第19話 若き騎士との衝突
謁見の間を後にし、王城の長い廊下を歩いていた。
白い石の壁には豪奢なタペストリーが掛けられ、窓から差し込む光が床に反射してきらめいている。
けれどリシアの胸はまだ高鳴ったままだった。
「オルフさん……さっきの、王様のお言葉……!」
声を潜めながらも興奮が隠せない。
「“その眼は必要になるかもしれぬ”って……! きっと認めてもらえたんですよ!」
隣を歩くオルフは、相変わらず無口なまま槍を肩に担いでいた。
だが、わずかに口元が緩んでいるようにも見えた。
そのとき、廊下の先に数人の騎士たちが立ちふさがった。
皆、若く鋭い目をしている。
その中心にいる一人の騎士が、オルフをじろりと見下ろした。
「……お前が“通さぬ門番”か」
低い声には、あからさまな嘲りが混じっていた。
リシアの胸がぎゅっと縮まる。
「オルフさんを、そんな風に……!」
若い騎士はまだ二十代前半に見える。
金の装飾をあしらった鎧を身に着け、腰の剣には使い込まれた跡があった。
彼は鼻で笑いながら続けた。
「王城で噂になっていたぞ。獣を声で追い払った老兵がいるとな。……くだらん」
「ただ立っていただけの門番が、英雄を気取るとはな」
背後にいた騎士たちも失笑する。
その冷たい視線は、オルフだけでなくリシアにも向けられていた。
リシアは思わず前に出て叫んだ。
「英雄を気取ってなんかいません! オルフさんは本当に村を守ったんです!」
声が廊下に響く。
けれど騎士たちは鼻で笑った。
「弟子に庇わせるとは情けない」
「なるほど、信者の娘を連れて英雄を気取るわけだ」
その言葉にリシアの拳が震える。
(違う……この人は、私の知っているオルフさんは……!)
オルフは何も言わなかった。
ただ静かに若き騎士を見返す。
その眼差しは怒りでも憎しみでもない。
ただ静かに、相手の奥底を見透かすような眼だった。
廊下の真ん中に立つ若き騎士は、周囲の光を背に受けて不敵な笑みを浮かべていた。
彼の名はまだ名乗られていないが、その態度はすでに「自分こそが正義」と言わんばかりだった。
「門番オルフ。お前が村で獣を退けたという話は聞いた」
騎士はゆっくりと歩み寄り、つま先で石床を鳴らした。
「だが、王城は戦場ではない。ここに立つのは選ばれた騎士だけだ。……村の柵を守っていた程度で英雄ぶられては困る」
背後で控える仲間の騎士たちがくすくすと笑う。
「獣に“通さぬ”と叫んだだけだとよ」
「滑稽だな。次は歌って踊って追い払うつもりか?」
リシアの頬がかっと赤く染まった。
「バカにしないでください! オルフさんがいなかったら、私たちは全員……!」
けれど騎士は彼女の言葉を遮るように、冷たく切り捨てた。
「女の泣き言など聞いていない。……俺が問うているのは門番だ」
その視線が、真正面からオルフに突き刺さる。
しかし、オルフは動じなかった。
ただ無言で槍を支え、じっと若き騎士を見ている。
その沈黙が逆に挑発に乗らぬ強さを示していた。
騎士は苛立ちを隠せず、声を荒げた。
「黙りか? それとも返す言葉もないか?」
周囲の騎士たちは肩を揺らして笑った。
「さすがは門番殿。立っていることしかできん」
「老いぼれが王城で槍を構えるなど、冗談も大概にしろ」
リシアは今にも飛び出しそうになったが、必死に自分を押さえた。
(言い返したって無駄……! でも、でも……!)
その時、若き騎士がさらに一歩詰め寄った。
「どうだ門番。王城でお前を英雄と呼ぶ者はいない。……いや、呼ばせはしない」
鋭い眼差しとともに吐き捨てる。
リシアの胸が締め付けられる。
(悔しい……! なんで誰も、オルフさんを見ようとしないの……!)
