猫に言われたこと
零細企業ともいえるような広告代理店に入社して、今日で三年目に入った。俺はいつもの如く、営業回りに追われている。朝から宵の口まで、あちこちの会社に飛び込む。そして頭を下げまくる。そうやって、新規の顧客を探し当てる。しかし、そう簡単には見つからない。まともに相手をしてくれる会社すら珍しい。
そうして一月余りが経った五月初旬の正午過ぎ。俺は大手のファストフード店に足を運んでいた。しかし営業のためではない。単なる腹拵えだ。深々と頭を下げて熱心に説明をしている最中に腹が鳴っては、なんとも格好がつかない。それに昼休みの時間に訪問したところで、嫌な顔をされるのが関の山。もしも俺がそんなことをされたら、『この人、相手の都合とか考えないのかな』と呆れてしまう。
ということで、この一時間弱は貴重な休息タイムだ。ハンバーガー類を二個、ポテト、アイスコーヒーをテイクアウト。ここで食べるのは気が進まない。決して広くはない店内には結構な数の客がいる。通勤電車では人に囲まれ、仕事中には人と対峙する生活。休憩くらいは人の少ない場所で過ごしたい。よって、この店へと来る途中に見掛けた公園で食べることにした。都合の良いことに今日は寒くも暑くもなく、快適な気候だ。
程なくして公園に着つとベンチに腰を下ろし、スマホを確認。俺の休憩はあと四十分ほどで終わる。別に誰かに監視されている訳ではないので、三時間ほど休んだとしても怒られることはない。しかし問題はある。そんなことをしていたら、新規の顧客が見つからずに結局は叱責される。
特に出世街道を突き進みたいなどとは微塵も考えていない。しかし居場所を確保するためには成果を上げ続けないといけない。昨今、人手不足や人材不足と嘆かれてはいるが、クビにならない保証などない。だから結果を生まないといけない。足で稼がないといけない。たとえ九十九の無駄足を踏んだとしても、一つの成果を上げなければならない。
手早く腹を満たし、アイスコーヒーに口をつけ、まったりとする。のんびりと遠くの空を眺め、心を解き放つ。齷齪と働く日々の中、こうやって落ち着ける時間は殆どない。
帰宅するのは、いつも午後八時前。そこから晩飯、風呂、翌日の営業ルートの確認などなどをこなす。睡眠時間はきっちりと確保したいので、十時前には就寝して翌朝六時半に起きる。そのように平日を過ごし、休日は録り溜めておいたテレビ番組をチェックする。営業活動において会話は重要だ。だから話のネタを仕込んでおかなければいけない。
そんな日常を振り返りながら、時折アイスコーヒーを飲み、ただただ遠くの空を眺める。すると、いつの間にやら一匹の猫が近づいてきていた。茶トラ、というのだろうか。体はそれほど大きくないが、なんだか貫禄がある。鋭い目つきに、のそのそとした歩き方。そんな猫がこちらにやってくる。俺の目を見ながら。
もしかして餌を強請るつもりだろうか。しかし、もう遅い。残っているのはアイスコーヒーが三分の一ほど。だけどまぁ、ハンバーガーやポテトが残っていたとしても猫にやる訳にはいかない。餌付けは良くないだろうし、人間の食べ物をやるのはもっと良くない。体を壊すことになるだろうから。
そんなことを考えていると、茶トラの猫がベンチに飛び乗ってきた。思わぬお隣さんの誕生に、俺は猫の表情を窺う。仕事で人の顔色を窺ってばかりいるが、まさか猫の顔色まで窺うことになるなんて。
すると猫は大きな欠伸をして、更に近寄ってくる。そうして俺の太腿に乗り、挙げ句には体を丸めて踞った。
「いや、それは困るんだけど・・・」
まさかの事態に思わず声を漏らしてしまった。どうやらこの猫は餌を求めていたのではなく、寝床を探していたらしい。その最中、適度な温かさと弾力があるクッションを発見したのだろう。
スマホを確認すると、休憩はあと三分。もう仕事に戻らないといけない。とはいえ、このまま立ち上がったり、猫を払い除けるのは、なんだか気が引ける。どうにか降りてくれないだろうか。
しかし、どうやら無理そうだ。茶トラの猫は随分と気持ち良さそうにしている。ゴロゴロと喉を鳴らしている。上質のクッションで日なたぼっこ、という感じだろうか。仕方がないので暫く様子を見ることにしよう。流石にこのまま何時間も寛いだりはしないだろう。
と気軽に思ってから、既に二時間が経過した。茶トラの猫はまだ俺の太腿で休憩している。いい加減、仕事に戻らないとまずい。そう思い、猫の背中を優しく撫でた。あまり乱暴に扱いたくはない。穏便に退いてもらいたい。
すると猫は顔を上げ、俺の目を見た。そうして首を傾げたあと、大きな欠伸をする。その直後には、またしても体を丸め、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
・・・はぁ、仕方がない。今日はこのまま休むとしよう。事後報告にはなるが、半休の申請をしよう。偶には、こういうことがあっても良いだろう。
つい先程、なんだか茶トラの猫から言われた気がした。
もう少し気楽に生きろよ、と。