表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/19

第13話 夜の笛音

 夜は再び村を包み込んでいた。

 昨日の戦いで獣を退けたはずなのに、安堵が完全に広がることはなかった。

 村人たちは早めに家々の灯りをともし、戸板を打ちつけ、祈るように子どもを抱きしめている。


「お母さん……また、来るの?」

 小さな声が暗い室内で響いた。

 母親は無理に笑顔を作り、子の頭を撫でる。

「大丈夫よ。オルフさんとリシアが門に立ってくれてるから」

 そう言いながらも、手の震えは止まらなかった。


 門の前。

 オルフさんとリシアが並んで立っていた。

 焚き火の残り火が赤く揺れ、二人の影を長く伸ばしている。


 リシアは木槍を握りしめ、夜空を見上げた。

 星々は雲に覆われ、月明かりも乏しい。

 静寂が逆に耳を刺すように重くのしかかってくる。


「……静かすぎますね」

「だからこそ気を抜くな」

 オルフさんの低い声が返る。

 肩に巻かれた包帯はまだ赤く滲んでいたが、背筋は変わらず真っ直ぐだった。


 リシアは心の奥で自分に問いかけていた。

(また……あの恐怖が来るのかな。

 でも私は――退かないって決めたんだ)


 強く息を吸い込み、胸の奥で小さな炎を燃やす。

 オルフさんが隣にいる。それだけで、震える足に力が戻る気がした。


 村の奥では、眠れぬ大人たちがひそひそと囁き合っていた。

「また獣が来るんじゃ……」

「でも、今度は俺たちも立つって決めただろう」

「そうだな……あの娘やオルフさんに任せっきりじゃ、情けない」


 恐怖と決意が入り混じる声。

 村全体が、嵐の前の静けさの中で息を殺していた。


 その沈黙を破るように――。

 遠く森の奥から、冷たい音が流れてきた。


 ひゅぅぅぅ……。


 それは風の音ではなかった。

 低く長く、心をざわつかせる不気味な旋律。


「……笛?」

 リシアの声が震える。


 オルフさんの目が細められた。

「来たか」



 森の奥から響く旋律は、風の流れを切り裂くように低く長く続いた。

 ただの笛の音なのに、耳に届いた瞬間、胸の奥を冷たい手で掴まれたような感覚が広がる。


「ひゅぅぅぅ……ぅぅぅ……」


 旋律は揺れ、心臓の鼓動を狂わせる。

 リシアの手が無意識に震え、木槍の柄をきしませた。


「オルフさん……これが……」

「ああ。獣を操っていたやつの音だ」

 おっさんの低い声は落ち着いていたが、額には僅かな汗が浮かんでいた。


 そのとき、村の奥から家畜の鳴き声が一斉に上がった。

 牛が暴れ、柵を打ち破ろうとする。

 鶏が羽ばたき、馬が悲鳴のような嘶きを上げる。


「うわっ、馬が!」

「柵を押さえろ!」


 村人たちが慌てて駆け寄り、必死に家畜を押さえ込む。

 だが、笛の音が強まるたびに、彼らの動きは乱されていく。


 さらに、犬が狂ったように吠え、赤子が一斉に泣き出した。

 母親たちは青ざめた顔で子を抱きしめるが、震える声を抑えきれない。

「やめて……静かにして……お願いだから……」


 村全体が見えない何かに押し潰されるように騒然となった。


 門の前で、リシアは必死に声を張り上げた。

「み、みんな落ち着いて! これは幻じゃありません、でも――私たちが立ってます!」


 しかし笛の音は彼女の声をかき消すように響き続ける。

 心を乱し、膝を震わせ、希望を薄れさせる旋律。


 リシアの足もわずかに揺らいだ。

(怖い……でも、退けない!)


