第11話 村に灯る火
東の空が白み始めた。
長い夜がようやく終わりを告げ、村には薄い朝靄が降りていた。
門の前には獣が残した爪痕と血が生々しく刻まれており、土は抉れ、木の柱は軋んだままだ。
それでも――村はまだ立っていた。
リシアは木槍を胸に抱きしめたまま、呆然と立ち尽くしていた。
全身が痛い。腕も、足も、震えが止まらない。
だが、不思議なことに胸の奥だけは温かく満たされていた。
(私……本当に、戦ったんだ……)
昨夜の恐怖と怒号、そして血の匂いがまだ体に染みついている。
それでも「生きている」という実感が強く胸を打った。
隣では、オルフさんが槍を突き立て、血に濡れた肩を押さえていた。
顔色は悪いが、その背は変わらず真っ直ぐに伸びている。
膝が折れそうになっても、まだ門から一歩も退いてはいなかった。
「オルフさん……」
リシアは思わず声を漏らす。
「ん……」
短い返事。
それだけで、まだ生きていると分かり、胸が熱くなる。
門の周囲に人影が集まり始めた。
夜明けとともに村人たちが外へ出てきたのだ。
眠れぬ夜を過ごした顔は皆疲れていたが、その眼には確かな光が宿っていた。
「守れたんだな……」
「獣を退けたんだ……」
「まだ村は……生きてる」
小さな声が次々に漏れ、やがて安堵のざわめきへと変わっていく。
母親が子を抱きしめ、涙を流していた。
「よかった……本当に守られたんだ……」
その背後では、男衆が互いに肩を叩き合いながら「立ってたのは俺たちじゃなくて、あの二人だな」と苦笑している。
子どもたちも眠い目をこすりながら外へ出てきた。
獣の血痕を見て怯える子もいたが、やがてリシアの姿を見つけて叫んだ。
「通さぬ姉ちゃんだ!」
「ほんとに通さなかったんだ!」
その声に、リシアは顔を赤らめ、槍を抱きしめたまま俯いた。
夜を越えたばかりの村は疲労に包まれていた。
けれど、その空気の底には確かな誇りが芽生えていた。
傷だらけの門、血に濡れた地面。
それでも今ここに立つ二人の影――オルフさんとリシア――は、村にとって新しい象徴となり始めていた。
(立ち続けることが……こんなに強いことなんだ……)
リシアは朝靄の中で静かに息を吐いた。
戦いは終わった。
だが、新しい一日が始まろうとしていた。
朝靄の中、村人たちが門の前に集まり始めた。
夜を震えて過ごした顔は皆疲れていたが、その眼には涙と光が混じっていた。
「……守れたんだな」
「生きて、朝を迎えられた……」
誰かがそう呟いた瞬間、抑えていた感情が堰を切ったように溢れ出した。
母親たちが子を抱きしめながら、涙声で駆け寄る。
「本当にありがとう……あの子を守ってくれて……!」
「もしオルフさんがいなければ、私たちは……」
小さな手を握ったまま頭を下げる姿に、リシアの胸が熱くなる。
「い、いえ……私なんか……」
うつむく彼女の肩に、子どもがしがみついた。
「リシア姉ちゃん、こわかったけど……立ってくれてありがとう!」
その言葉に、リシアの頬が赤く染まり、思わず木槍を抱きしめた。
老人たちも杖をつきながら前に出る。
「わしらは……笑ってすまなかった」
「“立ってるだけ”なんて笑ったが、あれこそ本物の力だったんだな」
深く頭を下げる姿に、オルフさんは苦笑を浮かべた。
「……俺は、本当に立ってただけだ」
その言葉に、老人たちはさらに首を振り、
「その立ち続けることが、どれだけ重いことか……ようやく分かった」
と涙ながらに言った。
