第10話 血と誇り
夜を裂くように、獣が咆哮を上げた。
その声は空気を震わせ、松明の炎を大きく揺らした。
村人たちは耳を塞ぎながらも、恐怖に縛られて動けない。
「グオォォォォッ!!」
黒い巨体が地を蹴り、門へと突進した。
その速さは先ほどまでの比ではない。
爪が地面を抉り、石が弾け飛び、夜気が圧力で震えた。
「来るぞ!」
オルフさんが短く叫び、槍を低く構える。
衝撃。
獣の爪が振り下ろされ、槍の穂先と激突した。
火花が散り、耳をつんざく金属音が夜空に響く。
「ぐっ……!」
オルフさんの肩が沈み、全身に衝撃が走った。
地面が抉れ、門の柱が軋む。
すかさず獣は牙を剥き、横から噛みついてくる。
オルフさんは槍を横に薙ぎ、辛うじて受け止めた。
だが牙と槍が擦れ合い、きしむ音が耳を打つ。
「オルフさん!」
リシアが叫び、木槍を突き出す。
しかし獣の分厚い毛皮に弾かれ、浅い傷しか与えられなかった。
「くっ……効かない……!」
獣は反撃とばかりに巨体を揺さぶり、尾で地面を薙ぎ払った。
その一撃で土煙が爆ぜ、リシアの体が弾き飛ばされそうになる。
必死に踏みとどまり、木槍を支えに膝をついた。
(すごい……これが本気の獣……!)
震える足を必死に立たせ、再び前に出る。
だが、その迫力に心臓が喉までせり上がっていた。
オルフさんは歯を食いしばり、獣の爪を受け止める。
その腕は痺れ、筋肉が悲鳴を上げていた。
「ぬおおッ!」
全身の力を込め、なんとか押し返す。
だが獣の連撃は止まらない。
爪、牙、体当たり――まるで暴風のように押し寄せる。
村人たちはその光景に顔を覆った。
「オルフさんが……押されてる……!」
「もう駄目だ……門が壊れる!」
悲鳴が夜を満たす。
絶望の声が、まるで戦場を覆い尽くす霧のように広がった。
リシアはその声に唇を噛んだ。
「……違う! まだ……まだ立ってる!」
恐怖で足は震えていた。
だが、横で踏みとどまるオルフさんの背中が、その震えを押し返してくれた。
(オルフさんは……一歩も退かない。だったら私も……!)
木槍を握り直し、再び門の前に立った。
その時――獣が一際大きく咆哮し、全身を沈めた。
爪が土を抉り、次の一撃に全てを込めようとしている。
「来る……!」
リシアの声が震える。
「怯むな、リシア!」
オルフさんの声が夜を裂いた。
二人は並んで槍を構えた。
次の瞬間、獣の巨体が門を狙って突進した。
獣の巨体が門を狙って突進した。
その勢いは嵐のごとく、爪が地を抉り、門の柱が軋む。
「ぬおおッ!」
オルフさんが槍を突き出し、全身で衝撃を受け止めた。
火花が散り、地面が爆ぜる。
だが――次の瞬間、鋭い爪が横から走った。
「ッ――!」
避けきれなかった。
爪がオルフさんの肩を裂き、鮮血が飛び散った。
赤い飛沫が夜空に舞い、松明の光に照らされて煌めく。
「オルフさんっ!」
リシアの悲鳴が門前に響いた。
血が鎧を濡らし、滴が土を赤く染める。
オルフさんの顔が苦痛に歪み、膝が一瞬沈んだ。
村人たちの声がどよめきに変わる。
「血が……!」
「オルフさんが……斬られた……!」
「もう駄目だ、あれじゃ立てない!」
悲鳴と絶望が次々にあがり、空気が重く淀む。
中には泣き叫びながら家に引きこもる者もいた。
「終わりだ……村は滅ぶ……!」
リシアはその声に胸を突き刺された。
(違う……終わってなんかない! オルフさんは……まだ!)
視界が滲む。
涙が零れそうになりながらも、必死に木槍を握りしめた。
オルフさんは血に濡れた肩を押さえながら、荒い息を吐いた。
だが、その背筋は折れていない。
「……立ってるだけで……いいんだ」
「え……?」
リシアが聞き返す。
「門は……通させぬ。ただ立ち続ければ、それでいい」
その声は弱々しくも、確かな意志を帯びていた。
「オルフさん……!」
胸が締めつけられる。
自分よりもずっと血を流し、苦痛に耐えているのに――まだ立ち続けようとしている。
(私、泣いてる場合じゃない……!)