 オルフさんが静かに言った。

「リシア、耳で聞くな。心で受けるな。ただ立て」


「……はいっ!」

 彼女は目をぎゅっと閉じ、槍を胸に押し当てる。

 すると不思議と、少しだけ震えが収まった。


 その時――。

 笛の音に呼応するように、森の影がゆらめいた。

 黒いもやのような形が揺れ、夜風に流れる。


「っ……あれは……!」

 リシアが目を見開く。


「影か……。やはり来やがったか」

 オルフさんが槍を構えると同時に、影は村の方へとじわじわ迫ってきた。



 森の奥から漂う黒い影が、ゆらゆらと村の方へ近づいてきた。

 実体があるようでなく、松明の光に照らされるたびに輪郭が揺らぎ、煙のように広がっては収束する。


「な、なんだあれは……」

「幻か……? それとも、本物……?」


 村人たちが家の戸口から顔を出し、怯えた声をあげる。

 笛の音はなおも鳴り響き、心臓を鷲づかみにされるような不快な感覚を広げていた。


 子どもが泣き叫び、母親が必死に抱きしめる。

「いやぁ……やめて! もうやめてよ!」

 赤子の泣き声に、村人たちの恐怖はさらに膨らんでいく。


 若者兵団も駆けつけたが、足はすくみ、顔は青ざめていた。

「く、来るのか……?」

「な、なんだよあの影……剣で斬れるのか?」


 キースが震える声を振り絞る。

「お、俺たちも……門に立つんだ! オルフさんとリシアだけに任せちゃ駄目だ!」

 その叫びは勇気というより、恐怖に抗うための必死の声だった。


 だが村人たちの心はすぐには落ち着かない。

「無理だ! あんなの斬れるもんか!」

「家に隠れろ、子どもを守れ!」

「もう逃げ場なんて……!」


 混乱の声が夜に溢れ、村全体が不安でかき乱されていく。


 その時、村長が杖を突きながら門の前へ出てきた。

 老いた声でありながら、必死に叫ぶ。

「落ち着け! 騒ぐな! 怯えて逃げれば、それこそ狙われる!」


 しかし彼自身の手も震え、声はかすれていた。

 村人たちの恐怖を完全に止めることはできなかった。


 門の前で槍を構えるリシアは、震える声を押し殺しながら言葉を吐き出した。

「みんな……大丈夫です! 私がいます、オルフさんがいます! 絶対に……通させません!」


 その声は、まだ細く震えていた。

 だが、必死に立とうとする彼女の背中は、村人たちの目に強く映っていた。


 オルフさんはリシアの肩に手を置き、低く言った。

「恐怖は誰もが抱く。だが……立つかどうかは自分で決めろ」


 その言葉がリシアだけでなく、村人たちの胸にも響いた。


 それでもなお、笛の音は冷たく鳴り響き、村を揺さぶり続けていた。



 冷たい笛の音が夜空を震わせ続けていた。

 影のような魔物が門の手前で揺らめき、松明の光に滲んでは迫ってくる。

 村人たちは声を潜め、若者兵団ですら後退しかけていた。


 リシアの膝もわずかに震えている。

 喉が渇き、唇が乾ききって声が出にくい。

(怖い……でも、退きたくない……!)


 木槍を胸に抱え、彼女は必死に呼吸を整えた。


「オルフさん……わ、私……怖いです」

 震える声を絞り出す。


 だが、隣に立つおっさんは目を細めただけで、決して動じなかった。

「恐怖は当然だ。感じない奴はいない」


 リシアは思わず目を見開く。

「……でも、オルフさんは……」


「俺だって怖いさ」

 短い言葉。だが重い。

「だがな、恐怖を知ってこそ立てる。逃げても、恐怖は追いかけてくるだけだ」


 その言葉が胸を突き刺し、リシアは槍を握る手に力を込めた。

「……私、立ちます! どんなに怖くても……オルフさんと一緒に!」


 大きな声ではなかった。

 しかし、彼女の決意は確かに村人たちの耳に届いた。


 若者兵団の一人が息を呑み、拳を握った。

「……リシアが立つなら、俺たちも!」


 別の若者も叫ぶ。

「そうだ……怖くても通さぬ! 立つんだ!」


 震えながらも声を張り上げる姿に、村人たちの心にも火が灯り始めた。


 母親が子を抱きしめながら小さく呟いた。

「……通さぬ、か」

 その声に隣の父親が頷く。

「俺たちも、通さぬって言うべき時だな」


 小さな言葉が次々と重なり、やがて門前に広がった。

「通さぬぞ!」

「通さぬ!」

「通さぬんだ!」


 笛の音はなおも村を揺さぶっていた。

 だが、その上から村人たちの「通さぬ」の声が重なっていく。


 リシアの胸が熱くなった。

(私の声が……みんなに届いた……!)


