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夜月



 バカバカしい。

俺はさっさと踵を返し、だだっ広い出入り口へ向かって歩き出した。

やたらフカフカしてる歩きにくい絨毯の上を革靴を滑らせ、やけに遠く感じる出入り口へ向かう。


 「おいっ」


 「おいってば。楠瀬だろ?どこ行くんだよ、まだ発表終わってないぞ」


 わざわざこの広い会場の中でよく見つけ出せたもんだ。


 「帰るよ」


 「なんでだよ?これから発表じゃないか」


 わかりきった事を聞くやつだ。


 「分かってるんだろ、お前だって。こんなくだらない出来レースに付き合ってられるかよ」


一瞬きょとんとした表情を見せたが、軽く笑いながら返してきた。


 「分かってるさ、ここにいる奴らみんなが分かりきってる事だよ。

 周りを見ろよ、おびただしい数のカメラやマスコミが集まってる。一瞬でもカメラに映ってメディアに名前が取り上げられたら儲けもんだ。みんなそのつもりでこのショーを見てるんだから」


 「そんなの時間の無駄だ。俺は帰る」


 「そういえばお前」


 何かを思い出したかのように大きめの声で幸田は喋り続けた。


 「開業して事務所借りたんだってな?驚いたよ。だから時間に追われて仕事に精を出してるってわけか」


 痛いところを突いてきた。事務所を借りたはいいが、いかんせん仕事は閑古鳥が鳴いている。


 「まぁ。まだ片付けとか忙しいから仕事はボチボチだよ。それよりお前は、まだここにいるのか?」


 咄嗟に話しを逸らした。


 「俺は上司の言いつけってのもあるから帰れねえよ。ここで時間を潰せるのも気楽だし、のんびり見てから帰るよ」


 「そうか、じゃあな」

 

 とっととこの場を去ろうとした。


 「おい、待てよ。事務所の場所教えてくれよ、独立の祝い酒でも持って行くからさ」


 しぶしぶカバンから新調した名刺を差し出した。


 「この住所、かなり古い建物だよ」


 どうせこいつはいずれ来る。先入観のハードルを下げておいた方が楽だ。


 「白楽?また微妙な場所だなぁ」


 と笑いながら名刺を眺めている。こういう反応になるのは分かっていた。


 「物件も安いしな、静かでまぁまぁ便利だよ。ほら、ステージの方が騒がしくなってきたぞ、いよいよ最優秀賞の発表じゃないのか」


 「ああ、そうみたいだな。じゃあまたLINEするよ」


 じゃあな、と言って俺は再び歩きにくい絨毯を歩き続けた。



 

 1



 大きな扉を出て、ホテルの会場を後にした。


 正直今回はかなり時間を費やして頑張っていたからこその落胆は大きい。あいつはいいよな、上司の命令で来ただけで気楽なもんだ。

 大学からの付き合いの幸田直人は、親友と言うには違和感があるが、腐れ縁が長く続いている。建築家を目指して努力していたが、あいつはすんなり大手の会社に就職した。建築関連の会社ではあるが、今は建築とは遠い仕事内容ばかりのようだった。

 

 「はぁ」


 大きなため息をついた。

徹夜して作った渾身の作品だった。コンペに出すのは何度目だったろう。今回はかなり大きなコンペだと分かっていたし、大々的に結果発表されると聞いて浮き足立っていた。

 そこで気付くべきだったんだな。やたらスポンサーが付いてるコンペだったし、ちょっとした芸能人も来てたりした。明らかな出来レースだった。

 有名建築家の息子もコンペに参加していたと気付いたのはついさっき、会場に到着してからだった。自分のリサーチ不足は否めない。


 今回の作品をバネに頑張るしかない、と分かっていてもすぐに頭の切り替えなんてできやしない。

借りたばかりの事務所は俺一人しかいない個人事務所だ。

 築年数の経過している建物の一室を事務所として借りた。駅から徒歩7分、住宅地の真ん中だ。静かなのが利点だったが、場所はあまりいいとは言えない。

 なぜなら長い急勾配な坂のど真ん中に位置する建物だったからだ。どこへ行くにも坂の上り下りが必要になる。気楽に駅前に出ようとしても億劫になる事もしばしばだ。


 だけど、この建物はなにか惹かれる魅力があった。

古いけれど洋風な外観の四階建、事務所は二階に位置している。通りに面して大きめのバルコニーがあり、手すり部分なんかも古い映画を思わせる造りだ。ロミオとジュリエットが夜な夜な逢瀬していたようなイメージすらある。