涙を拭い、木槍を構え直した。
「私も……立ちます! オルフさんの隣で!」
震える声は、夜風に溶けながらも確かに響いた。
獣が爪を振り上げ、再び咆哮する。
その巨体はなお健在で、怒りでさらに凶暴さを増している。
村人たちは恐怖に凍りついたまま動けない。
だが、門前に立つ二人は退かなかった。
血に濡れたおっさんと、震えながらも立つ弟子。
その姿が、村にかすかな希望の光を灯し始めていた。
血に濡れたオルフさんの肩を見た瞬間、リシアの胸は張り裂けそうになった。
赤い雫が夜気に散り、土を黒く染めていく。
その痛々しい姿に、膝が崩れそうになる。
(オルフさんが……このままじゃ……!)
涙がにじみ、視界が揺れる。
だが横に立つおっさんの背は、なおも折れてはいなかった。
槍を握る手は震えても、門を守るその姿勢だけは揺るがない。
「……立ってるだけでいいんだ」
かすれた声でそう告げられたとき、リシアの心に稲妻のような衝撃が走った。
(立ってるだけ……それが、オルフさんの誇り……!)
昼間、若者兵団に笑われていた言葉。
「ただ立ってるだけの門番」――その意味を、リシアはようやく理解した気がした。
その瞬間、頭の奥で過去の声がよみがえる。
『女に槍なんか無理だ』
『通さぬ? 笑わせるな、通されるだろ』
あの嘲笑。
悔しくて、泣いて逃げた日の記憶。
けれど今、村の中から聞こえてくる声は違った。
「リシア! 頑張れ!」
「通さぬ姉ちゃん!」
「立ってる……本当に立ってるんだ!」
涙が頬を伝い、リシアは唇を強く噛んだ。
(私は……もう逃げない!)
胸に熱が宿る。
恐怖で震えている。
でも、その震えごと前に出なきゃ。
「オルフさん!」
リシアは涙声で叫んだ。
「私も……立ちます! オルフさんと一緒に!」
木槍を構え直し、足を大地に踏みしめる。
膝は震えているのに、不思議と倒れなかった。
村人たちがその姿を見て、息を呑んだ。
「リシアが……あんなに……!」
「本当に、オルフさんの隣で……!」
絶望に支配されかけていた空気が、少しずつ熱を帯びていく。
子どもが声を張り上げた。
「通さぬ姉ちゃん! もう逃げないで!」
その声に、大人たちもつられて叫んだ。
「オルフさん! リシア! 頼むぞ!」
リシアの胸が熱く震えた。
もう一人じゃない。
村全体が、自分を見ている。
背中を押されるように、声が溢れた。
「私は……絶対に退きません!
この門は、オルフさんと、私が通させません!」
獣の赤い眼がぎらりと光り、地を踏み鳴らす。
だが、今のリシアの瞳は恐怖に支配されてはいなかった。
決意と誇りで燃える光が、夜に確かに輝いていた。
獣の咆哮が夜を裂いた。
赤い眼がぎらつき、地を抉るたびに村全体が震える。
その圧倒的な存在感に、村人たちは家の中で息を殺し、ただ震えていた。
しかし、門前に立つ二つの影――血を流すおっさんと、涙を拭った弟子――その姿が村人の胸に強く焼きついていた。
「オルフさん一人に……あんな思いをさせていいのか……!」
「リシアだって立ってるんだぞ!」
若者兵団の中で、誰かが震える声を上げた。
仲間たちは顔を見合わせ、拳を握りしめる。
昼間は「通さぬ門番」だと笑った。
だが今、その言葉がどれほど重い意味を持っていたかを思い知っていた。
キースが悔しそうに叫ぶ。
「……くそっ! 俺たちが臆病者のままでいいのかよ!」
ハルドが頷き、松明を掲げた。
「違う……今こそ俺たちも“通さぬ”って言う時だ!」
その声に兵団の若者たちが一斉に動いた。
松明、槍、鍬、斧――手に取れるものを握り、門へと駆け出す。
村人たちも次々と続いた。
「俺たちの村だ!」
「子どもを泣かせるな!」
「オルフさんやリシアに任せっきりじゃ情けねぇ!」
老婆までもが杖を振り回し、
「若い者が黙って見てるんじゃないよ!」
と怒鳴った。
その声に押され、男衆も女衆も次々と家から飛び出す。
獣がその光景に咆哮し、赤い眼を光らせた。
だが、門の前には次々と人が集まる。
震えながらも松明を掲げ、農具を構える。
誰もが恐怖に足を震わせていた。
だが、それ以上に「守りたい」という思いが勝っていた。
「オルフさん! 俺たちも立つ!」
「リシア! 一緒に通さぬぞ!」
声が重なり、村全体がひとつになっていく。
その光景に、リシアは胸が熱く震えた。
(みんな……! 私たちだけじゃない……!)