だが次の瞬間、空気が変わった。
オルフが、ほんのわずかに眼を細めたのだ。
その視線は静かで、何の言葉も伴わない。
けれど若き騎士の足が、一瞬止まった。
まるで心の奥底を覗かれたかのように。
「……っ」
彼は歯を食いしばり、すぐに表情を怒りに塗り替えた。
「いいだろう。ならば力で証明してもらおうか。俺と手合わせしろ、門番」
その挑発は廊下中に響き、見守る兵や従者たちまで息を呑んだ。
若き騎士の挑発は、廊下の空気をぴんと張り詰めさせた。
石床に響く足音すら止まり、従者たちまでが息を潜めている。
「手合わせしろだと……? 相手は退役した門番だぞ」
「老人を痛めつけて何になる」
見守っていた兵士の一人が小声で呟く。だが若き騎士は鼻で笑い、聞き流した。
リシアの胸は怒りでいっぱいだった。
「やめてください!」
声が廊下に響く。
彼女は一歩前に出て、若き騎士と正面から向き合った。
「オルフさんを笑うなんて、間違ってます! 村の人はみんな知ってます、あの夜オルフさんがどんなふうに立ち続けたか!」
声は震えていたが、その瞳は真っ直ぐだった。
しかし、若き騎士は嘲りを隠そうともしなかった。
「英雄気取りの門番を庇うとは、よほど洗脳されているらしいな」
「……弟子か? 信者か? 老いぼれを持ち上げて夢を見るとは哀れなものだ」
その言葉に、リシアの頬が赤く染まる。
拳を握り、唇を強く噛んだ。
(違う……! 私は騙されてなんかいない。私は見たんだ……!)
思わず一歩踏み出し、声を張り上げる。
「私はオルフさんに守られたんです! 血を流しながらも“通さぬ”って言って、みんなの前に立ってくれた!
その背中があったから、私も槍を握って戦えたんです!」
廊下にその声が響き、従者や兵士たちがざわめいた。
「女の子がそんなことを……?」
「本当に戦ったのか?」
「ただの門番じゃないのか……?」
若き騎士の顔に一瞬の揺らぎが走った。
だがすぐに表情を固め、冷たい声を返す。
「……情熱的な証言だな。だが感情で事実は覆せぬ。証明するのは力だ」
背後の騎士たちが再び笑い声を上げる。
「やはり言葉だけか」
「英雄ならば、剣で語るがいい」
リシアの目に悔し涙がにじむ。
「どうして……どうして分からないんですか! オルフさんは、ただ立っていただけじゃない……村を守った英雄なんです!」
彼女の叫びは必死で、誰の耳にも真実味を帯びて響いた。
だが若き騎士は譲らなかった。
その時、沈黙を守っていたオルフが、わずかに歩を進めた。
廊下の空気が一変した。
オルフが、ゆっくりと前に出たのだ。
足音は重く静かで、まるで石床そのものが響きを拒むかのように低く響いた。
リシアは思わず「オルフさん……」と声を漏らした。
若き騎士は顎を上げ、挑発的な笑みを浮かべる。
「ようやく口を開くか? それとも、黙って立つだけか?」
だがオルフは何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと眼を細め、目の前の騎士を見据えた。
その眼差しは、言葉以上の重みを持っていた。
長年、門に立ち、無数の夜を越えてきた眼。
獣の気配を感じ、盗賊の影を読み、ただ立つことで村を守ってきた眼だった。
若き騎士は笑みを保とうとした。
だが、ほんの一瞬、その視線に心臓を掴まれたように動きが止まった。
「……っ」
呼吸が乱れ、胸の奥がざわつく。
(な、なんだ……この眼は……! ただの老兵のはずなのに……!)
彼は剣に手をかけることで、自分の動揺を隠そうとした。
しかし、その仕草すらもオルフの眼に見抜かれている気がした。
周囲の騎士たちも囁き始める。
「……今、あの若造が怯んだか?」
「目を合わせただけだぞ」
「門番の眼……侮れん」
彼らの声が広がり、廊下に微妙なざわめきを生んだ。
リシアはその横顔を見つめ、胸が熱くなる。
(これが……オルフさんの強さ……! 剣も槍もなくても、この眼だけで相手を揺さぶれるんだ……!)
