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第12話 残党の牙

 夜が明けた。

 村の上空は薄い雲に覆われ、朝靄が漂っている。

 血と獣の匂いがまだ門前に残っており、地面には深い爪痕と、真新しい赤黒い染みが点々と広がっていた。


 村人たちはすでに動き始めていた。

 男たちは門の柱を支え直し、女たちは水を汲んで血の跡を洗い流す。

 子どもたちはまだ眠そうな目をこすりながら、母の裾にしがみついて門を遠巻きに見ていた。


「傷は浅いぞ。縄で縛って補強すれば、今夜は持つだろう」

「ふぅ……これで少しは安心できるか」


 疲労に声をかすれさせながらも、人々の顔には昨夜より確かな落ち着きがあった。

 生き延びたという実感が、彼らを動かしていた。


 だが一人だけ、安堵していない者がいた。


 門の前に立つオルフさんは、血のにじむ肩を包帯で押さえつつ、ずっと森の奥を睨んでいた。

 焚き火の残り火が赤々と揺れる中で、その横顔は険しい。


「オルフさん……」

 リシアがおずおずと声をかける。

 夜通しの疲労で瞼は重いはずなのに、彼女はまだ木槍を手放していなかった。


「もう、大丈夫ですよね。だって、獣は退けたんですから……」


 声に安堵をにじませるリシアに、オルフさんは首を振った。


「……油断はするな。あれは終わりじゃない」


 リシアは思わず言葉を失った。

「え……でも……」


「獣の動きは自然じゃなかった。あれは、ただ暴れていたんじゃない。

 まるで……何かに追い立てられていたようだった」


 静かな言葉が、冷たい朝の空気に溶けた。


 門の修復にあたっていた村人が会話を耳にして、不安そうに顔を上げる。

「オルフさん、それは……つまり……」


 おっさんは短く答える。

「森の奥に、まだ“何か”がいる」


 その一言に、場の空気が固まった。

 作業していた男たちの手が止まり、女たちは水桶を抱えたまま顔を見合わせた。


 リシアの胸がざわついた。

 昨夜の恐怖が再び蘇る。

 喉が渇き、手が汗で湿る。


(また……来るの? あんな恐ろしい獣が……)


 それでも彼女は木槍を握り直し、小さく呟いた。

「……なら、私も立ちます。オルフさんと一緒に」


 その言葉に、オルフさんはちらりと横目を向け、短く頷いた。


 朝の光は少しずつ強さを増していた。

 だが門前に漂う空気は晴れず、むしろ新たな嵐の前触れのように重くなっていた。



 昼前、若者兵団の数人が槍や松明を手に、森の手前を見回っていた。

 昨夜の獣が退いたといっても、森の奥からはまだ冷たい気配が漂っていたからだ。


「血の跡は、こっちに続いてるな」

 ハルドが腰を屈め、地面に残る赤黒い染みを指さす。

 爪痕や引きずられた跡もあり、獣が森へ戻ったことは明らかだった。


「傷は深かったはずだ。そう遠くには行けないだろう」

「なら、いっそ今のうちに仕留めに行くか?」


 誰かが口にした途端、別の若者が慌てて制した。

「馬鹿言うな! 昨夜の相手を忘れたのか。

 オルフさんとリシアがいなけりゃ、俺たち全員食われてたんだぞ」


 重苦しい沈黙が森に落ちる。


 そのとき、ハルドがふと眉をひそめた。

「……待て。これは……」


 彼の指先が示すのは、血痕のすぐ横に並ぶ跡だった。

 泥に深く沈んだ、靴の形。

 獣の足跡に重なるように、明らかに“人の足”が刻まれている。


「人間……の足跡だ」


 若者たちが一斉に顔を見合わせる。

「なんで獣の横に……?」

「まさか、誰かが一緒にいたのか?」


 ハルドは険しい顔つきで頷いた。

「昨夜の獣は、ただの野生じゃなかった。

 あの動き、まるで操られているようだった……。

 この足跡が証拠だ。誰かが裏にいる」


 その言葉に、兵団の中に冷たい戦慄が走った。


「じゃあ……獣はまだ来るのか?」

「誰かがまた仕向ければ……」


 不安のざわめきが広がる。

 キースは顔を青ざめさせながらも、唇を噛んだ。

「……笑ってた俺たちが知らなかっただけで、戦いはもっと根深いんだな」


 その頃、門の前ではリシアが村人に水を運んでいた。

 彼女の視線の先には、やはり森の奥を見据えるオルフさんの姿があった。


(オルフさんは……きっともう気づいてるんだ。

 昨夜の戦いは、ただの始まりだって)