 事務所と言っても俺一人のこの場所は、ほとんど事務所兼自宅だ。実家に戻るつもりはないし、人を雇うアテもないから当面ここに住み込みながら仕事をするつもりだ。


 急な坂を登り、息があがったところで事務所に着いた。まだ四月だが、夏になったら相当汗をかくことになりそうだ。

 事務所に着いても、留守電のランプも光ってないし、メールも来ていない。特に仕事の連絡はない、という事だ。


 バッグをソファに投げ置いて、すぐにバルコニーに出た。外観の白い壁は数年前に塗り替えたらしいが、すでに薄汚れてきていてくすみがあった。古さを感じる部分は多いが、ここは自分の城だと思えた。


 あたりは薄暗くなってきて、夕方の風が心地いい。

冷蔵庫からビールでも取り出して飲みたいところだが、現実逃避していても仕方がないとデスクへ向かう事にした。


 仕事はわずかながら依頼が来る。過去に努めていた建築設計事務所のツテもあり、小さな仕事だけど流してくれる同期もいた。

 とは言え、あまり自慢できるような大きな仕事はなく、クライアントの指示に従いながら図面を起こす作業を細々とやっているくらいだ。

 デスクの横には今回のコンペに出した図面のミニチュア模型が置かれている。本来コンペに必要はなかったが、渾身の出来だったので模型まで作ってしまった。我ながらなかなかの出来栄えだと思っている。

 悔しいが、模型をそっと持ち上げ、事務所の壁に取り付けられている棚の中段に置いた。常に目に付く位置だ。

 

 自分の好きなようにデザインをして、図面を起こせたら楽しいだろうなぁ。


 仕事ともなるとそんな事ができるのはごく一部の限られた選ばれし人間だけだ。予算も気にせず自分の思うがままデザインをし、図面を起こす。

 俺もいずれそうなってみたいもんだ。

例えばここの建物だって、デザインとしては悪くない。古い割に洒落た造りだし、なかなかの設計をしていると思う。

 そう、デザイナーズなんちゃらみたいな名前が付かなくてもいい、ちょっと洒落たマンションや建物が造れたら、などと幾度となく繰り返し夢見ている。


 、、、夢に向かって、今ある仕事を頑張るか。


 窓の外はあっという間に暗くなっていた。いかん、ぼんやりしすぎていた。ただでさえ少ない仕事を失ったらどうにもならん。

 と、デスクに向き直そうとしたところ、視界の隅に何か黒い大きな影が見えた。


 ゾッとした。


 そーっと影の方を見ると、バルコニーに大きな黒いシルエットが見える。

 なんだ、あれは。バルコニーに何か置きっぱなしにしたか?いや、そんなはずはない、さっき出た時には何もなかった。


 冷や汗が出ていた。

足音を立てないように静かに体をバルコニーの方に向け、覗いてみる。

影はまだある、大きな影だ。人間か?でも二階まで登ってこれるはずはない、外から登れるような足場なんかない。


 ゆっくりゆっくり近付き、やっと影の形がはっきり見えてきた。


 「犬?」


 どう見ても犬だった。

やけにデカい犬がそこにいる、おかしな事に。

本当に大きい、土佐犬のような大きさの黒っぽい犬がいる。なんだ、これは。


 犬は苦手じゃないが、こんなに大きな犬は見た事がない。ゆっくりバルコニーの出入り口のドアに近付いてみる。犬はこっちを見てはいない、気付いてないのだろうか。


 そっとドアを開け、体はまだ室内に入った状態で犬の方を見てみた。

 犬が俺を見た、気付かれた。

 そっと犬は立ち上がり、小さめの細いしっぽを振りながら近寄って来た。

 眼光は真っ暗に見える、どこを見ているのかイマイチ分からない。顔の向きからして俺の方をまっすぐ見ている印象だ。

 

