな不安の中でも、門の前にはいつもの男が立っていた。
オルフ・バルナー。
昨日と同じ姿勢で、錆びた槍を片手に構え、往来する人々を見送っている。
だが彼の眼は、ただぼんやりと見ているのではない。
一人一人の仕草、肩の傾き、歩幅、呼吸の深さまで観察していた。
荷車を押す商人――。
樽を三つ積んでいるが、背中の沈み具合が軽すぎる。
(中身は空だ。だが樽の底板に何かを仕込んでいる……武器か?)
背に薪を負った子ども――。
小枝の束に混じって、乾ききった毒草が一本差し込まれている。
(偶然ではない。森で誰かに渡されたのか……?)
羊飼いの群れ――。
一頭だけが落ち着かず、鼻をひくつかせている。
(獣の匂いではない。鉄、いや……血の匂いを感じているのか)
オルフは槍を握る手に力を込めた。
異変は小さなところに現れる。それを見逃さないのが彼の仕事だった。
その時、一台の馬車が村に近づいた。
馴染みのない行商人が手綱を握り、笑顔で村人に声をかけている。
「安いよ安いよ! 王都仕立ての葡萄酒だ!」
馬車の荷台には木樽が並んでいた。
だが、オルフの眼はすぐに違和感を捉える。
馬の呼吸が荒い。
肩で息をし、汗が異常に滲んでいる。
それなのに、商人の背はほとんど沈んでいなかった。
(荷の重さと体の沈みが合っていない……中身は酒じゃない。もっと重いものだ)
オルフは門の前に立ちふさがった。
「……樽の中身を見せろ」
商人が笑顔を凍らせた。
「な、何を言うんですか。これはただの葡萄酒で――」
「葡萄酒なら、もっと甘い匂いがするはずだ」
オルフは鼻をひくつかせる。
「だがそこから漂うのは鉄の匂い……刃物の匂いだ」
周囲の村人たちが息を呑んだ。
ざわつきの中、商人の額に汗が浮かぶ。
やがて観念したように、荷台の樽の一つを開けた。
中から現れたのは、ぎっしりと詰め込まれた剣や槍の刃だった。
武器の密輸――。
村人たちの間に怒号が走る。
「やっぱり! 村を狙ってたんだ!」
「この野郎、盗賊と通じてたな!」
商人は捕らえられ、樽は押収された。
村人たちの視線が一斉にオルフへ向かう。
彼らの目には、もはや疑いだけではなく、明らかな畏怖と尊敬が混じっていた。
「……本当に見えてるんだな」
「偶然じゃなかった……」
オルフはただ静かに頷き、再び門の前へ立ち戻った。
人々の視線を背中に受けながら、彼の心は変わらない。
(俺は立つ。立って、見る。それだけだ)
武器を隠した商人が捕らえられた一件は、村中を震撼させた。
「やっぱり盗賊は狙っていたんだ」「オルフの眼は本物だ」――そんな声が日に日に増えていった。
だが全員が素直に受け入れたわけではない。
夕暮れ、畑仕事を終えた若者たちが酒場の前に集まっていた。
彼らは皆、体格もよく、村の将来を担うと期待されている青年兵団の面々だった。
だがその目には嫉妬の色が濃く宿っていた。
「ちっ、またあのおっさんが村の英雄気取りだ」
「剣もろくに振れねぇくせに、立ってるだけで褒められるなんてな」
「俺たちがいくら稽古しても、誰も見ちゃくれねぇのに……」
酒の入った木のジョッキを打ち鳴らしながら、彼らは憤懣を吐き出した。
その視線の先、門の前にはいつも通りの姿勢で立つオルフがいる。
「なあ、確かめてみようぜ。あのおっさん、本当に強いのかどうか」
「いいな、どうせ逃げやしねぇ。門から離れられねぇ臆病者だ」
若者たちは笑い合いながら立ち上がり、オルフのもとへ向かった。
夕焼けに染まる村道で、彼らはオルフの前に立ちふさがった。
木剣を肩に担ぎ、挑発するように口角を上げる。
「よぉ、門番のおっさん。今日も立ってるだけか?」
「盗賊もスリも、全部たまたまだろ? 本当に戦えるなら、この場で証明してみせろよ」
村人たちが足を止め、遠巻きに様子を見守る。
信じる派と疑う派、その両方が固唾を呑んでいた。
オルフは木剣を突きつけられても、眉ひとつ動かさなかった。