 隣のオルフさんがわずかに頷き、低く呟いた。

「これでいい。恐怖に立ち向かうのは、一人じゃない」


 その言葉に、リシアは涙をこらえながら力強く頷いた。



 「ひゅぅぅぅ……」

 笛の音が一段と強くなった。

 その旋律に呼応するように、森の縁から黒いもやが次々と溢れ出してくる。


 煙のように形を変えながら、時折獣の姿に似て、また人の形を思わせる影。

 松明の炎に照らされると、一瞬だけ牙や爪が浮かび上がり、すぐに溶けるように揺らぐ。


「な、なんだあれは……!」

「化け物か!? 獣とも違う……!」


 村人たちの叫びが広がった。


 影はゆらゆらと漂いながらも、確実に門へと迫ってくる。

 足音はなく、風を切る気配だけが耳を刺す。

 その異様さが、かえって恐怖を煽った。


「来るぞ!」

 オルフさんが低く叫び、槍を突き出す。


 最前の影が襲いかかるように飛び込んできた。

 槍先が貫いた瞬間、影は煙のように散った。


「消えた……!?」

 リシアが目を見開く。


 だが安心する暇もなく、次の影が横から伸びてくる。

 獣の爪のような腕が、リシアの頬をかすめた。


「きゃっ!」


 すぐにオルフさんが体を割り込み、槍の柄で払い落とす。

「気を抜くな! 実体は薄いが、当たれば斬られる!」


「は、はいっ!」

 リシアは必死に槍を握り直し、影へ向けて突きを繰り出す。

 穂先が揺らめきを裂き、影が煙のように消える。


 その光景を見た村人たちがざわめいた。

「斬れるのか……!」

「幻じゃない! 本当に襲ってきてる!」


 恐怖に支配されかけた心に、わずかな勇気が芽生える。

 若者兵団のキースが声を張り上げた。

「俺たちもやれる! 槍を構えろ!」


 仲間たちが槍や棍棒を掲げ、震える声で応じる。

「通さぬ!」

「通さぬぞ!」


 影が一斉に飛びかかる。

 リシアは槍を大きく薙ぎ払い、二体をまとめて裂いた。

 その動きに呼応するように、若者たちも必死に棒や石を振るう。


 村人たちも農具を握り、松明を突き出して影を焼こうとした。

 炎に触れた影は悲鳴のような音をあげ、煙となって消える。


「いける……! 押し返せるぞ!」

「通さぬんだ、村には入れさせるな!」


 混乱していた声が、少しずつ力を帯びていく。

 それでも笛の音は止まらない。

 森の奥からは次々と影が現れ、門の前は修羅場と化していた。


 オルフさんは荒い息を吐きながらも槍を振るい、低く呟いた。

「これは……試しに過ぎん。本命はまだ来る」


 その言葉が、戦場に新たな緊張を走らせた。



 影の群れは次々と押し寄せてきた。

 煙のように形を変えながら、時に獣の牙をむき、時に人の手を伸ばす。

 松明の炎に照らされるたびに、ぞっとするような顔が浮かんでは溶けていく。


「ひっ……!」

 村人の誰かが腰を抜かしそうになる。


 その瞬間、リシアが震える声で叫んだ。

「だ、だいじょうぶ! こわくても……通さぬ!」


 彼女の木槍が影を突き裂き、煙が弾けて消える。

 その姿を見た子どもが小さな声をあげた。

「リシア姉ちゃん……!」


 村人たちの胸に、ほんの少し勇気が宿った。


「通さぬ……」

 誰かが呟いた。

 それは頼りない声だったが、確かに隣の心を揺らした。


 次の瞬間、別の男が叫ぶ。

「通さぬぞ!」


 女たちも農具を振り上げ、子を背に庇いながら声を重ねる。

「通さぬ!」

「通さぬんだ!」


 声が次々に広がり、夜の村に響き渡る。


 若者兵団も必死に槍を振るいながら叫んだ。

「俺たちだって立てる! 通さぬ!」

「通さぬぞ、影風情に!」