彼女の瞳には、尊敬と誇りの光が宿っていた。
だが若き騎士は、すぐに顔を怒りに染めて叫んだ。
「黙って立つだけで俺を見透かしたつもりか! 老いぼれが……!」
その声は震えていた。
だが誰もが、それが怒りではなく「恐怖を振り払うため」の叫びだと感じ取った。
オルフは静かに槍を握り直した。
その仕草は挑発に応じるためではなく、ただ――いつものように門の前に立つための動きだった。
「……立つ。それだけだ」
低く呟かれた声に、廊下の空気が凍りついた。
若き騎士は、オルフの眼に射抜かれたかのように一瞬ひるんだ。
だがすぐに、その動揺を打ち消すかのように剣を鳴らし、声を張り上げた。
「……いいだろう! ならば力で証明してもらおうか! 俺と手合わせしろ、門番!」
その言葉が廊下に響き渡り、周囲の兵士や従者たちが一斉に息を呑んだ。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
リシアが慌てて前に出た。
「オルフさんはそんな無駄な戦いをする必要なんてありません! 村を守っただけで十分証明してます!」
彼女の声は必死だった。
だが若き騎士は冷笑を浮かべて首を振る。
「村を守った? そんなものは辺境の遊戯にすぎん。王城に立つ者は常に力で語る。……剣も槍も交えずに英雄を名乗ることなど、許されん」
リシアは拳を震わせる。
「オルフさんは英雄なんか名乗ってません! ただ……」
その言葉が続く前に、オルフが静かに口を開いた。
「……いいだろう」
低く落ち着いた声が廊下を貫いた。
リシアは目を見開き、慌てて振り返る。
「オルフさん!? 本気ですか!?」
オルフは彼女を見ず、まっすぐに若き騎士を見据えていた。
「俺は立ってきただけだ。……だが、立ち続けた意味を示すのならば、槍を構えるくらいはしよう」
その言葉に、リシアの胸が締め付けられる。
「でも……でも!」
彼女の必死の声を背に、オルフはただ静かに歩みを進めた。
若き騎士の口元がつり上がる。
「よし。訓練場で決着をつけよう。ここでは狭すぎる」
彼の声は自信に満ちていた。
背後の仲間たちが「見ものだな」「老兵がどこまで持つか」と囁き合う。
リシアは胸の奥が熱くなり、声を張り上げた。
「オルフさんは……私たちの村を守った人なんです! ただの模擬戦で侮辱しないでください!」
だが誰も聞く耳を持たなかった。
若き騎士の視線も、周囲の騎士たちの笑いも、すべてはオルフへと注がれていた。
オルフは槍を握り直し、短く呟いた。
「……立つ。あとはそれだけだ」
その言葉は、リシアの不安を押し返すように、廊下の空気を重く震わせた。
王城の中庭に設けられた訓練場は、朝の光を浴びて白い砂がきらめいていた。
そこにはすでに数人の騎士団員が集まり、手合わせの始まりを待ち構えている。
廊下での騒ぎはすぐに広まり、「通さぬ門番と若き騎士が戦う」という噂が人を呼んでいた。
リシアは胸を締め付けられる思いでオルフさんの横に立つ。
「オルフさん、本当にやるんですか……? 無理する必要なんて……」
おっさんはただ槍を肩に担ぎ、静かに答えた。
「立つことは無理ではない。……ただ立つ。それだけだ」
その言葉に、リシアは唇を噛んだ。
(そう……この人は立ち続ける人。だからこそ、みんな守れたんだ)
対する若き騎士は、陽光を浴びて輝く剣を構えた。
その動きには迷いがなく、全身から「勝利は当然」という自信があふれていた。
「始めろ!」
号令とともに、砂を蹴る音が響く。
若き騎士が一気に距離を詰めた。
剣が閃き、まるで風そのものを切り裂くかのような速さ。
観衆から驚きの声が漏れる。
オルフは半歩だけ横にずれ、槍の柄で軌道を逸らした。