商人や農夫たちも口々に声をかける。
「俺の家族を守ってくれた。礼を言う」
「門を守るってのは、こういうことだったんだな」
その輪の中で、リシアにも感謝の声が向けられる。
「リシア、よくやったな!」
「女だからって侮って悪かった。お前は立派な門の守り手だ」
「わ、私……そんな、大したこと……」
言葉に詰まるリシア。
けれど胸の奥がじんわりと温かくなり、涙が零れそうになる。
村全体に広がる感謝の声。
それは恐怖に覆われた夜を、少しずつ温かな光へと変えていった。
オルフさんは血に濡れた肩を押さえながらも、村人の声を静かに聞いていた。
彼の目はわずかに細められ、長い年月でこわばった心が少しだけほどけたようだった。
リシアはふと隣を見上げる。
「……オルフさん。みんなが、こんなに……」
「ふん。人は勝手なものだ。昨日まで笑っていたのにな」
そう言いながらも、声はどこか柔らかかった。
「でも……その笑いを、感謝に変えたのはオルフさんです!」
リシアの言葉に、オルフさんは答えず、ただ前を見据えた。
その背は血に濡れていても、やはり大きく揺らぎなかった。
朝の光が強まり、村全体が温もりを取り戻していく。
感謝の声はやがて合唱のように広がり、戦いの夜を過ごした者すべての胸を満たしていった。
村人たちの感謝の声が次々にリシアの耳に届いていた。
「リシア、本当にありがとう!」
「お前がいなければ、オルフさん一人じゃ危なかったかもしれない」
「昨日まで子どもに混じって笑ってた娘が、今は立派な戦士だ」
その言葉に、リシアは真っ赤になり、木槍を胸に抱きしめた。
「わ、私なんか……まだ全然、何もできてなくて……」
小さな声で否定するが、村人たちは笑って首を振る。
「いや、お前は立ってた。それで十分だ」
「“通さぬ”って言ってくれただろう? あれが俺たちにどれだけ勇気をくれたか」
リシアの胸がじんと熱くなる。
(私……本当に、役に立てたんだ……)
昨日まで、若者兵団にからかわれた。
「女に槍なんか似合わない」「通さぬ? 笑わせるな」
その言葉を思い出すたび、悔しさで眠れない夜もあった。
でも今――村人たちの視線は違う。
嘲笑ではなく、確かな敬意と感謝。
子どもたちが駆け寄ってきて、リシアの裾を掴む。
「リシア姉ちゃん、こわかったでしょ?」
「でも立ってくれたんだよね!」
「だから僕たち、泣かなかったんだ!」
「え……えへへ……」
リシアは戸惑いながらも笑みをこぼした。
子どもたちの瞳がまっすぐで、その言葉が胸に深く突き刺さる。
(私の“立つ”って決意が……誰かを守れたんだ……!)
その実感に涙が込み上げる。
震える指で目元を拭いながら、小さく呟いた。
「……私、もっと強くならなきゃ」
オルフさんの隣に立つなら、恐怖で震えるだけじゃ駄目だ。
村人の期待に応えるなら、まだまだ槍を振るわなければ。
そんな彼女の背に、村の老婆が声をかけた。
「照れることはないさね。あんたはもう、門を守る娘になったんだよ」
「嫁入り修行よりも、“通さぬ修行”だねぇ」
周囲にくすくすと笑いが広がる。
リシアは慌てて両手を振り、「そ、そんなことありません!」と叫んだ。
しかしその顔は誇らしげに赤く染まっていた。
村人たちの笑いと感謝が混じり合い、重苦しかった空気が温かく変わっていく。
リシアは胸の奥で強く思った。
(昨日までの私は笑われるだけの娘だった。
でも今は違う。私は――“通さぬ”と立つ弟子なんだ!)
