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第15話 夜明けの防衛線

 村は静まり返っていた。

 だがそれは安らぎではなく、嵐の前の重苦しい静寂だった。


 影の群れを退けた後、村人たちは疲労困憊で地に腰を下ろした。

 血を流した者の傷を女たちが必死に洗い、老人は震える手で松明に油を注ぎ直す。

 泣き疲れた子どもたちは母親の腕の中で眠りについたが、その寝顔に安らぎはなかった。


 門前では、オルフさんとリシアが並んで立っていた。

 焚き火の赤い光が二人の影を揺らし、東の空はまだ暗い。


 リシアの手は汗で濡れ、木槍の柄が滑りそうになる。

「……まだ来るんでしょうか」

 震える声に、オルフさんは低く答える。


「ああ。黒幕は諦めん。次が本番だ」


 その言葉は重く、しかし確かなものだった。


 村の奥からも不安の声が漏れてくる。

「また……来るのか」

「もう限界だ、戦える力なんて残ってない」


 疲労と恐怖で膝を抱え込む男たち。

 それでも誰一人、眠りに落ちる者はいなかった。

 森の奥から響く獣の唸り声が、全員の心を釘付けにしていたからだ。


 その低い咆哮は、影とは異なる。

 生々しく、喉を震わせ、大地を揺らすような音。

 リシアは思わず背筋を伸ばした。

「……影じゃない。獣……ですか」


 オルフさんは頷く。

「黒幕は試しを終えた。次は本物を寄越す。群れかもしれん」


 その声に、リシアの胸は恐怖で締め付けられる。

 だが同時に、槍を握る手に力がこもった。


「オルフさん……」

「なんだ」

「私……怖いです。でも、もう退きません。村を守るために」


 おっさんはしばらく黙り、やがて短く答えた。

「それでいい。恐怖を知って立つ、それが一番強い」


 その言葉に、リシアの胸が熱くなる。

(私……立てる。通さぬって、言える)


 夜空はまだ暗く、星々は雲に隠れていた。

 村人たちは息を潜め、焚き火の赤だけが頼りの光となる。


 やがて、森の奥から再びあの旋律が流れてきた。


「ひゅぅぅぅ……ひゅぅぅぅ……」


 前夜よりも深く、鋭い笛の音。

 その直後、大地を揺らすような獣の咆哮が響いた。


 村の空気が、一気に張り詰めた。



 「ひゅぅぅぅ……ひゅぅぅぅ……」

 不気味な笛の音が、闇に沈んだ森から響き渡った。

 それは前夜のものよりも重く、鋭く、聞く者の心を抉る旋律だった。


 次の瞬間、森の奥から地を震わせる足音が響き始めた。

 ドン……ドン……ドン……。

 まるで大地そのものが唸っているかのように、連続して重低音が村へ迫ってくる。


 最初に姿を現したのは、狼のような影だった。

 だが毛並みは闇に染まり、瞳は赤く爛々と輝いている。

 口からは涎と同時に黒い靄が滴り、牙が異様に長く伸びていた。


「ひっ……!」

 誰かが悲鳴をあげる。


 その背後からさらに二体、三体と続く。

 牙を剥いた熊のような巨体、鹿のような角を持ちながら影の触手をうねらせる異形――。

 昨夜の幻のような影ではない。

 今度は確かに肉を裂き、骨を砕く、本物の怪物たちだった。


 村人たちの顔から血の気が引いた。

「な、なんだあれは……!」

「獣だ……いや、獣じゃない……!」

「もう駄目だ……!」


 叫び声があがり、数人が後退しかける。


 だがリシアは槍を構え直し、声を張った。

「下がらないで! 通さぬって叫べば、絶対に退けられます!」


 震えてはいた。

 だがその声に、何人かの村人が歯を食いしばり、武器を握り直す。


 オルフさんも低く言い放つ。

「恐怖は当然だ。だが退けば、村は呑まれる。――立て!」


 その言葉に、若者兵団のキースが吼えた。

「通さぬ! 俺たちが通さぬ!」


 仲間たちも次々と叫ぶ。

「通さぬぞ!」

「通さぬんだ!」


 声が少しずつ重なり、恐怖に震える村人の胸を突き動かしていく。


 しかし、森から現れる獣の数は止まらなかった。

 狼の群れ、熊の巨体、鹿に似た異形、そして名前も知らぬ怪物たちが次々と姿を見せる。

 その数は十を超え、二十に迫ろうとしていた。


 リシアは喉を鳴らし、槍を握る手に力を込めた。

(こんな数……でも、退かない! 絶対に!)


