第18話 王城での謁見
王都の大通りは、村の誰もが想像できないほど広かった。
石畳の道は四人並んで歩けるほどで、両脇には商人の店や露店がぎっしりと立ち並んでいる。
鮮やかな布を広げる商人、香辛料の匂いをまき散らす行商人、街角で芸をする道化師。
色とりどりの旗や垂れ幕が風に揺れ、人と声と匂いがごちゃまぜになって押し寄せてきた。
「すごい……! まるでお祭りみたい」
リシアはきらきらと目を輝かせ、思わずあちこちに視線を送る。
村の祭りですら胸を高鳴らせていた彼女にとって、この光景は別世界だった。
一方、オルフさんは大通りの真ん中を静かに歩いていた。
人の多さにも華やかさにも目を奪われず、ただ槍を支えながら無言で進む。
すれ違う人々がひそひそと囁き合う。
「通さぬ門番が王都に来たらしい」
「辺境の村を守ったって噂だろう? 本当なのか?」
「笑い話かと思ったが……意外に頑丈そうじゃないか」
嘲笑ではなく、今度は好奇の混じった視線。
その変化にリシアは気づいて、胸の奥が熱くなる。
(ちゃんと広まってる……! オルフさんの“通さぬ”が王都まで届いてる!)
大通りを抜けると、目の前にそびえ立つ白い城壁が視界を覆った。
王城だった。
灰色の外壁とは違い、磨き上げられた白石が朝日に照らされて輝いている。
塔の上には金色の旗がはためき、遠目からでも威厳を放っていた。
リシアは思わず立ち止まり、口元を押さえる。
「……あれが……王城……」
村の柵どころか、王都の城壁さえ小さく見えるほどの規模。
ただそこにあるだけで「力」と「権威」を思わせる建造物だった。
門前には整列した兵士たちが控えていた。
鋼の鎧に青いマント。村で見た兵士たちとは比べ物にならないほど洗練され、誰もが鋭い眼光を放っている。
彼らの視線が、ゆっくりとオルフさんとリシアへ注がれた。
「オルフさん……緊張、してます?」
リシアは恐る恐る尋ねた。
「している」
あまりにあっさりとした答えに、彼女は一瞬言葉を失った。
けれど、すぐに小さく笑ってしまう。
「……ですよね。でも、私も一緒です」
おっさんは横目で彼女をちらりと見ただけだったが、その歩みは少し力強くなったように見えた。
王城の大扉がゆっくりと開く。
中から現れたのは、豪奢な衣をまとった従者たち。
「辺境の証人をお連れしました」
文官の声に、兵士たちが一斉に敬礼をする。
その瞬間、リシアの心臓は大きく跳ねた。
(ついに……王様に会うんだ。私たちの“通さぬ”を、国全体に届けるんだ!)
オルフさんは表情を変えないまま、白い石の床を踏みしめて進んでいった。
王城の扉を抜けると、冷たい空気が二人を包んだ。
外の喧騒とはまるで別世界。
石造りの床は磨き上げられ、足音が硬く響く。
天井は信じられないほど高く、金の装飾が梁に施され、壁には英雄たちの絵画や旗が並んでいた。
リシアは思わず口を開けたまま立ち止まる。
「……まるで神殿みたい」
村の祭壇ですら畏れ多く思えた彼女にとって、王城の内装は別格だった。
やがて案内されたのは、王が座す謁見の間だった。
長い赤い絨毯が奥へと続き、玉座がそびえている。
そこには王冠を戴いた王が静かに腰掛け、左右には宰相や重臣たちが並んでいた。
さらに両脇には鎧に身を固めた騎士たち。
豪奢な衣装をまとった貴族も列をなし、まるで壁のように立っている。
村の粗末な布服を着たオルフとリシアは、まるで異物のように浮いて見えた。
リシアは足がすくみそうになる。
(すごい……。本当に王様の前にいるんだ……!)