その思いは、まだ小さな芽かもしれない。
だが確かに、誇りとして彼女の胸に根を下ろし始めていた。
村人たちの感謝の声が門前を満たす中、少し離れた場所で若者兵団の面々が立ち尽くしていた。
松明を握る手は震え、顔には複雑な影が落ちている。
「……なぁ」
誰よりも口数の多かったキースが、重い声を漏らした。
「俺たち、昨日まであのおっさんを笑ってたよな」
「“立ってるだけの門番”だってな」
別の若者が苦い顔で答える。
「でも、立ってたのは俺たちじゃない」
ハルドが低く言い放つ。
「立ってたのは、オルフさんで……リシアだった」
その言葉に、全員が俯いた。
夜の戦いを思い返す。
血を流しながらも一歩も退かず門を守り続けたおっさん。
震えながらも「通さぬ」と叫び、獣に槍を突き立てたリシア。
その姿を目の当たりにした自分たちは――ただ遠くで震えていただけだった。
「……情けねぇよな、俺たち」
キースが歯噛みするように呟いた。
彼らは意を決し、門の前へ進み出た。
オルフさんとリシアの前で、誰からともなく頭を下げる。
「……すまなかった!」
突然の謝罪に、リシアは目を丸くした。
「えっ……?」
ハルドが真っ直ぐに顔を上げる。
「昨日まで笑ってた。けど、俺たちは間違ってた。
本当に立つってことが、どういう意味か……今日でわかった」
キースも唇を噛みながら続ける。
「俺……正直悔しい。女のお前が、先に獣に槍を当てたなんて……でも、それが現実だ。
リシア、お前は俺たちより強かった」
その言葉にリシアは頬を赤らめ、木槍を握り直す。
「そ、そんな……私だって怖かったんです。でも……オルフさんが隣にいたから……!」
オルフさんはしばらく黙って二人を見ていた。
やがて低く言葉を吐く。
「立てるなら、立て。笑っていたことなどどうでもいい。
次はお前たちが立つ番だ」
その言葉に若者兵団は顔を上げ、拳を握った。
「はい!」
「次は一緒に立ちます!」
そのやり取りを見ていた村人たちも胸を熱くした。
昨夜の戦いは、笑いと軽蔑で分断されていた村を、一歩だけ前に進ませたのだ。
リシアは胸の奥に小さな誇りを抱いた。
(オルフさんと一緒に立てたから……私はもう、笑われるだけの娘じゃないんだ)
門前の血の匂いはまだ濃く残っていた。
それでも村人たちは手際よく残骸を片付け、代わりに焚き火を起こし始めた。
湿った薪に火が移り、ぱちぱちと音を立てて炎が夜明けを照らす。
その赤い光は、不思議と心を安らげてくれた。
「スープを持ってきたよ!」
女衆が大鍋を抱えて現れた。
野菜と干し肉を煮込んだだけの粗末な料理だが、立ち込める匂いは戦いで冷え切った体を温めるには十分だった。
木の椀に次々とスープがよそわれ、村人の手に渡っていく。
リシアも慌てて配膳を手伝った。
「どうぞ! はい、こっちにも!」
汗を拭いながら笑顔を見せると、子どもたちが彼女の裾を引っ張った。
「通さぬ姉ちゃん! 一緒に食べよ!」
「お椀、落とさないでね!」
その無邪気な声に、リシアは思わず吹き出した。
「はいはい、落としませんよ!」
疲れ果てた村人たちが焚き火を囲み、スープをすすりながら互いの無事を確かめ合う。
涙ぐむ者もいれば、笑って肩を叩く者もいた。
昨夜までの恐怖が、ゆっくりと温もりに変わっていく。
オルフさんの手にも椀が差し出された。
「オルフさん、これを……」
「ふん……ありがたくもらうか」
ぐいと口をつけた途端――。
「熱っ……!」
思わず顔をしかめて呻いた声に、周囲の村人たちが一斉に笑い声をあげた。
「ははっ、獣には立ち向かえても、スープの熱さには勝てないのか!」
「門番さんでも火傷はするんだな!」
焚き火の周りが一気に明るくなり、笑いが弾けた。
リシアもつられて笑いながら、心の奥がぽかぽかと温かくなるのを感じた。
その光景を見ていた子どもが小声で囁く。
「ねぇ、もう怖くないね」
「うん、だって“通さぬ姉ちゃん”とオルフさんがいるから」
その言葉に、リシアは胸が熱くなり、槍をぎゅっと抱きしめた。
血の匂いと焚き火の匂いが混じる中で、村には確かに火が灯っていた。
それはただの炎ではなく、
――守られた命と、繋がれた心の象徴だった。
焚き火の炎がゆらゆらと揺れ、夜明けの冷たい空気を追い払っていた。