 夜明け前の闇を切り裂くように、獣たちの咆哮が村を覆った。



 獣の群れが一斉に吠えた。

 狼の赤い瞳が闇を裂き、熊の巨体が地を震わせ、異形の鹿が枝角を振り回して門に迫る。

 その咆哮と足音だけで、村の空気は恐怖に呑まれそうになった。


「来るぞ!」

 オルフさんの声が響く。


 次の瞬間、黒い波のように獣たちが突進してきた。


 先頭を走る狼が門の外に躍り出た。

 リシアは息を詰め、木槍を真っ直ぐ突き出す。

「通さぬっ!」


 穂先が狼の喉を貫き、血と黒い靄が飛び散った。

 狼は呻き声をあげて崩れ落ちるが、その背後からさらに二体が襲いかかる。


「きゃっ!」

 リシアは必死に槍を引き戻し、横薙ぎに振る。

 穂先が影を裂き、一体を退けたが、もう一体が牙を剥いて迫る。


 そこへオルフさんが槍を構え、獣の腹に突き込んだ。

「通さぬッ!」

 鋭い一撃に、獣は地を転がった。


「オルフさん!」

 リシアが叫ぶ。

「大丈夫だ。まだ立てる」

 短い返答に、彼女の胸に力が戻った。


 背後では若者兵団が叫びながら前へ出ていた。

「通さぬ!」

「通さぬぞ!」


 松明を掲げ、槍や棍棒を振り回す。

 影の群れに比べれば実体ある獣は恐ろしい。

 だが、斬れば血が飛び、押し返せる。

 その手応えが、彼らに僅かな勇気を与えていた。


 村人たちも農具を手に駆け出した。

「鍬を突き立てろ!」

「火を近づけろ!」


 鍬や鎌が獣の脚を裂き、松明が毛皮を焦がす。

 炎に焼かれた獣が呻き、後退する。


「やれる……俺たちでもやれるぞ!」

「通さぬんだ!」


 声が合わさり、村全体が合唱のように響き渡る。


 しかし敵は数で押し寄せる。

 熊の巨体が門に体当たりし、木の柱がきしむ。

「やばい、門が!」

 村人が叫ぶ。


 オルフさんは槍を構え、熊の肩に突きを叩き込む。

「退けぇぇッ!」


 熊が咆哮をあげて後退し、その隙に男たちが縄を巻き直した。


 リシアは汗まみれになりながらも、槍を振り続けた。

「通さぬっ!」

 その声に応えるように、村人たちが叫びを重ねる。


 夜空に声と炎が響き、村と獣の群れがぶつかり合う。

 まるで村全体が一つの壁となり、必死に黒い波を押し返していた。



 獣の群れは次々と押し寄せてきた。

 狼が牙を剥き、鹿の異形が角を振り回し、熊が門を揺らす。

 村人たちの叫びと、獣の咆哮と、鉄のぶつかる音が入り混じり、夜空に轟いていた。


「通さぬっ!」

 リシアは必死に槍を突き出し、狼の喉を貫いた。

 黒い血が飛び散り、手に生温かさが伝わる。

 だが、その刹那――。


 横から別の影が襲いかかってきた。

 熊のような巨体の獣が大きな腕を振り回し、鋭い爪がリシアの肩をかすめた。


「きゃっ……!」


 服が裂け、鮮血がほとばしる。

 肩に激痛が走り、体がよろけた。


「リシア!」

 オルフさんの声が響く。


 彼は瞬時に飛び込み、リシアの前に立った。

 迫り来る熊の腕を槍で受け流し、逆に突きを放つ。

「通さぬッ!」


 穂先が獣の胸を裂き、血が噴き出す。

 巨体が後ろに倒れ込み、地を揺らした。


 リシアは膝をつき、息を荒げながら肩を押さえた。

 指の間から血が流れ落ち、地面を赤く染める。

「はぁっ……はぁっ……」


 痛みで涙が滲む。

 だが、それ以上に悔しさが胸を締め付けていた。

(私……立ってなきゃいけないのに……!)