 不安と誇りを胸に抱きながら、リシアは木槍を強く握りしめた。


 森の奥で鳥が一斉に飛び立ち、不気味な沈黙が広がる。

 その下に残された足跡は、次なる脅威の証のようにくっきりと刻まれていた。



 昼下がり、村の外れから女の悲鳴が上がった。

「きゃああっ!」


 その声に、村人たちが慌てて駆けつける。

 鶏小屋の扉は引き裂かれたように壊され、中は羽が散乱していた。

 怯えた鶏が隅に固まり、数羽は血を流して倒れている。


「なんだ、こりゃ……」

「昨夜の獣が戻ってきたのか……?」


 ざわめきが広がる中、男の一人が家畜小屋から駆け出してきた。

「馬が傷を負ってる! 脇腹に爪痕が……!」


 人々の顔が一斉に青ざめる。


 リシアも駆けつけ、荒らされた小屋を見て息を呑んだ。

(……まだ、終わってない)


 胸の奥が冷たく締めつけられる。

 握った木槍に汗がにじむ。


 その後ろからオルフさんがゆっくりと歩み出てきた。

 鋭い眼で傷跡を見回し、低く言った。

「昨夜の大獣じゃない。爪の幅が狭い。別のやつだ」


「べ、別……?」

 リシアが震える声で問い返す。


「残党だ。まだ森の奥に潜んでやがる」


 村人たちがざわついた。

「じゃあ、また襲ってくるのか……?」

「門を壊されたら、今度こそ……」


 恐怖に声を震わせる者、子を抱きしめて泣く者。

 不安が一気に広がっていく。


 だが、若者兵団のハルドが前に出た。

「怯えるな! オルフさんとリシアは昨夜あれを退けたんだ。

 俺たちも加われば、残党ぐらいどうにかできる!」


 その言葉に、村人たちの目がわずかに揺れる。

 キースも唇を噛みしめながら叫んだ。

「そうだ……今度は俺たちも立つ! 昨日のままじゃ終われない!」


 リシアは彼らの言葉に胸を震わせた。

(みんな……昨日の恐怖を乗り越えようとしてる……!)


 だが、オルフさんの声は冷徹だった。

「残党といっても油断するな。むしろ厄介だ」


「え……?」

 若者兵団が目を見開く。


「大獣に従っていたやつらだ。主を失った分、今度は好き勝手に暴れる」


 その言葉に、村人たちの背筋が再び凍りついた。


 森の方から、かすかな遠吠えが聞こえてきた。

 昼だというのに、不気味な声が風に乗って響く。

 村人たちの視線が一斉に門へ集まった。


「また……来る」


 誰かが小さく呟いたその言葉は、村全体の不安を代弁していた。


 リシアは木槍を握り、オルフさんの隣に立った。

(残党でも、何でも……もう退かない。私は立ち続ける!)



 午後、村人たちが修復作業に追われる中、オルフさんとリシアは槍を携え、森の手前を巡回していた。

 木々の影は濃く、ひんやりとした風が吹き抜けるたびに、葉擦れの音が不気味に響く。


「……静かすぎますね」

 リシアが周囲を見回しながら小声でつぶやく。


「だからこそ怖い。獣が潜んでるときほど、森は静かになるもんだ」

 オルフさんの低い声が返る。


 リシアは背筋を正し、槍を握る手に力を込めた。


 昨夜の戦いが脳裏に蘇る。

 あの巨大な獣に立ち向かったときの恐怖。

 それでも「通さぬ」と叫んだ自分。

 村人たちの感謝と、子どもたちの「通さぬ姉ちゃん」という呼び名。


(誇らしかった……でも同時に、怖かった。あの時の震えは、まだ体に残ってる)