オルフさんも短く頷き、低く呟いた。
「……これが村の力か」
獣が怒り狂って突進してくる。
だが、今度はオルフさんとリシアだけではなかった。
左右から飛んだ石が獣の顔を打ち、松明の炎が目を眩ませる。
若者兵団が声を張り上げて槍を突き出し、牽制した。
「今だ、オルフさん!」
「リシア、突け!」
村全体の声援が、二人の背中を押した。
おっさんと弟子だけの戦いではない。
村の人々が一つになり、門そのものが大きな壁へと変わろうとしていた。
(これが……通さぬ村!)
リシアの胸に、新たな誇りが芽生えた。
獣が咆哮を上げ、血走った眼で門を睨んだ。
肩からは赤い血が流れている。
だが、それを痛みとも思わぬ様子で、さらに凶暴さを増している。
「グルルルル……!」
地を蹴る音が雷鳴のように響いた。
門を打ち砕こうと、黒い巨体が突進する。
「リシア!」
オルフさんの声が飛ぶ。
「はいっ、オルフさん!」
「俺が隙を作る。お前は――突け!」
その短い指示に、リシアの胸が熱く震えた。
(オルフさんが……私を信じてくれてる!)
木槍を強く握り、足を大地に踏みしめる。
獣が迫る。
赤い眼、鋭い爪、振り上げられた牙。
すべてが死を告げていた。
だがオルフさんは怯まなかった。
槍を横に薙ぎ払い、獣の爪と激突させる。
火花が散り、轟音が夜を揺らした。
「ぬおおおっ!」
巨体がわずかに揺れる。
その一瞬――確かに隙が生まれた。
「今だ、リシア!」
「通さぬっ!」
叫びとともに、リシアは木槍を突き出した。
全身の力、震え、涙、すべてを込めて。
穂先が一直線に走り、獣の喉元をかすめた。
ザシュッ!
黒い毛並みを裂き、血が飛び散る。
獣が咆哮を上げ、巨体をよろめかせた。
「やった……!」
リシアの声が震える。
村人たちから歓声があがった。
「当たったぞ!」
「リシアがやった!」
「通さぬ姉ちゃんだ!」
子どもたちが涙を拭いながら小さな拳を振り上げる。
だが獣は倒れない。
怒りに満ちた眼でリシアを睨み、再び咆哮する。
その迫力に、リシアの心臓が凍りつきそうになる。
だが隣でオルフさんが低く言った。
「よくやった。お前の一突きで、村の命が繋がった」
「オルフさん……!」
その一言に、リシアは涙を堪えながら頷いた。
獣はなおも健在だ。
だが、村人の声援と師弟の誇りが、門前に揺るぎない力を築き始めていた。
(次も……絶対に退かない!)