静かに彼らを観察する。
指先のわずかな震え。額ににじむ汗。言葉の裏に潜む焦り。
(……こいつら、自分を信じられなくなっている。だから俺を笑うしかない)
オルフは槍を構えず、ただ低く告げた。
「……来るぞ」
若者たちが一瞬きょとんとし、次の瞬間大笑いした。
「ははっ、またか! おっさんの口癖だな」
「影を見ただの気配を感じただの、臆病風が吹いてるだけだろ!」
「どうせ何も起きやしねぇよ!」
嘲笑の渦。
だがその中で、オルフの眼は真剣さを失わなかった。
夕日が沈み、夜の帳が迫っている。
彼の耳には、もう遠くの森から聞こえる微かな足音が届いていた。
武器を隠した商人が捕らえられた事件は、村中の話題となった。
「やっぱり盗賊は近くに潜んでいたんだ」「オルフの眼は本物だ」――そう囁く者もいれば、「あれだって偶然だったんじゃないか」と疑う者もいた。
だが確実に、村人の眼差しは少しずつ変わってきていた。
そんな空気を気に入らない者たちがいた。
畑仕事を終えた若者たち、村の青年兵団の面々だ。
彼らは体格もよく、普段から木剣を振って鍛錬を欠かさない。
将来は村を守る戦士として期待されている……はずだった。
しかし今、英雄と呼ばれつつあるのは、自分たちではなく「退役した門番」だった。
「ちっ、調子に乗りやがって」
「立ってただけのおっさんが、急に英雄扱いだぜ」
「俺たちがどれだけ剣を振っても誰も見ちゃいないのに、あいつは立ってるだけで褒められる……」
酒場の裏手。木のジョッキを叩きながら、彼らは憤懣をぶちまけていた。
嫉妬、苛立ち、そして不安。
村の評判を老兵に奪われることへの焦りが、彼らの胸を灼いていた。
「なあ、確かめてみようぜ」
一人が口にした。
「本当に強いのかどうか。剣もろくに振れねぇはずだ。みんなの前で証明させりゃいい」
「いいな。あのおっさん、門から離れられねぇ臆病者だ。少し脅せばビビるだろう」
「ははっ、面白え。英雄様の化けの皮を剥いでやろうじゃねぇか」
笑い声が響き、数人が立ち上がる。
夕焼けに染まる村道を歩き、彼らは門の前へ向かった。
そこには、いつもと変わらぬ姿のオルフが立っていた。
錆びた槍を片手に、背筋を伸ばし、沈黙のまま村の外を見ている。
「よぉ、門番のおっさん」
若者たちはわざと大声をかけ、周囲の村人たちの注意を引いた。
人々が足を止め、遠巻きに様子を伺う。
「今日も立ってるだけか? 楽な仕事だな」
「盗賊だのスリだの、あれも全部まぐれだろ。そうじゃなきゃ説明がつかねぇ」
木剣を肩に担ぎ、挑発するようにオルフの前に立つ。
「ほら、槍を構えてみろよ。俺たちと手合わせしてみろ。戦えるもんならな」
広場の空気が張り詰める。
信じる者は不安げに見守り、疑う者は冷笑を浮かべる。
オルフは木剣を突きつけられても、一切動じなかった。
ただ、ゆっくりと若者たちを観察する。
額に滲む汗。握った拳の震え。大声の裏に潜む焦り。
彼らが恐れているのは、おっさんではなく、自分たちが「無力だ」と知られることだった。
オルフは静かに口を開いた。
「……来るぞ」
若者たちは一瞬きょとんとし、それから爆笑した。
「ははっ! またか! 影を見ただの気配を感じただの、いつもの口癖じゃねぇか」
「臆病だから門から離れられねぇんだろ。脅かしてるだけさ」
嘲笑が広がり、場を包む。
だがその中で、オルフの眼だけは真剣だった。
夕日が沈み、夜の帳が迫る。
遠い森の方から、確かに小さな足音が響いていた。
(……笑っていればいい。だが本当に“来る”のは、そう遠くない)
翌朝、村の広場に人々が集められた。
村長が杖を突きながら中央に立ち、厳しい声を張り上げる。
「皆の者、昨夜もまた怪しい気配があったと、この男が言っておる」
村人たちの視線が一斉にオルフに集まった。
門の前でいつもと変わらぬ姿勢のまま立っていた彼は、村長に促されて前へ出る。