砂が散り、剣先は空を切る。
騎士は間髪入れず二撃目、三撃目を振り下ろす。
鋭さと速さは若さゆえのもの。
砂煙が舞い、金属が打ち合う甲高い音が訓練場に響いた。
しかしオルフは動かない。
足を大地に固定し、最小限の動きで受け流していく。
(速い……だが、肩の動きが読める)
剣を振るう直前、若き騎士の肩がわずかに沈む。
次の一撃の方向が、その癖で分かる。
オルフは槍を斜めに構え、衝撃を流した。
「な……!」
騎士の体勢が崩れる。
観衆がざわめき始める。
槍の穂先が一瞬だけ騎士の喉元を狙う。
だがオルフは止めた。
刃を紙一重で逸らし、砂の上をかすめさせる。
若き騎士の目に、一瞬の恐怖が宿った。
「……っ!」
怒りを燃やした騎士が大きく剣を振る。
火花が散り、砂が舞い上がる。
オルフは槍を横に払い、衝撃を殺す。
その姿は決して華麗ではない。
ただ――動じず、立ち続ける門番の戦いだった。
観衆の騎士団員たちが小声で囁き合う。
「老兵が押されていない……」
「むしろ若造の方が焦っているぞ」
「これが……“通さぬ門番”か」
リシアは胸を張り、声を抑えて呟いた。
「……そうです、オルフさんは強いんです」
砂煙の中で、剣と槍が再びぶつかり合う。
若き騎士の額に汗が滲み、呼吸が乱れ始めていた。
一方、オルフの表情は変わらない。
「……立つ。それだけだ」
静かな声が、剣戟の音を超えて訓練場に響いた。
剣と槍が最後にぶつかり合った瞬間、訓練場に甲高い音が響き渡った。
若き騎士は全力で剣を振り下ろしたが、オルフはわずかに槍の柄をずらし、その勢いを受け流した。
剣先は砂を切り裂き、勢い余った騎士の膝が地面につく。
「……っ!」
砂埃の中で、若き騎士が歯を食いしばる。
観衆から驚きの声が上がった。
オルフは槍を振り下ろさなかった。
穂先は相手の肩口に届く位置で止まっている。
その沈黙の圧力が、敗北を何よりも鮮明に伝えていた。
「これ以上は無用だ」
短い声が静かに響いた。
若き騎士は悔しさに顔を歪め、拳を砂に叩きつける。
「……老いぼれに……負けた……だと……!」
リシアは思わず両手を胸の前で組み、声を上げそうになるのを必死に抑えた。
(やっぱり……やっぱりオルフさんは強い! 誰がなんと言っても!)
頬が熱くなり、目が潤む。
胸の奥にこみ上げてくる誇らしさを隠しきれなかった。
観衆の騎士団員たちがざわめき始める。
「門番にしては……いや、門番だからこそか?」
「動きは派手じゃないが……全部見切っていた」
「立ち続けてきた眼……侮れん」
その言葉はあっという間に周囲に広がり、訓練場全体に「門番オルフ」の名が響き始めた。
若き騎士は悔しさに震えながら立ち上がる。
剣を握り直し、なおも睨みつけた。
「だが……これで英雄だとは思うな。俺は認めん」
その言葉には、敗北を認めざるを得ない無念と、ほんのわずかな敬意が混じっていた。
オルフは何も返さず、ただ槍を肩に担いで立ち去ろうとした。
リシアは慌てて隣に並び、小声で囁く。
「すごかったです、オルフさん……! あの眼で全部見抜いて……!」
彼女の頬は赤く、胸は高鳴っている。
オルフは短く息を吐き、静かに答えた。
「……立っていただけだ」
だがその横顔には、ほんのわずかに柔らかさが宿っていた。
その後、訓練場を離れた二人の背後で、囁きが続いた。
「通さぬ門番……」
「老いぼれではないな……」
「噂は本物だったのか」
その言葉が尾を引き、王城の中へと広がっていく。
リシアはその声を聞きながら、胸の奥で強く思った。
(もう誰にも笑わせない。オルフさんは、ただの門番なんかじゃない……!)
石畳を踏みしめる足取りは、さっきまでよりも確かに力強かった。