木槍を握り直し、リシアは血に濡れた夜に再び立ち向かった。
獣の喉をかすめた一撃で、黒い巨体がよろめいた。
赤い血が地面に滴り、鉄の匂いが夜風に広がる。
「グルゥゥゥゥッ……!」
怒りと痛みに満ちた咆哮。
それでも獣は倒れない。
四つ足を踏ん張り、なおも門を睨みつける。
「まだ来るぞ!」
オルフさんが叫び、槍を構え直した。
肩から流れる血が夜気に滴り落ちる。
その痛々しい姿に、リシアは胸が締めつけられる。
「オルフさん……!」
それでも彼は笑うように言った。
「……俺はまだ立ってる。だからお前も退くな」
その言葉に、リシアは木槍を強く握り直す。
獣が再び咆哮し、門を狙って突進した。
だがその瞬間、左右から石が飛んだ。
「今だ! 投げろ!」
「うおおおっ!」
若者兵団と村人たちが一斉に石や松明を投げつけたのだ。
石が獣の顔を打ち、炎が毛並みを焦がす。
「グオオオッ!」
獣が顔を逸らし、突進の軌道が乱れる。
オルフさんが低く叫ぶ。
「リシア、合わせろ!」
「はい、オルフさん!」
二人は同時に槍を突き出した。
穂先が獣の脇腹を裂き、さらに深い傷を刻む。
血が噴き出し、獣が苦痛の咆哮を上げた。
村人たちが歓声を上げる。
「やったぞ!」
「押してる、押してる!」
だが、オルフさんは油断しなかった。
「まだだ……最後まで立て」
その声に、リシアも強く頷いた。
獣は怒り狂い、尾で地面を薙ぎ払う。
村人たちが後退するが、誰一人逃げなかった。
若者兵団が槍で突き、男衆が農具で牽制する。
オルフさんとリシアは正面に立ち続け、槍を突き出した。
何度も何度も。
ついに――。
「グオオオオオッ!!」
血を撒き散らしながら、獣は大きくのけぞった。
赤い眼が揺らぎ、巨体が後退する。
よろめきながら、森の方へと退いていく。
「逃げる……!」
「退いたぞ!」
村人たちの歓声が夜空を揺らした。
オルフさんは膝をつきかけながらも槍を突き立て、必死に立ち続けた。
リシアが慌てて駆け寄り、肩を支える。
「オルフさん! しっかり!」
「……ふん、心配いらん。まだ倒れてはおらん」
その言葉に、リシアは涙をこらえながら頷いた。
村人たちが次々に駆け寄り、口々に叫ぶ。
「助かった……!」
「オルフさん、リシア、本当にありがとう!」
「おっさんがいなけりゃ、俺たちは……!」
その声が門前を満たし、絶望で凍っていた空気が一気に溶けていく。
黒い森の奥で、まだ何かが蠢いている気配は残っていた。
だが今この瞬間、村人たちは確かに「勝った」と実感していた。
血と汗にまみれながら立ち続けるおっさんの姿が――村にとっての誇りそのものだった。
森の奥へと獣の姿が消えた瞬間、村人たちは一斉に歓声を上げた。
「勝ったぞ!」
「退いた、退いたんだ!」
「村が守られた!」
安堵の声が夜空に広がり、今まで押し殺していた恐怖が涙となって溢れ出す。
母親たちは子を抱きしめ、老人たちは膝をついて天に感謝の祈りを捧げた。
その中心で、オルフさんは槍を支えにして立ち続けていた。
肩から血を流し、鎧は赤く濡れている。
額にも汗が滴り、膝は今にも折れそうだった。
「オルフさん!」
リシアが慌てて駆け寄り、その体を支える。
「……大丈夫だ」
低い声が返ってきた。
「まだ、立ってる」
その言葉に、リシアの胸が熱く震えた。
村人たちが駆け寄り、口々に叫ぶ。
「オルフさんがいなけりゃ、村は終わってた!」
「リシアも……本当に立ったな!」
「二人が門を守ったんだ!」
若者兵団のキースは唇を噛みしめ、悔しそうに呟く。
「……俺たち、あんなに笑ってたのに……」
隣のハルドが真剣な顔で頷く。
「いや……俺たちも見習うしかない。あれが“通さぬ”ってことだ」
老婆たちが井戸端でくすくす笑う。
「通さぬ嫁修行だなんて言ってたけど、ほんとに“通さぬ”女になっちまったね」
「婿の心配より村を守っちまうんだから、たいしたもんだよ」
その言葉に、リシアは真っ赤になりながらも胸を張った。
「……私、誇りに思います。オルフさんの弟子であることを!」
オルフさんは血で濡れた肩を押さえながらも、わずかに笑った。
「……俺はただ立ってただけだ」
いつもの言葉。
だが、その声には確かな重みがあった。
リシアは涙を拭い、力強く言い返す。
「いいえ。立ち続けたことこそ、私たちの誇りです!」
その言葉に、村人たちの胸が熱くなり、再び歓声が夜を揺らした。
夜明けが近づき、空がわずかに白み始める。
村人たちは疲れ切った顔をしていたが、その眼には確かな光が宿っていた。
門の前に並ぶ二つの影――血を流すおっさんと、涙を拭った弟子。
その姿は、村にとって新たな「守りの象徴」となっていた。
(血に塗れた夜だった……けれど、この血は無駄じゃない。
誇りを守るために流された血なんだ)
リシアは木槍を胸に抱きしめ、静かに誓った。
(私も、オルフさんのように……立ち続ける人になる!)
こうして村は初めての大きな脅威を退けた。
血にまみれた門番と、その弟子。
その姿は、村人たちの心に深く刻まれた――「通さぬ」という誇りとともに。