 その声は恐怖を振り払うための叫びだった。

 だが確かに、震える心を奮い立たせる力になっていた。


 笛の音がさらに強まる。

 その旋律は心を乱し、耳を裂くように響く。

 影の数も増し、村を覆うように押し寄せてきた。


「くっ……きりがない!」

 リシアが汗を飛ばしながら槍を薙ぎ払う。


 その隣でオルフさんが短く叫ぶ。

「声を絶やすな! 通さぬと叫び続けろ!」


 村人たちの声が、次第に合唱のように重なっていく。

「通さぬ!」

「通さぬ!」

「通さぬ!」


 その声が震える影を突き刺し、次々と霧散させていく。


 リシアの胸が熱くなった。

(私の声が……みんなの声が……影を退けてる!)


 子どもたちまで窓から顔を出し、小さな声で叫んでいた。

「通さぬー!」

「通さぬよー!」


 母親が慌てて子を抱き寄せたが、その声に大人たちは逆に奮い立った。


「守るんだ! この子たちを!」

「通さぬぞ!」


 焚き火の炎が大きく揺らぎ、影の群れを赤く照らす。


 オルフさんは槍を構え直し、短く吐き捨てた。

「これが……通さぬ村の力だ」


 その言葉とともに、リシアは力いっぱいに叫んだ。

「通さぬっ!」


 木槍が影を突き裂き、残る群れも煙のように霧散していった。



 門前に押し寄せていた影は、次々と煙のように消えていった。

 リシアが最後の一突きを放ち、木槍の穂先が虚空を裂く。

 耳を裂いていた笛の音も、やがて弱まり、夜の静寂が戻ってきた。


「はぁっ……はぁっ……」

 肩で息をしながら、リシアは震える手で槍を握り直す。

 汗が額を伝い、頬を濡らしていた。


 オルフさんも荒い息を吐きながら槍を杖代わりにし、門の前に立ち続けていた。

「……退いたな」


 村人たちはしばし沈黙し、次いで歓声をあげた。

「やった……! 本当に退けた!」

「通さぬって声が……俺たちの声が効いたんだ!」


 母親が子を抱きしめ、若者兵団が互いの肩を掴み合う。

 恐怖に縛られていた心は、今ようやく解き放たれたようだった。


 リシアは槍を胸に抱きしめ、涙をこらえながら呟いた。

「……守れた。みんなで……」


 だが、オルフさんの眼差しは森の奥に注がれたままだった。

 眉間に深い皺を刻み、低く言う。

「……これはまだ“挨拶”にすぎん」


 その声に、リシアの背筋が凍る。

「え……?」


「影だけ送り込むとは、遊んでいる。黒幕はまだ本気を出していない」


 その頃、森のさらに奥――。


 濃い霧が漂う岩場に、黒い外套をまとった男が立っていた。

 笛を下ろし、唇の端に不気味な笑みを浮かべる。


「……老兵と小娘ごときに、ここまで抗えるとはな」

 赤い瞳が闇の中で光る。


 男の足元には、鎖に繋がれた獣がうずくまっていた。

 人の二倍はある巨体。

 鎖を引くたびに、獣は唸り声を上げ、地面を爪で抉った。


「声で影を退けたか……愉快だ。

 ならば次は、その声を絶望で掻き消してやろう」


 フードの男は低く笑い、笛を再び持ち上げた。

 夜風に乗せて吹かれる旋律は、村に届くことはなかった。

 だが、それが次なる試練の前触れであることを告げていた。


 村の門前。

 歓声に包まれる人々の中で、オルフさんだけは背筋を張り、森の奥を睨み続けていた。

「……まだだ。これからが本番だ」


 リシアもその隣で槍を握り、震える声で呟いた。

「……私も立ちます。オルフさんと一緒に」


 夜空を焦がす焚き火の炎が二人の影を長く伸ばし、迫る恐怖の中でも確かな決意を照らしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