緊張で喉が渇き、手に汗がにじむ。
それでも彼女は必死にオルフさんの横顔を見て、気持ちを落ち着けようとした。
おっさんは背筋を伸ばし、無言のまま前を見据えていた。
豪華な衣も、睨みつけるような視線も、彼にとってはただの景色にすぎないように見える。
(……オルフさん、やっぱりすごい。村じゃただの門番って言われてたのに……)
場内に声が響いた。
「辺境より参った証人、進め」
低く厳かな声。
宰相が書簡を手にし、冷たい眼差しで二人を見ていた。
オルフとリシアは赤い絨毯の上を歩み、玉座の前で立ち止まる。
周囲の貴族がひそひそと囁いた。
「……村の門番か」
「痩せた女を連れてきたぞ」
「王城に相応しくない」
その視線に、リシアの心臓が早鐘のように鳴る。
けれど、オルフさんの立ち姿は崩れなかった。
槍を静かに握り、背筋を真っ直ぐに保ったまま玉座を見上げている。
王の眼差しが彼に注がれる。
それはまるで「その眼で何を見てきたのか」と問いかけるようだった。
リシアは緊張で息を詰めながらも、ほんの少し誇らしさを覚えた。
(この人なら……ここでもきっと“通さぬ”を貫ける)
玉座の前に立ったオルフとリシアを、謁見の間にいる誰もが見下ろしていた。
王は沈黙したまま視線だけを向け、隣に控える宰相が口を開いた。
「辺境の村で獣が暴れたと報告を受けている。……語れ。何があった」
宰相の声は冷ややかで、まるで真偽を確かめるというより、虚言を見抜くための問いかけに聞こえた。
オルフはしばし目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
そして、淡々と語り始める。
「森の奥から、不気味な笛の音が響いた。それに呼応するように、影の獣が現れた。
数は数十、いやもっといたかもしれん。村を囲む柵など、一度で破られるほどの群れだった」
場が静まる。
彼の声は低く、抑揚は少ない。だがそれがかえって重みを生み、誰もが耳を傾けた。
「村人たちは恐怖で震えていた。だが……俺は門の前に立ち、通さぬと告げた。
その声に応じるように、村人たちも次々と叫んだ。
“通さぬ”と。……ただそれだけの言葉だ」
リシアは横で小さく頷いた。
(そう……あの夜、私たちは声を重ねて必死に立ったんだ)
オルフの言葉は続く。
「影の獣は怒り狂い、襲いかかってきた。俺は槍で応じた。血に濡れ、何度も倒れかけた。
だが……村人たちの声が背中を支えてくれた。
“通さぬ”という声が、俺を立たせた」
玉座の前に静かな波紋が広がる。
貴族の一人が鼻で笑おうとしたが、なぜか声にできなかった。
リシアが一歩前へ出た。
緊張で足が震えていたが、声ははっきりとしていた。
「私も見ました。オルフさんが血だらけになっても立ち続け、私たちを守ってくれた姿を。
あの夜、村の人はみんな“通さぬ”と叫びました。
それが、獣を退けたんです!」
彼女の目に涙が光った。
広間に沈黙が落ちる。
貴族たちの間に、かすかなざわめきが走った。
「声で獣を退けた……?」
「まやかしではないのか」
「だが……嘘を言っているようには見えん」
誰も笑わなかった。
ただ半信半疑の視線が、オルフへと集まった。
王は動かず、ただ彼の眼を見つめていた。
その鋭いまなざしを受けても、オルフは背を曲げずに立ち続けていた。
(……門の前と同じだ。俺は立ち、見てきたものを語る。それだけだ)
彼の静かな言葉は、豪奢な謁見の間に確かに刻まれていった。
オルフの証言が終わったあと、謁見の間に重たい沈黙が落ちていた。
王も宰相も言葉を発せず、誰もが彼の「通さぬ」という言葉を反芻しているようだった。
その空気を破ったのは、一人の貴族だった。
金糸の刺繍を施した衣をまとい、羽飾りのついた帽子をかぶった中年の男が、堪えきれぬといった様子で吹き出した。
「ぷっ……はははははっ!」
その大笑いに、周囲の貴族たちも次々と釣られるように笑い出した。
「なんと滑稽な! 村人が声を揃えて“通さぬ”と叫んだだけで、獣が退いたと申すか!」
「まるで子どもの遊戯よな!」
「老いぼれの門番が血を流した? それがどうした。武勲とも呼べぬわ!」
彼らの笑い声は大広間に響き渡り、まるでオルフさんの証言そのものを踏みにじるようだった。
リシアは唇を噛みしめ、震える手を握りしめた。
(どうして……どうして笑えるの? 私たちは本当に死に物狂いで……!)