 その姿を見て、村人たちが動揺した。

「リシアがやられた……!」

「もう駄目だ、守れない!」


 不安が広がり、列が乱れかける。


 だが――オルフさんが血まみれの肩を庇いながらも、槍を高く掲げた。


「俺はまだ立っている! 通さぬぞ!」


 その一言に、村人たちが息を呑んだ。

 昼間は「臆病者」と笑っていた男が、今は血を流しながら門の前に立っている。


「おっさんが……まだ立ってる!」

「俺たちも、通さぬぞ!」


 若者兵団が声を張り上げ、農具を握る手に力を込めた。

「通さぬ! 通さぬんだ!」


 リシアは震える体で顔を上げた。

 目に映るのは、大地を踏みしめるオルフさんの背中。

 その姿に胸が熱くなる。


(私……まだ終わってない。オルフさんが立ってるのに、私が倒れてどうするの!)


 血に濡れた肩を押さえながら、彼女は必死に立ち上がった。

 木槍を握り、声を振り絞る。

「通さぬっ!」


 その叫びが再び村に力を与え、戦場の合唱を取り戻した。



 血に濡れたリシアが立ち上がり、声を張り上げた瞬間――。

 村人たちの胸に熱が走った。


「通さぬっ!」

 彼女の叫びは震えていたが、その背筋は折れていなかった。

 肩から血を流しながらも、門の前に立ち続ける姿は、恐怖よりも強い光となって村人の目に焼き付いた。


 若者兵団のキースが声を振り絞る。

「見ろ! リシアも、オルフさんもまだ立ってる! 俺たちが退いてどうする!」


「そうだ! 通さぬんだ!」

「俺たちだってやれる!」


 若者たちが一斉に前へ出て、松明と槍を振りかざした。


 母親が子を背に庇いながら声を上げる。

「この子を泣かせるもんか! 通さぬ!」


 それに応じて別の母親も叫ぶ。

「私たちも戦える! 鍬でも鎌でも武器になる!」


 農具を手にした女たちが列を作り、炎を掲げた。


 老人すら杖を振り上げる。

「門番ひとりに守らせてなるものか! わしらも立つぞ!」


 その声に子どもたちまでもが窓から顔を出し、泣きながら叫んだ。

「通さぬー!」

「通さぬよー!」


 その小さな声が、大人たちの心をさらに奮い立たせた。


 村全体がひとつの壁となって獣の群れに立ち向かう。

 松明が炎を上げ、農具が獣の毛皮を裂く。

 男たちが鍬で熊の脚を叩き、女たちが松明で狼を追い払う。

 若者兵団が声を合わせて槍を突き出し、血を流しながらも獣を押し返した。


「通さぬ!」

「通さぬぞ!」

「通さぬんだ!」


 その合唱が夜空を震わせ、獣の咆哮とぶつかり合う。


 リシアは血に濡れた肩を押さえながらも、必死に槍を突き出し続けた。

「はぁっ、はぁっ……! まだ……通さぬ!」


 オルフさんがその背を支え、短く叫ぶ。

「よくやった、リシア! これでいい、立ち続けろ!」


 その声にリシアの胸が熱くなり、痛みを忘れるように再び槍を振った。


 門前の炎は大きく燃え上がり、村の声は一つになった。

 それは恐怖に抗う叫びではなく、守るための誇りに変わりつつあった。


(私たちは……ただの村人じゃない。守る者たちだ……!)

 リシアの胸にそう確信が灯った。



 戦いは終わりが見えなかった。

 獣の群れはなおも押し寄せ、門前は血と煙と叫びに包まれていた。

 狼の牙が松明をかすめ、熊の巨体が門柱を揺らす。

 鹿の異形が角を突き出し、農具を握る男を吹き飛ばした。


「うわああっ!」

「持ちこたえろ、退くな!」


 声が飛び交い、村全体が必死に踏みとどまる。


 リシアは血に濡れた肩を押さえながら、必死に槍を振っていた。

「通さぬ……通さぬっ!」

 その声は嗄れていたが、それでも強く響く。


 オルフさんもまた、血に濡れた腕を振るい続けていた。

「まだだ……立ち続けろ!」


 二人の背に、村人たちの声が重なる。

「通さぬ!」

「通さぬぞ!」


 だが、獣の数はあまりに多かった。

 門がきしみ、木材が裂ける音が響く。

「駄目だ……! 門が壊れる!」

 誰かが叫んだ。


 リシアの槍が熊の脇腹を裂くが、反撃を受けて地に叩きつけられる。

「きゃあっ!」


「リシア!」

 オルフさんがすぐに飛び込み、獣を払いのける。

 彼女は息を荒げながら立ち上がった。

(まだ……立たなきゃ……!)