「リシア」

 不意にオルフさんが口を開いた。


「はいっ!」

 慌てて姿勢を正すと、彼は森の奥を見据えたまま言葉を続けた。


「誇りを持つのはいいことだ。だが慢心は死を呼ぶ」


 リシアは思わず息を呑む。

「……わかってます。でも、私……もう退きたくありません」


 その声は震えていたが、眼差しは真っ直ぐだった。


 オルフさんはしばらく無言で彼女を見ていた。

 やがて口の端をわずかに上げ、低く笑う。


「ふん。いい目だ。震えていても構わん。

 それでも立つと決めたなら――それで十分だ」


「オルフさん……!」


 胸が熱くなり、リシアは思わず木槍を強く抱きしめた。


 その時、森の奥で枝が折れる音が響いた。

 リシアの心臓が跳ね上がる。

「……今、音が……」


「聞こえた」

 オルフさんは槍を構え、前に一歩進んだ。

 リシアも息を呑み、隣に並ぶ。


 森の影は濃く、何かが潜んでいる気配があった。

 師弟の巡回は、次の戦いの予兆に変わりつつあった。



 森の奥で枝が弾けるような音がした。

 リシアが息を呑む間もなく、茂みを割って影が飛び出した。


「きゃっ!」


 二体の小型獣――昨夜の大獣よりは小さいが、背丈は人と同じほど。

 黒い毛並みを逆立て、赤い眼をぎらつかせていた。


「残党か……!」

 オルフさんが低く唸り、槍を構える。


 小型獣は四足から二足に変じ、まるで人のような素早さで迫ってきた。

 ひとつはリシアめがけて飛びかかる。

 もうひとつはオルフさんの側面を狙い、牙をむき出しにした。


「来るぞ!」


「は、はいっ!」


 リシアは木槍を突き出した。

 だが獣の動きは速く、槍先をすり抜けて肩を掠める。

 鋭い痛みが走り、リシアは小さく悲鳴をあげた。


 その隙に、もう一体がオルフさんへ飛びかかる。

 槍の柄で受け止めると、牙がギリギリと木を噛んだ。

「ぬっ……!」

 腕に重い衝撃が伝わり、膝が沈む。


 しかしオルフさんは怯まず、体を捻って獣の腹を突き上げた。

 鈍い音とともに、獣が呻き声をあげて転がる。


 リシアは必死に木槍を握り直した。

(震えてる場合じゃない! オルフさんの隣で、立たなきゃ!)


