第17話 王都の門
三日間の道のりを終え、ついに王都が見えてきた。
最初に目に飛び込んできたのは、空を突くほどの灰色の城壁だった。
遠くからでもはっきりと見えるその大きさは、まるで山の稜線のように地平に連なり、近づくにつれて圧倒的な存在感を放っていく。
リシアは馬車から身を乗り出し、ぽかんと口を開けた。
「す、すごい……! 村の柵なんか、あれに比べたら木の枝ですよ!」
彼女の声は興奮と驚きで震えていた。
確かに、これまで村を囲っていた粗末な木柵とは比べ物にならない。
巨大な石が何層にも積み上げられ、継ぎ目すら分からぬほど緻密に組まれた壁は、まるで永遠に崩れぬ砦のように見えた。
門は鉄でできており、閉ざされた状態なら巨人でも押し開けられそうにない。
黒光りする鉄板には無数の鋲が打ち込まれ、近づくだけで人を威圧する力を放っている。
門の上では槍を構えた兵士たちが行き交い、下界を睨んでいた。
風にたなびく王国旗が朝日に輝き、その存在は「ここが国の心臓部だ」と雄弁に語っていた。
「オルフさん……あんな壁、見たことありますか?」
リシアは隣に座る彼に問いかけた。
オルフさんは無言のまま、ゆっくりと視線を城壁へ上げる。
「……ある」
低く、短い答え。
「やっぱり……! すごいですよね!」
少女の声は弾んでいる。
だが次の言葉は重かった。
「だが、崩れる時は一瞬だ。壁は高くても、立つ者が折れれば意味はない」
リシアは一瞬きょとんとして、それから小さく苦笑した。
「相変わらず夢のないこと言いますね」
「夢じゃ、村は守れん」
ぶっきらぼうなやり取り。
だがその声には、夜を越えて立ち続けた男の重みが宿っていた。
馬車の周囲には、行商人や旅人たちが集まり始めていた。
大きな荷車を引いた男たちが「今日も検問は長そうだ」とぼやき、ロバに乗った子どもが退屈そうに口笛を吹く。
物乞いの少女が客の足にすがりつき、兵士に追い払われる。
村では見なかった人の多さと雑多な活気に、リシアの目はさらに丸くなった。
「……すごい人の数。あの門をくぐれば、もっとすごいんでしょうか」
「そうだろうな」
オルフさんは相変わらず表情を変えない。
リシアはちらりと横顔を見上げ、少しだけ声を落とした。
「でも……不安じゃないですか?」
彼は短く目を細めただけで答えなかった。
けれどその沈黙が、「不安はある、だが立つしかない」という言葉に聞こえた気がして、リシアの胸に妙な安心感をもたらした。
馬車は列に並び、ゆっくりと巨大な門へ近づいていく。
近づけば近づくほど、その重厚さと存在感が胸にのしかかってくる。
それはただの建築物ではなく、この国を守る象徴そのものだった。
リシアは小さく息を吐き、心の中で呟いた。
(私も……立ち続けよう。オルフさんみたいに)
王都の巨大な城門へ近づくにつれ、人の声が波のように押し寄せてきた。
村では考えられないほどの人混みだ。
馬車を降りた瞬間、リシアは目を丸くして声をあげた。
「わっ……! すごい人の数!」
行列は門の外まで長く伸び、商人、旅人、兵士、農民――さまざまな人々が入り混じっている。
大きな荷車を押す男の怒鳴り声。
値段で口論する行商人の夫婦。
その横で物乞いの少年が袖を引っ張り、小銭をせがんでいる。
「村の収穫祭よりにぎやかだ……」
リシアは思わず笑い、周囲をきょろきょろと見渡した。
楽師が門の前で笛を吹き、数人の子どもが楽しそうに踊っている。
だがその背後では、商人同士が激しく言い争い、兵士が仲裁に入る。
笑い声と怒号、笛の音と馬のいななき――。
さまざまな音が入り混じり、耳が追いつかないほどだった。
「オルフさん、見てください! あの露店! パンが山みたいに積まれてます!」
リシアが指を差す。
焼き立ての香ばしい匂いが風に乗って漂ってきて、思わず腹が鳴った。
「はしゃぐな。人混みでは足元をすくわれやすい」
オルフさんは淡々と答え、彼女の肩を軽く押して列に戻す。
「もう……! ちょっとくらい楽しんでもいいじゃないですか」
「楽しんでいる暇はない」
ぶっきらぼうなやり取りに、リシアは口を尖らせたが、どこか安心したようでもあった。
門前では、兵士が一人ひとりに声をかけ、身元や荷物を確かめていた。
「次! 身分証を見せろ!」
「おい、酒樽は一つまでだ、税を払え!」
兵士の声が飛ぶたびに、人々が慌てて袋や樽を差し出す。
リシアは小声でつぶやいた。
「すごい……。村じゃ、誰もこんなことしないのに」
「だからこそ、人も物も集まる」
オルフさんの目は冷静に周囲を見渡していた。
「秩序がなければ、王都はすぐに混乱する」
そのとき、行商人の男が声を荒げた。
「馬鹿な! こんなに税を取るのか!」
「規則だ。我慢しろ」