 恐怖は感じなくなっていた、俺は完全にバルコニーに出て犬と向き合った。

犬との距離はわずか一メートルまで近付いた。犬は臆する事なくどんどん俺に近付き、俺の体に顔をすり寄せてきた。


 「おいおい、甘えん坊だな」


 かわいさすら感じた。かなりの巨体ではあるが、甘えてくる動物に悪い気はしないのが人間ってものだ。

不思議と、その犬がどこから来たのかなどは気にもならなかった。甘えてくる犬を撫で、ふと空を見上げたら大きな月が輝いていた。そうか、今日は満月だったのか。


 しばらくの時間犬を撫でていた。


 が、途端に豹変した。犬の目つきが鋭くなり、低いうなり声をあげ、明らかに警戒心剥き出しの態勢になった。


 俺は慌てて犬から身を離し、事務所の室内に逃げ込んだ。


 「なんだ、どうしたんだ」


 さっと後ろを振り返ると満月の明かりが眩しいくらいに目に入り、一瞬目がチカチカした。

 バルコニーに視線を向けると影がない、犬の姿は見当たらない。


 「やばいな、相当疲れてるのかストレスか、、、」


 背中にはびっしょりと冷や汗をかいていた。



 

 2


 「お兄ちゃん、大丈夫?」


 俺の顔を覗き込むように妹の愛未の声が聞こえる。


 「ん?何が?大丈夫だよ」


 大丈夫なわけがない、昨日の出来事がずっと頭に焼き付いてしまっている。あの後休もうとしたが、全く眠れる気配がないまま朝を迎えてしまった。

 眠る事もできず、今日はクライアントとの打ち合わせがある。


 「うそ、お兄ちゃんってすぐ顔に疲れが出るよね、わかるよ。お母さんが心配してたよ、全然連絡してこないからどうしてるのかしら、ってさ」


 俺はもう32だってのに、いまだに母親からは子供扱いされる。母親ってものは、子供が自立しようが出世しようが、小さい時の姿のままに見えているのだろう。


 「でね、お母さんから預かってきたんだよ、なんか、おかずだってさ。保冷剤入ってるけど、なる早で冷蔵庫に入れてって」


 これから打ち合わせに向かうところだってのに、おかずを持っていかなきゃいけないのか。図面やMacが入っているビジネスバッグにタッパーを入れるのかと思うと、母親には悪いがげんなりしてしまう。

 開業して気合いを入れる為に購入した、ちょっと値が張るお気に入りのネイビーのビジネスバッグだ。


 しぶしぶ受け取りながら、そっとバッグの底に仕舞い込んだ。


 「お前は今日はヒマなのか?」


 「とんでもない!私超忙しいんだよ。これからコラボ企画の撮影するんだから」


 超忙しいと言っている妹は、ユーチューバーだ。何が忙しいんだか、と思いながらもあまり強く言い返せない部分がある。

 なぜなら愛未はそこそこ人気のあるユーチューバーらしい。26歳にして、月収もヘタすると俺より上をいっている。

 詳しくは聞かない事にしている。自分が必死に受けているひとつひとつの仕事が嫌になってしまいそうだからだ。


 「そうか。で、こっから電車に乗るのか?」


 「そうだよ、今日は横浜まで行くから寄ったんだもん。もう時間ないから行かなきゃ」


 と、スマホ画面の時間を見て、そそくさと駅の方へ向かおうとしているそぶりを見せたところで、俺は気になった。


 「そのチャラチャラした身なりで、通勤ラッシュの電車に乗るのか?」


 サラリーマンがひしめく電車の中で、愛未の姿は浮いているにも程がある、というくらいチャラついている。やたら原色が多い色合いの服を着て、ずっと一緒にいたら目がチカチカしそうだ。

 清楚なOLと隣り合わせになったら異次元の世界感になるだろう。客観視できるなら面白いかもしれないが、自分の妹ともなると、話は別だ。


 「なに言ってんの、お兄ちゃん。別に珍しいほどでもないでしょ。じゃあね、お母さんに連絡してあげてね」


 と、一括され、慌ただしく駅の階段を上って行った。


 やれやれ、相変わらずバタバタと賑やかな妹だ。

とは言え、悔しいながら成功しているのは明らかに妹の方だ。

 俺は親のお金で大学に行かせてもらい、実家暮らしの間は家にお金を入れる事もなく、ひたすら貯金をしているだけだった。ようやく貯金が貯まった頃に事務所を借りて家を出た。