貴族の一人が彼女を見やり、鼻で笑った。
「その娘も証人か。まだ若いくせに、老兵の妄想に付き合わされているらしい」
「可哀想にな。門番に英雄譚を吹き込まれて夢を見ているのだろう」
嘲笑はオルフだけでなく、リシアにも向けられた。
けれど、オルフは何も言わなかった。
ただ静かに槍を握り、背筋を伸ばして立ち続ける。
その沈黙がかえって「否定も言い訳もしない」という強さを感じさせた。
だが、貴族たちには届かない。
「見ろ、黙り込んだぞ!」
「やはり与太話だったか!」
笑いと侮蔑の声が再び広間を満たした。
リシアの胸に怒りと悔しさが渦巻いた。
視界が滲む。
(違う……オルフさんは嘘なんてついてない……! あの夜、私が見たのは……!)
玉座の前で小さな拳が震える。
涙がこぼれそうになるのを必死にこらえ、彼女は一歩前へ出ようとした。
広間の空気は完全に「門番の与太話」として決まりかけていた。
だが――。
その流れを覆すほどの声が、次に響くことになる。
広間いっぱいに響き渡る嘲笑。
豪奢な衣装をまとった貴族たちは、互いに顔を見合わせては鼻で笑い、侮蔑の言葉を浴びせ続けていた。
「声を揃えて“通さぬ”だと? まるで子どもの遊びだ」
「命がけの戦いを、まるで芝居の台詞のように語るとは」
「老いぼれの妄想に若い娘を巻き込むとは情けない」
その声は鋭い矢のようにリシアの胸を刺した。
怒りと悔しさで息が詰まり、喉の奥が熱くなる。
(違う……違う! オルフさんは嘘なんて言ってない。あの夜、私が見たのは――!)
涙がにじむ視界の中で、リシアは拳をぎゅっと握りしめ、一歩前に踏み出した。
「違います!」
その声は澄んでいて、広間にいた誰もが思わず動きを止めた。
リシアは胸いっぱいに息を吸い、震える声を押さえ込むようにして叫んだ。
「オルフさんの話は全部、本当です! あの夜、村に獣が押し寄せました! 柵なんて一瞬で壊れるほどの群れでした!」
彼女の声は涙で震えていたが、その目は一点を見据えて揺るがなかった。
「村のみんなは怖くて震えて……逃げ出したい人だっていました! でも、オルフさんは門の前に立って、“通さぬ”って叫んだんです!」
ざわめきが再び広間に走る。
「通さぬ……?」
「本当にそんなことが……」
貴族たちが小声で囁き合う。
リシアは涙を拭うこともせず、さらに声を張った。
「その声に、私たちも応えました! みんなで“通さぬ”って叫んだんです! オルフさんは血だらけになっても倒れなかった! その背中を見ていたから、私たちも立ち続けられたんです!」
広間に響く彼女の叫びは、震えていながらも真実の重みを持っていた。
ある貴族が皮肉を込めて笑おうとしたが、声が出なかった。
彼女の必死さが、嘲笑を押しとどめたのだ。
リシアは振り返り、玉座の王をまっすぐに見た。
「どうか信じてください! オルフさんは村を救った英雄です!」
その瞳は涙で濡れていたが、揺るぎない光を宿していた。
広間に重苦しい沈黙が落ちた。
誰も笑わない。
誰も声を上げない。
ただ一人の少女の叫びが、石造りの壁に反響していた。
リシアの叫びが広間に反響し、重たい沈黙が訪れた。
誰も笑わず、誰も言葉を発しない。
ただ少女の涙混じりの声だけが、まだ石の壁に残響しているようだった。
そのとき。
玉座に座す王が、ゆっくりと右手を上げた。
それだけで、広間全体が水を打ったように静まり返る。
笑っていた貴族も、皮肉を浮かべていた者も、一斉に口を閉ざした。
王は静かにオルフを見つめた。
その瞳は厳しく、まるで心の奥を覗き込むようだった。
「……老いた門番よ。お前の言葉、娘の訴え……嘘とは思えぬ」
低く響く声。
広間の空気がわずかに揺れた。
宰相が一歩前に出て、声を整える。
「陛下、しかし“通さぬ”などという掛け声で獣が退いたというのは……」
「真実かどうかは些末なことだ」
王は静かに遮った。
「重要なのは、辺境で人々が立ち続けたという事実だ」
玉座の間に、再びざわめきが走る。
王は続けた。
「門番にすぎぬ身が、村を救ったとすれば……それは王国の兵にも出来ぬことを成した証よ」
その言葉に、オルフさんはわずかに眉を動かした。
(……王が、俺を……?)