「森の奥に、三人以上の影を見た。歩幅も呼吸も、人間のものだった」
短い言葉に広場がざわついた。
「やっぱり盗賊か!」
「いやいや、影を見ただけだろ!」
「靴跡や家畜の失踪もあるじゃないか!」
「全部偶然かもしれん!」
村人たちの声は割れた。
信じる者、疑う者、恐れる者。
村長が杖で地面を叩く。
「静まれ! 証拠はあるのか、オルフ。影を見たというだけで村を混乱させるな」
オルフは黙って村長を見返した。
しばし沈黙した後、静かに口を開く。
「証拠はない。だが二十年、人の動きを見続けてきた俺の眼がそう告げている」
その言葉に、再びざわめき。
「門番の眼が本当にそんなに当てになるのか?」
「でも盗賊もスリも、あの人が見抜いたんだ!」
「偶然が三度も続くか?」
助けられた母親が涙ながらに叫んだ。
「私は信じます! この人の言葉がなければ、うちの子は死んでいた!」
彼女の声に数人が頷いた。
「そうだ、俺もあの場にいた。槍を突きつけた瞬間を忘れない」
「なら信じるしかないじゃないか!」
だが、別の声も飛ぶ。
「影を見た程度で怯えて村全体が混乱してどうする!」
「もし何も起きなかったら、誰が責任を取るんだ!」
広場は信じる派と疑う派に分かれ、罵声が飛び交った。
村長は苦々しい顔でオルフに言い放つ。
「お前の言葉で村が割れておる。この責任、どう取るつもりだ」
オルフは一歩前に出て、静かに槍を地面に突き立てた。
「……俺は立ち続ける。それだけだ。
信じる者がいようと、疑う者がいようと、俺のすることは変わらん」
その言葉に、広場は再び静まり返った。
村長はしばらく睨みつけていたが、やがて舌打ちし、背を向けた。
「勝手にせい。ただし村を混乱させた責任は忘れるな」
人々は重い空気を残したまま解散していった。
信じる者はオルフに頭を下げ、疑う者は冷たい視線を投げつけながら。
オルフは何も言わず、再び門の前へ戻った。
背中にさまざまな視線を受けながらも、その姿勢は揺らがない。
(俺は立つ。ただそれだけだ。だが――次は必ず来る)
夜。
村は油灯の明かりを落とし、深い闇に沈んでいた。
子どもたちの寝息が家々から漏れ、犬さえも吠えない。
まるで何かに怯えて声を潜めているかのように、静寂が村を覆っていた。
門の前に立つオルフは、昼間の会議を思い返していた。
信じる者と疑う者が対立し、村の空気は重苦しくなった。
だが自分のすべきことはひとつしかない。
(立つ。見る。それだけだ)
槍を握り直す。
夜露で湿った柄が冷たく、掌にしっとりと吸いつく。
耳を澄ますと、風の音が木々を揺らし、虫の声が闇に溶けている。
――その中に、不自然な音が混じった。
ザッ……ザッ……。
一定の間隔で草を踏みしめる音。
ひとつではない。二つ、三つ、四つ……。
複数の足音が、森の奥から近づいてくる。
オルフは目を細めた。
歩幅のリズムは人間のもの。獣の無作為な足取りとは違う。
しかも足並みが揃っている。
訓練を受けた者たちの歩き方。
背筋に冷たいものが走った。
だが恐怖に飲まれることはない。
二十年立ち続けた経験が、彼の呼吸を整えていた。
(……来たな)
夜風が吹き、門扉が軋む。
月が雲に隠れ、闇が濃くなる。
その闇の向こうから、確かな敵意が迫ってきていた。
オルフは深く息を吐き、槍を構えた。
村を包む静寂が、嵐の前の予兆のように張りつめていく。
やがて、低い囁き声が風に乗って聞こえた。
「……あそこだ、門だ」
影が動く。
複数の気配が森の縁に現れ、じわじわと村へ近づいてくる。
オルフは槍の穂先をわずかに下げ、呼吸を整えた。
声を荒げて叫ぶこともなく、ただ低く呟く。
「俺の眼は見ているぞ……通すか、通さぬかは、この槍が決める」
門の前に立つ退役兵士の眼が、闇を切り裂くように光った。
次の瞬間、草をかき分ける音が一斉に迫る――。
村を震撼させる初めての襲撃が、いよいよ始まろうとしていた。