 親への恩返しなど何もできていない。

 そのくせ愛未は今そこそこ稼いだお金を家に入れているらしい。両親も愛未には甘く、美容系ユーチューバーなんてものをすっかり認めている。

 

 しかし、俺からすると美容系とうたっているが、あまり美意識が強いように見えない出で立ちだったな、と思う。


 俺も駅の改札をくぐり、愛未とは反対方面のホームに向かう。

ヤバイな、寝てないから頭がまわらない。わずかな仕事を失うわけにはいかない。

 自販機で栄養ドリンクを買って一気に飲み干し電車に乗り込んだ。



 

 3


 クライアントとの打ち合わせは無難に終える事ができた。

眠い目を堪えて的確に打ち合わせができたと思う。とりあえず仕事を失うような失態はしていないはずだ。


 とにかく事務所に戻ろう。バッグはやたら重くなってるし、一旦仮眠しなければ仕事を進められそうにもない。

 しかしだ、あんな幻覚は生まれて初めて見た。いくら疲れて頭が朦朧としていても幻覚を見るような事態に陥った経験は皆無だ。

 何度思い出しても不思議だった。あの犬の息遣い、わずかに手に触れた毛並みの感触。犬特有の固めの毛質、短い毛質だった。温度感すらあった気がする。

 誰にも相談する事はできない。昨夜一旦我に返ってネット検索などしてみたが、当然ヒットするような事例は見当たらなかった。あったとしても、幻覚や幻想、現実ではないものが見えているという内容しかなかった。


 帰宅中ずっとそんな事をぼんやり考えていたせいか、事務所に戻るのが少し怖くなってしまった。

事務所のドアをそっと開き、バルコニーの方をまっすぐに見た。当然なにもなく、明るい昼間の日差しが差している。

 ふぅ、と一息ついて事務所の中に入る。

 窓の内側から再びバルコニーを間近で見てみる。犬の毛でも落ちていないかとバルコニーに出て、あたりをしっかり見回してみた。

 異常もなく、外を歩いている人の声が聞こえるいつもの風景に戻った。


 やっぱり幻覚か何かか。


 さすがにこれ以上気にしてても事が進まない、まずは仮眠だ。



 キーンコーン、、、遠くでチャイムのような音が聞こえる。学校のチャイムか?そういえば高台のところに教会があるらしいな。そこの鐘の音か。

 夢と現実の境を行き来していた時、ハッと我に返った。


 今何時だ??もう五時を過ぎていた。帰宅したのが一時ちょっと過ぎくらいだったか?全然仕事ができていない。一気に目が覚め頭をフル回転させる。

 デスクに向かって薄暗くなってきた外の景色を横目に感じ、集中して図面を仕上げていく。


 今日の打ち合わせで指摘された部分の修正、見積もりのし直し。次の打ち合わせまでのスケジュールを考えながら図面とパソコンを交互に仕事を進める。




 それから数日、仕事は順調に進んでいった。

大きな仕事はなくとも、小さな仕事はいくつかあった。ふとパソコンのメールを開いていたら幸田からメールが届いていた。見ると、コンペのお知らせだった。

 

「ちょっと良さそうなコンペがあったから送るよ。こないだとは違うから、気が向いたら見てくれよ」


 とだけ書かれていて、あとはコンペ詳細のアドレスが貼り付けてあった。


 俺はあの時の事を思い出し、無駄な時間は割きたくないと思いつつも、リンクをクリックしていた。

 詳細を見ればみるほどワクワクしてしまう自分がいる。幸田なりの優しさだろう、俺が相当ヘコんでいるように見えたのか。いや、確かにあの日は愕然とし、かなりヘコんでいたのは間違いない。それを見透かされていたのかと思うと恥ずかしさも湧いてきた。