宰相は不満げに口を閉ざしたが、その眼差しにはわずかな興味が宿っていた。
「門に立ち続けた者の眼は侮れぬ、ということですな」
「うむ」
王は短く頷いた。
「だからこそ呼んだのだ。この国に迫る影を語れるのは、立って見てきた者だけ」
貴族たちはなおも不満げに囁き合った。
「老兵を持ち上げすぎでは……」
「だが、陛下のお言葉だ……」
「ただの門番に注目が集まるとは」
嘲笑は消え、今度は戸惑いと小さな敬意が入り混じった視線が、オルフさんに注がれた。
リシアは胸を熱くしながらオルフを見上げた。
「オルフさん……!」
オルフは答えず、ただ静かに槍を支えて立ち続けていた。
だがその背筋は、少しだけ誇らしげに見えた。
王の言葉が広間を支配していた。
誰もが口を閉ざし、ただ玉座に座る王の瞳と、その視線を受ける門番を見ていた。
宰相が巻物を閉じ、深く一礼する。
「これにて本日の証言は以上といたします」
王が頷き、手を軽く振る。
「下がれ。ただし――その眼は、この城に必要となるやもしれぬ」
最後の言葉は、静かに、だが確かにオルフさんへ向けられたものだった。
オルフとリシアは深く礼をし、赤い絨毯をゆっくりと戻っていく。
広間を出るまでの間、背中にいくつもの視線を感じた。
侮蔑や嘲笑ではなく、戸惑いと興味、そしてほんのわずかな敬意が混じった視線だった。
大扉を抜けると、冷たい廊下に出た。
リシアは大きく息を吐き、胸に手を当てた。
「……緊張しました……でも、よかった……! オルフさんの言葉、ちゃんと王様に届きましたよ!」
彼女の頬は涙の跡で濡れていたが、その顔はどこか誇らしげだった。
オルフは無言で歩を進めていた。
だが、しばらくして低く呟く。
「……立っていただけの門番に、王が言葉を返すとはな」
その声には自嘲ではなく、わずかな驚きと……誇りが混じっていた。
リシアは笑顔で頷いた。
「だってオルフさんは、立ってただけじゃありません。村を守った英雄です!」
そのとき。
廊下の影から一人の若い騎士が歩み寄ってきた。
銀の鎧をまとい、まだあどけなさの残る顔に、真剣な眼差しを宿している。
彼はすれ違いざま、小さく声をかけた。
「……あなたの眼は、嘘を言っていなかった」
それだけを告げると、振り返らずに去っていった。
リシアは目を丸くし、オルフを見上げる。
「今の、聞きました? きっと伝わったんですよ、誰かに」
オルフは答えず、ただ短く頷いた。
その横顔は硬い石壁のように無表情だったが、瞳の奥には小さな光が灯っていた。
外へ出ると、王城の塔が朝日に照らされて輝いていた。
リシアは空を見上げ、拳を握る。
「ここからですね……。私たちの戦いはまだ始まったばかりです」
オルフは静かにその言葉を聞きながら、槍を握り直した。
(ただ立つだけの人生……。だが、もうそれだけでは終われん)
心の奥で、初めてはっきりとそう思った。
――退役した門番。
だが、この日を境に彼は「英雄への一歩」を踏み出した。