「ふざけるな、俺たちは――」
兵士に胸倉をつかまれ、男が押し倒されそうになる。
周囲が一瞬ざわつくが、すぐに沈黙が広がった。
王都の空気は活気と同時に、こうした緊張も孕んでいた。
リシアは少し青ざめ、オルフさんの袖を握った。
「なんだか……怖いです」
彼はちらりと彼女を見下ろし、短く答えた。
「怖いなら、よく見ておけ。人の群れは獣よりも恐ろしい時がある」
その言葉に、リシアはごくりと唾を飲み込む。
(そうだ……獣だけじゃない。この国には、もっと大きな敵がいるのかもしれない)
それでも彼女は槍を握り直し、小さく笑った。
「でも……大丈夫です。オルフさんと一緒なら」
おっさんは返事をせず、人混みの向こうにそびえる城門を見据え続けていた。
――そこから、王都の試練が始まろうとしていた。
検問の列がようやく進み、オルフさんたちの番がやってきた。
前に立つ兵士は鋼の鎧に身を包み、槍を持って仁王立ちしている。
近くで見ると威圧感がすさまじく、リシアは思わず肩をすくめた。
「身分を名乗れ」
兵士が低い声で告げる。
文官が前に出て羊皮紙を広げた。
「王城の召集令だ。この二人は辺境の証人として同行している」
兵士はちらりとオルフさんを見て、鼻で笑った。
「……ただの門番が証人だと? 冗談だろう」
その一言に、リシアの目がカッと見開かれた。
「なっ……!」
兵士は槍を軽く叩きながら続ける。
「村の柵に立ってただけの老いぼれを王都に通すとは。王城も人材不足らしいな」
周囲の旅人や商人がくすくすと笑う声が聞こえた。
「門番上がりかよ」
「王城に呼ばれるとはな」
「ただ立ってただけで褒美か?」
人々の囁きが矢のように突き刺さる。
リシアは一歩前に出て、声を張り上げた。
「笑わないでください!」
周囲の視線が一斉に彼女へ向いた。
「この人がいなければ、私たちの村はもう獣に滅ぼされていました!」
声は震えていたが、その瞳は揺るがなかった。
「オルフさんは立っていただけなんかじゃありません! 通さぬって言って、血だらけになりながら私たちを守ってくれたんです!」
必死の訴えに、しんと静まり返る一瞬。
だが兵士は薄く笑った。
「ほう……弟子に庇わせるとは情けない。英雄を気取るなら、自分で語れ」
オルフさんは沈黙したまま槍を支えていた。
彼の横顔には悔しさも怒りもなく、ただ静かな影が落ちていた。
リシアは唇を噛みしめ、なおも続ける。
「情けなくなんかありません! オルフさんは村人みんなの盾だったんです!」
その声に混じって、後ろにいた旅人が小さく呟いた。
「……本当に村を守ったのか?」
「噂で聞いたぞ、辺境の村が獣を退けたって」
笑いと疑念が入り混じり、空気がざわついた。
オルフさんはその声を背に受けながら、ただ前を見つめていた。
(俺は……まだ“ただの門番”だ。だが、こいつは違う。こいつの声は、本物だ)
彼は深く息を吐き、少しだけ槍を握り直した。
兵士が鼻を鳴らして通行を許す。
「……行け。王城で笑われるのはお前の勝手だ」
列が動き、門の影に足を踏み入れる。
リシアは横で怒りのまま拳を握っていた。
「オルフさん、あんな言い方……! 悔しくないんですか?」
おっさんは少しだけ彼女を見て、淡々と答えた。
「悔しいとも思わん。俺はただ立ってきただけだ」
だがその声の奥に、ほんのかすかな苦笑が混じっていた。
(……こいつが怒ってくれるのなら、それで十分かもしれん)
鉄の門の前。
兵士の「ただの門番」という嘲りは、人々の耳に残り続けていた。
旅人や商人の笑い声がまだ尾を引き、空気はどこか重苦しかった。
その中で、リシアは歯を食いしばり、一歩前に出た。
肩に巻かれた包帯がまだ赤く染まっているのも忘れ、胸いっぱいに息を吸い込む。
「やめてください!」
その声は、王都の喧騒の中でもはっきり響いた。
ざわつく人混みが一瞬だけ静まり、視線が一斉に彼女へと集まる。
「この人は、ただの門番なんかじゃありません!」
リシアの声は震えていたが、はっきりとした熱を帯びていた。
「夜の獣の群れに、私たちは襲われました。逃げようと思えば誰だって逃げられたんです。
でも、オルフさんは……ひとりで門の前に立ち続けてくれたんです!」
彼女の叫びに、周囲が息を呑む。
商人の一人が首を傾げた。
「……本当か?」
兵士は鼻で笑った。
「弟子が必死に庇う姿は、確かに心打たれるな。だが、それは英雄の証明にはならん」
その言葉に、リシアの頬が赤くなった。
「証明? そんなもの……村の人たちはみんな知ってます! あの夜、門を通さぬって叫んだから、みんなが立てたんです!」
彼女は涙をこらえ、さらに声を張る。
「私だってこの肩に傷を負いました! でも立てたのは、オルフさんが背中を見せてくれたから!