 飛びかかってきたもう一体を、彼女は大きく息を吸って迎え撃った。

「通さぬっ!」


 叫びとともに、木槍を真っ直ぐ突き出す。

 穂先が獣の肩を貫き、黒い毛並みを裂いた。


「ギャアッ!」


 血が飛び散り、獣が後退する。

 リシアの腕は痺れていたが、決して槍を離さなかった。


「よくやった!」

 オルフさんの声が飛ぶ。


 彼は倒れかけた獣にとどめを刺そうと踏み込む。

 だがもう一体が背後から飛びついた。

「しまっ――」


「させません!」


 リシアが横から体当たりをかけ、獣の突進を逸らす。

 その隙にオルフさんの槍が鋭く突き上がり、獣の腹を抉った。


 残る一体は肩を押さえて唸り声をあげる。

 赤い眼がギラつき、森の奥へと後退していった。


 リシアは荒い息を吐きながらも、木槍を構えたまま立ち続ける。

「オルフさん……まだ、来ますか……?」


 おっさんは血のついた槍を振り払い、森を睨んだ。

「……いや。引いたな。だが――」


 言葉を切った直後、不気味な音が森に響いた。



 森の奥から、低く長い音が響いてきた。

 それは風ではなかった。

 笛――不気味で冷たい音色が、木々を伝って耳に届く。


「……笛の音?」

 リシアが青ざめた顔で振り返る。


 その瞬間、傷を負った小型獣が反応した。

 赤い眼がぎらりと光り、苦しげに呻きながらも、まるで糸で操られるかのように立ち上がる。


「嘘……まだ動けるの!?」


「いや、違う」

 オルフさんが槍を構え直し、鋭く睨んだ。

「操られているんだ」


 笛の音に従うように、小型獣はオルフさんとリシアから距離を取り、森の奥へと後退していく。

 よろめきながらも決して倒れず、やがて茂みの中に消えた。


 リシアは槍を握りしめ、震える声を漏らす。

「やっぱり……誰かが裏で……」


 おっさんは深く頷いた。

「昨夜の大獣もそうだった。あれは自然の獣じゃない。

 森の奥に、獣を操る黒幕がいる」


 二人はしばらくその場に立ち尽くした。

 森は再び静寂を取り戻したが、その沈黙は決して安らぎではなく、不気味さを増すばかりだった。


 リシアは呼吸を整えながら、恐る恐る問いかける。

「もし……またあんな大きな獣を操られたら……村は……」


「だからこそ、油断はできん」

 オルフさんはきっぱりと言い切った。

「恐怖を煽って、村を壊すつもりだろう。だが――通さぬ」


 その言葉に、リシアの胸が震える。

「……私も。どんな相手でも、通させません!」


 木槍を握る手に力を込め、彼女は隣に立った。

 その瞳には恐怖と同じくらいの強い決意が宿っていた。


 森のさらに奥――。


 濃い霧に覆われた岩場で、フードを被った男が笛を下ろしていた。

 口元に浮かぶのは、嘲笑のような笑み。


「門を守る老兵と小娘か……面白い。

 ならば次は、もっと深い絶望を与えてやろう」


 鎖の先で、さらに巨大な影がうねり声をあげた。

 黒幕の企みは、すでに次の一手を準備していた。



 夕暮れ。

 森から戻ったオルフさんとリシアを、村人たちが門前で迎えた。

 その顔は不安に揺れている。


「どうだった? 獣は退けたのか?」

「もう大丈夫なんだろう?」


 期待と恐怖の入り混じった声が次々に投げかけられる。

 だがオルフさんは首を横に振った。


「……残党を見た。小型の獣が二体。そして、操られていた」


 その一言に、空気が凍りついた。


「操られて……?」

 村長が杖をつきながら一歩前に出る。


「森の奥に黒幕がいる。笛の音で獣を従わせていた。

 昨夜の大獣も、今日の残党も……すべて人の仕業だ」


 重い言葉が、村人たちの心臓を直に叩いた。


「じゃあ……また来るのか……?」

「次はもっと大きな獣を……?」


 女たちが子を抱きしめ、男たちが顔を青ざめさせる。

 昼間の安堵は一瞬で霧散し、再び恐怖が村を覆った。


 しかしその沈黙を破ったのは、若者兵団のキースだった。

「だったら……今度は俺たちも一緒に立ちます!」


 その声に、仲間たちが次々と続く。

「そうだ……笑ってた俺たちが恥ずかしい。

 オルフさんやリシアに任せきりじゃなく、俺たちも通さぬ!」


 まだ声は震えていたが、その眼は確かに決意を帯びていた。


 リシアは胸が熱くなるのを感じた。

(みんな……恐怖に震えながらも、今度は立つって……!)


 隣でオルフさんは腕を組み、低く言った。

「口だけなら何とでも言える。だが立つと決めたなら、背を向けるな」


「はい!」

 若者兵団の声が一斉に響いた。


 その時だった。

 森の奥から、遠く不気味な遠吠えが響いた。

 夕闇に溶け、村全体を震わせるような長い咆哮。


「ひっ……!」

 誰かが声を漏らす。

 子どもが泣き出し、母親が必死に抱きしめた。


 リシアは木槍を胸に抱きしめ、震える声で呟いた。

「……来る。まだ、終わってない」


 オルフさんも森を睨みつけ、ただ一言を吐き捨てた。

「通さぬ」


 安堵の火が灯ったはずの村に、再び冷たい恐怖の影が忍び寄っていた。

 それは、次なる戦いの始まりを告げる合図だった。

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