 だが、今はコンペのページを読みふけるのに夢中になっている自分がいる。理想のデザインを作れるかもしれない、大きな第一歩になるかもしれない、と逸る気持ちを抑えきれない。


 今までも何度かコンペは応募していた。だが、今回のコンペは違う。なぜなら応募要項の内容を見れば見るほど、俺が理想とする建物に近い設計ができると確信しているからだ。

 これまで応募していたコンペは自分の苦手なジャンルだろうがなんだろうが、万人受けするようなものや、審査員受けがいいだろう、と思いながら作っていた部分が多い。

 前回のもそうだ。自分が作りたいデザインではなく、テーマや応募内容に沿うように作ってきた。


 「あいつ、俺の事相当好きだな」


 幸田は俺の事をよくわかっていた。冗談まじりのひとり言をつぶやきながら、すでに応募するイメージを固め始めていた。



 

 4


 「緑を感じる空間。入った瞬間ほっと一息つけるようなクリニック」


 コンペの応募要項に書かれている文字を読んでいた。


 昔、学生の時カフェで待ち合わせをし、時間より早く着いてしまった自分はアイスコーヒーを飲みながら、ぼんやりと歩く人々を眺めていた。学校近くの駅前は人通りが多く、小さなお店がひしめいている雑多な空間だった。

 それでもそんな風景を見ているのは嫌いじゃなかった。人それぞれに目的があり、そこに向かって行くであろう人を見ているのは退屈しのぎにもなった。

 そんな時、大きな鉢植えを二つ乗せた自転車が目の前をゆっくりヨロヨロ通って行った。自転車の後ろのカゴに鉢植えがギッシリ詰められて、ヒモで固定されていた。

 おそらく配達に行くのだろう、あのサイズからすると個人宅ではなく、クリニックや病院などか?

 病院の入り口に大きな観葉植物が置かれているのをよく目にする。あれは気持ちを落ち着け、リラックスできる空間を作り出すためなのだろう。

 同様に、落ち着かせる為にクラシックやオルゴール調の音楽もよく耳にする。クラシックとは言っても、トランペット吹きの休日や天国と地獄のような、運動会で耳にする曲では決してない。あんな激しい曲が流れていたら、ドアを開けた瞬間ユーターンして帰りたくなる。

 幼い頃の俺は、病院の真っ白い壁に恐怖を感じた。独特の匂いと真っ白な空間、特に歯医者の白い壁は今思い出しても苦手だ。

 子供にとっては観葉植物があろうがなかろうが、怖いものは怖い。


 自転車が通過し、あの大きなものを配達するのはさぞかし大変だろうと思った。


 それから何年も経った今、大きな緑を置かなくてもリラックスできる、緑を感じる事ができるような空間創りができないものかと思う事が多々ある。

 幸田にも幾度となくそういった話しをしたきた。だからあいつがこのコンペの話しを俺に送ってきたのだ。


 そう、例えばエントランスは淡い黄緑に包まれ、高い位置に複数の窓ガラスを設置する。外の緑を感じ、陽の光や夜には月の光も大いに見る事ができる。

 エントランスを進むごとに少しずつ濃い緑を配置し、中は緑がほどよく配置された壁紙などでデザインする。天井はやや高めで圧迫感を感じさせず、間接照明などを壁に埋め込みながら強くなりすぎない明るさで落ち着くようにする。


 考え出すと止まらない。正直、全くお金にならないかもしれないコンペに出し続ける事は時間の無駄になる事も少なくなかった。実際コンペに幾度となく応募している事は幸田くらいしか知らなかった。親には一度も言った事がない。大きな結果が出たら大々的に言えるんだけどな。