 そのときだった。


 ――東の空が、白み始めた。


 わずかな光が雲を染め、闇に覆われた森の端を照らす。

 その光が届いた瞬間、獣たちが一斉に呻き声をあげた。


「グルルルッ……!」

「ギャアアッ!」


 狼の赤い瞳が揺らぎ、熊が後退し、鹿の異形が影を縮める。


「見ろ……光だ!」

 誰かが叫ぶ。


 村人たちが顔を上げ、朝焼けを目にした。

 闇の中で失われかけていた希望が、一気に胸に差し込んでくる。


「夜が……明ける!」

「助かったんだ!」


 オルフさんは槍を握り直し、光に照らされた獣を見据えた。

「いや、まだだ。だが……奴らは怯んでいる。今だ、押し返せ!」


「通さぬぞ!」

 リシアが叫び、村人たちも一斉に声を合わせた。

「通さぬ! 通さぬんだ!」


 合唱と朝の光に包まれ、獣たちは次々と後退していった。

 黒幕の笛がかすかに鳴り響くが、その旋律も光の中で弱々しく掻き消されていく。


「ひゅぅぅぅ……」


 やがて、森の奥へと獣の群れは引いていった。

 咆哮も足音も消え、残されたのは息を荒げる村人たちの声だけだった。


 リシアは肩で息をしながら、東の空を見上げた。

 光が差し込む中、頬を伝うのは涙か汗か、自分でもわからなかった。


(……守れた。夜を……越えたんだ)



 森に潜んでいた獣の群れは、夜明けの光と村人たちの声に押され、ついに退いた。

 足音も咆哮も消え、残されたのは、燃え尽きた松明の煙と、荒い息をつく人々の声だけだった。


 門前には血と灰が散らばり、地面は爪で抉られ、黒い染みが点々と残っている。

 村人たちは武器を下ろし、次々とその場に座り込んだ。

 誰もが傷だらけで、汗にまみれ、手は震えていた。


 リシアは血に濡れた肩を押さえ、よろめきながらも木槍を地に突いて立ち続けていた。

 視界は霞み、息は荒い。

 それでも、その瞳には強い光が宿っていた。


「……通さなかった……」

 掠れた声で呟く。


 その一言に、周囲の村人たちが顔を上げた。

 そして誰かが震える声で答える。

「……ああ。通さなかったんだ」


 やがて、合唱のように声が広がる。

「通さぬ……」

「通さぬぞ……」


 オルフさんは槍を杖代わりにして立ち、森の奥を睨み続けていた。

 その額には血が滲み、肩からも赤が流れていたが、背筋は決して曲がらなかった。


「……黒幕はまだ潜んでいる。これは終わりじゃない」

 低く放たれた言葉に、村人たちの表情が引き締まる。


「でも……」

 リシアが槍を握り直し、かすかに笑った。

「夜は越えました。みんなで、通さぬって叫んで……守れたんです」


 その笑顔に、疲れ果てた村人たちの胸に、小さな誇りが灯った。


 若者兵団のキースが肩で息をしながら叫ぶ。

「俺たちも……やれたんだな……! オルフさん、リシア、そしてみんなで……!」


 仲間たちも涙ぐみながら拳を突き上げる。

「通さぬぞ!」

「村は……守られたんだ!」


 泣き笑いの声が広がり、誰かが膝を抱えて嗚咽を漏らす。

 それは恐怖ではなく、張り詰め続けた心が解けた涙だった。


 東の空はすでに金色に染まり、鳥の声が森から響いてきた。

 夜明けが訪れ、村に光が差す。


 その光を浴びながら、オルフさんは小さく呟いた。

「これで……一つの夜は終わった」


 リシアも空を見上げ、強く頷いた。

「でも……きっと、また来ますよね」


「ああ。もっと大きな嵐がな」


 二人の言葉に、誰もが静かに頷いた。


 村は守られた。

 しかしこれは終わりではなく、始まりに過ぎなかった。


 黒幕の笛の音は消えたが、その影は確かに残っている。

 夜明けの光の中で、人々は新たな決意を胸に刻んだ。


 ――通さぬ、と。

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