王都の人が笑っても、私は絶対に誇りに思います!」
その迫力に、周囲のざわめきが収まっていった。
物乞いの子どもまでがじっと見上げ、商人たちも互いに顔を見合わせる。
「通さぬ」という言葉の意味が、彼女の声を通して伝わったのだ。
兵士はしばらく無言でリシアを見つめていた。
そして皮肉めいた笑みを浮かべ、肩をすくめる。
「随分と慕われているようだな、門番殿。……だが王都は甘くない。弟子の声で守れるものなど、ここにはないぞ」
嘲笑まじりの言葉を残し、兵士は通行を許す合図をした。
オルフさんは黙ったまま槍を支え、リシアの隣に立った。
彼女はまだ頬を紅潮させ、拳を握りしめている。
「……悔しい。どうしてあんな言い方をされなきゃならないんですか」
オルフさんはちらりと彼女を見て、小さく答えた。
「悔しさは……立ち続けて晴らすもんだ」
短い言葉。だが、その横顔はどこか誇らしげだった。
リシアは涙を拭い、強く頷いた。
「だったら、私も立ち続けます。ここでも、どこでも。オルフさんの横で」
彼女の真剣な声に、オルフさんはわずかに目を細める。
(……この弟子がいる限り、俺はまだ折れん)
検問を終え、巨大な鉄の門をくぐろうとしたときだった。
人混みの中から、また誰かの声が飛んだ。
「結局はただの門番だろう!」
「王城に呼ばれるなんて笑える!」
くすくすと笑う声が尾を引く。
兵士も口の端を吊り上げたまま、何も言わず背を向けた。
リシアが再び怒鳴り返そうと息を吸った、その時。
オルフさんがふいに立ち止まった。
背を向けたまま、低い声で呟く。
「……立っていたからこそ、見えたものがある」
その声は、大きくはなかった。
だが、重い石壁に反響して、人々の耳に確かに届いた。
商人の一人が眉をひそめ、囁いた。
「……どういう意味だ?」
「ただ立ってただけじゃない、ってことか……?」
物乞いの子どもまでもが小さく呟いた。
「立ってただけで……守れるの?」
兵士も一瞬だけ足を止めたが、振り返ることはなかった。
けれどその顔には、かすかな曇りが走った。
リシアは横で、胸が熱くなるのを感じていた。
(オルフさん……!)