 少し頭をスッキリさせる為、近くのコンビニまで足を運ぶ。

ドリンクや軽食を買って、薄暗くなり始めている空を見た。


 事務所に着くと、軽く汗をかいている。坂を上って、その上二階まで階段で上がるのはやっぱりキツい。

 この建物は四階建てだが、最上階と二階は賃料がほぼ同じだった。なぜなら、階段がないからだ。

最初は四階でもいいかと思ったが、窓にうちの看板を貼り付けて通行人に見てもらえるようにアピールする、などの事から四階だと見えにくくなるので諦めた。

 だが、諦めたのは本当に正解だ。クライアントに来てもらう時など、坂を登った上に四階まで上がらせるというのは恐縮でしかない。


 軽食を済ませ、外を見るともう真っ暗になっていた。

高い位置に月が輝いている、満月のようだ、まん丸だ。


 デスクの上を片付けようと目を下に落とした瞬間、ゾっとする気配を感じた。

静かに、静かにデスクから目を離し、ゆっくりバルコニーの方を見た。


 やつがまたいる。


 真っ黒の大きいシルエット、あの時見たのと全く同じだ。

一気に背中に冷たい空気を感じた。動けない、目も離せない。じっと佇んだまま、どれくらいの時間が経過しただろう。

 今度こそ正体を暴きたいという気持ちが芽生えてきた。もちろん怖いが、あいつは全く動かずにいる。

そっとバルコニーの方へ近付き、おそるおそるゆっくりドアを開けてみる。


 こっちを見た。


 ゆっくり立ち上がり、しっぽを静かに振っている。

そして、のんびりとした足取りで俺の方に向かってくる。


 そこで一気に警戒心がなくなった。やっぱり甘えん坊なただの犬じゃないか。バカでかいってだけで。

 前回感じたよりもハッキリ見えるが、やはり瞳は闇夜のように漆黒だ。 

 そっと手を伸ばすとしっかり犬に触れる事ができた。ゆっくり撫でていたら喜んでいるように見える。月が光っているが、辺りの景色はあまりはっきり見えない。犬の姿は至近距離だからかよく見える。


 そっと撫でていたら、またしても唸り声をあげはじめた。


 ビクッとした、油断した。一瞬出遅れた気がしたが、すぐに扉に向かって大急ぎでドアを閉めた。

すぐに振り返ってバルコニーを見ると、犬が空に飛び出すような影が見えた。


 そこであいつは消えてしまった。



 