村人たちはスープを分け合い、疲れ切った顔に少しずつ笑みを取り戻している。
その輪から少し外れた場所で、オルフさんとリシアは肩を並べて座っていた。
「ふぅ……」
リシアは木椀を両手で抱え、熱いスープをひと口すする。
じんわりと体の芯まで温かさが広がり、思わず息を漏らした。
「こんなに……おいしく感じるのは初めてです」
小さく笑うと、横で槍を抱えたままのオルフさんが鼻を鳴らす。
「戦った後の飯は、格別だ」
ぶっきらぼうな声だが、不思議と優しさが滲んでいた。
リシアはふと、血に濡れたオルフさんの肩に目をやった。
「……痛くないんですか?」
「痛いに決まってる。だが、立ってる間は気にする暇もなかった」
そう言って笑う顔に、リシアの胸が熱くなる。
「オルフさん……本当に、すごかったです。あんなに血を流しても、一歩も退かなくて……」
「すごくなんかない。ただの意地だ」
「でも……その意地が村を守ったんです!」
言葉が熱を帯び、リシアは思わず拳を握った。
オルフさんはしばし黙って彼女を見つめ、やがて短く言った。
「お前もよくやった」
「……え?」
「震えても、泣きそうでも、立っていた。それが何より大事だ」
その一言に、リシアの目から涙があふれそうになった。
「オルフさん……ありがとうございます!」
「だが、まだまだ甘い」
オルフさんはわざと険しい声で続ける。
「獣を相手にしたら、次はもっと早く動け。肩の沈みを見逃すな」
「は、はいっ! 次はもっと早く突けるようにします!」
「よし。それでいい」
不器用な師の言葉に、リシアは大きく頷いた。
涙で濡れた頬に、いつの間にか笑みが宿っていた。
焚き火の明かりが二人を照らす。
リシアは槍を抱きしめながら、静かに誓った。
「私、これからも隣で立ちます。
オルフさんと一緒に、“通さぬ”って言い続けます!」
その声に、オルフさんはわずかに口元を緩め、焚き火を見つめたまま呟いた。
「……好きにしろ。弟子を持つのも悪くない」
戦いの余韻と、火の温もり。
村に笑い声が戻る中で、師弟の絆は確かに強まっていた。
焚き火の炎は夜明けとともにゆらめき、村に温もりをもたらしていた。
子どもたちは眠たげに母の腕に抱かれ、男衆は血の跡を掃き、女衆は壊れた門の補修に取りかかる。
皆が疲れていたが、その顔には確かに笑みがあった。
「オルフさんとリシアのおかげだ」
「俺たちも一緒に立てば、きっともっと強くなる」
そんな声が自然に交わされ、村は一つの火を囲むように団結していた。
リシアは木槍を膝の上に置き、焚き火を見つめていた。
ぼんやりと橙色の火が瞳に映る。
疲労で体は重く、今にも眠りに落ちそうだったが、胸の奥は不思議なほど澄みきっていた。
(私……本当に立てたんだ。オルフさんと一緒に)
頬が赤く熱くなる。
それは火のせいだけではなかった。
オルフさんは血に濡れた肩を押さえながら、門の奥の森をじっと見ていた。
その表情は険しい。
村人たちが安堵の声を上げる中でも、ただ一人、緊張を解いていなかった。
「……まだ終わっちゃいねぇ」
低い呟きがリシアの耳に届いた。
「オルフさん……?」
「森の奥に、気配がある。あの獣は“放たれた”ものだ。必ず黒幕がいる」
リシアは槍を握り直し、背筋を震わせた。
そのころ、森のさらに奥――。
霧に覆われた岩場に、黒い外套の男が立っていた。
深くフードをかぶり、赤い瞳が僅かに光る。
「門番一人と、その弟子ごときに、ここまで手を焼かされるとはな」
低く笑いながら、地面に繋がれた鎖を引いた。
鎖の先で、もう一体の獣がうなり声をあげる。
先ほどよりも一回り大きな影。
その咆哮は森を震わせ、鳥たちを飛び立たせた。
「次は……もっと深い恐怖をくれてやろう」
村の焚き火がぱちりと弾け、橙色の火花が夜明けの空に散る。
安堵の笑顔を見せる人々の中で、ただ二人――オルフさんとリシアの心だけが、森の奥から漂う不穏な気配を捉えていた。
「……通さぬ」
オルフさんの低い声が、火の揺らぎに溶けて消える。
その隣でリシアも、木槍を胸に抱きしめた。
(どんな相手が来ても……私は、オルフさんと一緒に立つ!)
こうして村に灯った火は、温もりと希望をもたらした。
だが同時に、次なる闇を引き寄せる光でもあった――。