彼の言葉は、誰に向けたものでもなかった。
侮辱してきた兵士でも、市民でもない。
それは、ずっと自分自身に言い聞かせてきた言葉だった。
ただ立っていただけ。
そうやって自分を卑下してきた男が、ようやく「立つことの意味」を口にしたのだ。
リシアは思わず微笑んだ。
「そうです。その通りです……」
小さく呟いた声は、彼の背中に届いたかどうかは分からない。
けれどその時、オルフさんの歩みはほんの少しだけ力強くなった気がした。
門を抜け、王都の大通りが広がった。
石畳の道には色とりどりの旗が翻り、露店が並び、人々が行き交っている。
城壁の外の混沌とは違い、秩序と華やかさを兼ね備えた光景だった。
リシアは目を輝かせながら振り返り、オルフさんに言った。
「今の言葉……きっと、誰かの心に届きましたよ」
おっさんは答えず、前を見据えたまま歩き続ける。
だがその横顔は、これまでより少し柔らかく見えた。
鉄の門を抜けた直後だった。
さきほどまでの嘲笑が、いつの間にか別の囁きへと変わっていた。
「……あの男がそうか?」
「辺境で獣を退けたって噂、聞いたことがあるぞ」
列に並んでいた商人が、小声で隣の仲間に話す。
「門の前で『通さぬ』って叫んで、村を守ったらしい」
「まさか……ただの門番だろ?」
「いや、本当だ。夜通し獣を相手にして、村が焼かれるのを防いだと聞いた」
周囲の人々が耳を傾ける。
旅装をした若い剣士が腕を組みながら呟いた。
「ただ立ってただけ……か。けど、その立ち続けるってのが一番難しい」
物乞いの少年まで目を輝かせて言う。
「立ってただけで、みんなを守れたんだろ? すごいじゃん」
最初に笑っていた商人の妻でさえ、半信半疑ながら首をかしげる。
「門番だからこそ、門を通さなかったのかしらね……」
リシアはその声を耳にして、胸がじんと熱くなった。
(ほら……オルフさん、ちゃんと届いてますよ。みんなが信じ始めてます)
横を歩くオルフさんは、何も言わず槍を杖のように握り続けていた。
だが、わずかに顎が上がり、背筋がまっすぐに伸びているのをリシアは見逃さなかった。
さらに別の旅人が囁く。
「王城が呼んだってことは、やはり本物かもしれん」
「通さぬ、か……。面白い言葉だな」
「英雄の始まりって、案外そんなものなのかもな」
人々の会話はあっという間に広がり、噂となって門前の人混みを駆け巡っていった。
嘲笑は消え、好奇心と小さな敬意が代わりに残った。
リシアは思わずオルフさんに笑いかけた。
「ね、聞こえましたか? もう“ただの門番”じゃありませんよ」
オルフさんはほんのわずかに口元を緩めただけで、答えなかった。
けれどその無言の表情は、心の奥に何かが灯り始めた証拠だった。
王都の大通りへ一歩踏み出す二人の背に、
「門を守った男だ」
「通さぬ門番だ」
という囁きが、静かな尾を引いてついてきた。
城門をくぐった瞬間、世界が変わった。
石畳の道はどこまでも広がり、両脇には色とりどりの旗を掲げた建物が並んでいる。
露店では香ばしいパンや肉の匂いが漂い、果物を山のように積んだ商人の声が響く。
村では見たこともないような衣装を着た人々が行き交い、通りは人波であふれていた。
「わぁ……!」
リシアは思わず声を上げた。
「すごい……本当に国の中心なんですね……」
その瞳は輝き、子どものようにきょろきょろと辺りを見回している。
一方でオルフさんは、ゆっくりと歩みを進めながら周囲を見渡していた。
驚きも誇りも見せず、ただ静かに、目に映るものを観察する。
だがその背筋はまっすぐで、揺るがない。
リシアはそんな彼の横顔を見て、小さく笑った。
「……やっぱり、オルフさんはすごいです。みんなに笑われても、立ってるだけでこんなに頼もしい」
「……すごくなんかない」
おっさんは低く答える。
「俺は門に立ってきただけだ。王都で何ができるかなんて分からん」
けれど、その声にはかすかな揺らぎがあった。
“ただの門番”と言いながらも、村人やリシアの言葉、市民の囁きが胸に残っているのだ。
(立っていただけ……。だが、それで守れた命がある。なら……)
オルフさんの視線は自然と遠くの王城へと向いた。
天を突く白い塔が朝日に照らされ、眩しく輝いている。
リシアが隣で拳を握り、元気よく言った。
「王都の人たちにも分かってもらいましょう! オルフさんはただの門番じゃないって!」
その言葉に、おっさんはふっと小さく笑った。
それは自嘲でも諦めでもなく、どこか温かさを含んだ笑みだった。
「……らしいな。お前がそう言うなら、そうなんだろう」
背後ではまだ人々の囁きが続いていた。
「通さぬ門番……」
「王都に来たぞ……」
嘲笑ではなく、興味と期待の混じった声。
それらは静かな風のように二人の背を押していた。
リシアはオルフさんの横顔を見上げ、まるで確信するように言った。
「英雄って、きっとこういう人のことを言うんですね」
オルフさんは何も答えなかった。
ただ前を向いて歩き続ける。
その姿はまだ“ただの門番”だった。
けれど、その背中には確かに――英雄の芽が宿り始めていた。