 5


 「お兄ちゃんさぁ、最近いつも疲れた顔してない?」


 そういえば、最近愛未と会う時はいつも寝不足だ。あれを見た翌日に会う事が続いていたからだ。

案の定昨日も寝たり覚めたりの繰り返しで、空が明るんでからようやく眠れた。


 「仕事もあるし、フリーってのはそういうもんだよ」


 なんとなく曖昧に濁してごまかした。


 「で、相談ってのはどうしたんだ?」


 一昨日の夜、めったに連絡を寄越さない愛未からLINEが来た。内容は、相談したい事があるから事務所に来ていいか、とだけ書かれていた。


 「詳しくは事務所で話す、とか言うから、嫌な予感しかしない前フリみたいなLINEだったぞ」


 「いやいや、そんなんじゃないよ。長文書くのがめんどいからこっち来て話した方がいいかな、って思っただけ」


 と、明るく笑いながら言っている。ちょっとだけホッとした、やはり妹に何かあったらと思うと心配になるのが兄なんだな、と改めて兄貴である事を実感した。


 「あのね、こないだ仲間同志でコラボ企画やるって言ったじゃん。で、その仲間の一人が厄介な事に巻き込まれてるらしくて」


 ユーチューバー仲間か。怪しげな連中じゃないといいんだが。

 愛未のユーチューブはなんとなく見た事がある程度だ。妹が画面上でコスメについてやたら饒舌に語っているのは見ていてムズムズする。

 まともに最後まで見た動画はほとんどなかった。


 「ファンの一人っぽいんだけど、炎上させられちゃってて困ってるみたいで。で、弁護士を探してるんだけど、お兄ちゃん、知り合いとかに弁護士っている?」


 想定外の内容だった。


 「うーん、いない事もないけど」


 「その人に連絡取れるかなぁ?ちゃんとお金は払うよ」


 ユーチューバーってのは気軽に弁護士に依頼できるくらいの収入があるもんなのか?それとも、愛未の周りの奴らが特殊ってだけなのか?俺にはよく分からなかった。


 「知り合いの知り合いみたいなもんだから、ほとんどまともに話した事はないけど、確か名刺があったな、、、あぁ、あったあった。

 メールしてみるよ。OKの返事が来たら連絡先教えるけど、忙しかったり、案件によっては断る事もあるだろうから、ダメな場合は他を探すしかないからな」


 「わかってるわかってる。プラプラしてるような人の依頼は受けない、って人種がいる事くらい知ってるよ。とりあえず良かった!ありがとう、お兄ちゃん」


 こういう事を言われてしまうと、妹の為になんとしてでも頑張ってやりたいとか思っちゃうんだな。


 「じゃ、またねー」


 と、用件が済んだら愛未はそそくさと帰ってしまった。

 炎上か、めんどくさい世の中になったな。

 ま、それで食っていける弁護士がいるならそれはそれでいいってもんか。さっさとメールしておくか。


 弁護士は、幸田の会社の顧問弁護士だった。縁あって何度かお酒を飲んだ事もあったが、今はめっきり会っていない。近況を知るって意味でも連絡を取ってみるのも悪くないか。


 あぁ、しまった。愛未にこないだのタッパーを返すのを忘れてた。



 

 6


 それから数日は、クライアントの依頼とコンペ製作を進めるという同時進行を続けていた。

かなり追い込まれえいる部分もあったが、仕事はやりがいがあるし、コンペの製作は楽しくて仕方なかった。


 そんなある日、幸田が事務所を訪ねて来た。

事務所のドアをノックし、倒れこむようにソファーに腰掛けた。


 「ここ、来るまでが地獄だな。運動と懸け離れた生活している俺には過酷すぎるわ」


 と、息をゼエゼエ言わせながら幸田がへばっている。


 「まだ6月なのに、こりゃ真夏にここには来れんなぁ。なんか飲み物あるか?できれば炭酸がいいけど」


 「あるのはアイスコーヒーとお茶と、あと俺のコーラ」


 「じゃ、俺のコーラで」


 「遠慮のないやつだなぁ、俺の、って言ってるのに」


 笑い合って軽口を言いながらコーラとグラスを差し出し、幸田は一気にプハっと飲んでいる。


 先日連絡を取った弁護士の酒井は、案件を快く承諾してくれた。メールの返信もすぐに届き、愛未に連絡したら相当喜んでいた。

 

 「ところで、この前送ったコンペ、面白そうだったろ?」


 「お前は俺の趣向を良く分かってるなぁ、って感心したよ」


 と、笑いながら返す。


 「応募してみるよ。今少しずつ進めてる」


 「そうか、やってみるか。それはよかった。お前のデザインは俺も好きだし、いつか、大きな建造物を指差して、ダチが作ったんだよ、って周りに自慢したいからなぁ」


 作った、というのはかなり語弊があるが、そんな風に言ってくれるのは気恥ずかしいけど嬉しかった。

幸田も一緒に建築の勉強をしていたが、自分にはデザインなどの才能がないからサブに回る、と言って今の会社に就職を決めた。

 それでもやはり多少の後悔はあるだろう、今でもあちこちの建造物の話しになると盛り上がっていつまでも話しに花が咲く。

 日本だけでなく、世界中の建造物に目を向けるといつまでも話しが尽きないくらいだ。


 「そうそう、それと」


 幸田が続けて話した。


 「妹ちゃんが、酒井に何やら相談したいとかって聞いたけど、なんかあったのか?」


 「ああ、妹じゃなくて妹の知り合いが弁護士を探してるって話しだったから、酒井を紹介したんだよ。メール送ったらすぐ返事が来て、快諾してくれたよ。

 今度、お前と三人でまた飲もうぜ、って書いてあったな」


 「そうか、そりゃいいな!俺は会社でたまに会うくらいだし、お前はずっと会ってないだろう?そろそろビアガーデンでも行きたいもんだしな」


 随分と気が早いと思ったが、外で飲むのも悪くないな。


 「おっと、そろそろお暇するか。これ、開業祝いの酒だよ。ちょっといい酒だから、チビチビ楽しみな」


 幸田もなかなか律儀なやつだ。

親しき中にも礼儀あり、の見本のような性格だ。言葉遣いはずさんだし、心を許すと態度がデカくなるが、決して悪いやつじゃない。

 

 よし、俺も頑張るか!

 仕事を済ませたら、夕食までの時間はコンペ作品に集中する事にしよう。今日も長い夜になりそうだ。



 

 7


 梅雨晴れの午後、元町まで足を運んでみた。元町は古い建物が多く、デジカメ片手にたくさんある建造物を撮るのに最適な場所だ。

 白楽を選んだのは横浜に出やすいというのも大きな理由のひとつだった。新旧入り混じった建物が並んでる空間はいつまで眺めていても飽きる事がない。

 アイデアを練りながら、気分転換にと散歩しながら山下公園まで歩いた。

海を見ると開放感があって落ち着く。ずっと都内で暮らしていた俺は、めったに海を見る事がなかった。今は電車一本で海が見られるなんて、贅沢な気分だ。

 写真をかなり撮り、そろそろ駅に引き返すかと思った時、シーバス乗り場が目に付いた。せっかく天気もいいし、シーバスに乗って横浜まで戻ってみるか。

 シーバスの乗車券売り場に向かう時、公園の中央からガヤガヤと騒がしい声が聞こえた。若い奴が大声で喋っているような騒音だった。

 声の聞こえる方向を見てみると、四、五人の若者が公園の中央を陣取って大きなアクションで騒いでいる姿が見えた。

 迷惑な奴らだなぁ。と、思って見ていたら、そのうち一人がカメラを構えて撮影していた。

 ふいに、この間愛未が言っていた言葉を思い出した。仲間とコラボ企画をやるとかなんとか。。。

 もちろん愛未がそこにいるわけじゃないが、愛未もこんな風にバカ騒ぎしているんじゃなかろうか、と不安になった。


 シーバスは空いていた。平日のまだ3時だ、乗る人も少ないだろう。

せっかく快晴の心地よい陽気の中、海を眺めていられるってのに心は晴れなかった。



 事務所に戻ると、すぐにパソコンを開き愛未のユーチューブを見てみた。

ほとんど見た事なかった画面だった。


 「なんだ」


 ぽつりと独り言をつぶやいた。

愛未は真面目かつ質素に、化粧品の説明を淡々としているだけだった。原色のハデめの服装で元気に明るく話してはいるが、騒がしくもなく化粧品の使い方や、自分の顔に付けて実践して見せているだけだった。

 この間のコラボ企画というのも見てみたが、数人で雑談しているだけのものだった。どこかのスタジオを借りたのか、華やかなセットのような雰囲気の室内で、和気藹々と話しているだけの映像だ。

 テロップを入れたり、編集で面白可笑しく見せているのはなかなかのものだと感心した。


 とにかくホッとした。


 愛未は人に迷惑をかけるような事はしていなかった。当たり前だ。そんな妹じゃないって事は分かっていたはずなのに、不安がよぎってしまった。


 すぐに気持ちを切り替え、デジカメに撮り溜めた写真をパソコンに移動した。



 

 8


 翌日は朝から大雨だった。昨日の快晴がウソのように荒れた空模様だ。昨日外に出たのは正解だったな。

事務所は9時から就業と決めている。9時を過ぎてすぐに電話が鳴った。


 「はい、楠瀬建築事務所です」


 つくづく、安易なネーミングにしてしまった。分かりやすさと、自分の名前を覚えてもらうのが第一だと思って老若男女明確に判断できるような名前を付けた。


 しかし、電話を出るたびに思う。俺の苗字は発音し難い、と。


 電話の内容は有難い事に、個人からの依頼だった。家を建てたいので依頼したいという内容だった。どうやらかなりこだわって納得いくものと造りたいという話しのようだ。

 しかも、この場所からかなり近いらしく午後には打ち合わせに来たいという事だ。


 午前のうちに今日の仕事の大半を進めておこう。


 午後になってもまだ雨足は弱まらない。

 バルコニー越しに外の道を見ていると、雨が地面を叩きつけている。こんな雨の中、来てもらうのも申し訳ないくらいだな、、、と、思っていた矢先に事務所のチャイムが鳴った。


 「こちらへどうぞ」


 と、ソファーに案内する。

 40代くらいの夫婦二人でわざわざ足を運んでくれた。


 「雨が強くて大変だったでしょう、タオル使いますか?」


 「いえ、大丈夫です。駅から近かったので」


 物腰の柔らかい奥さんが優しく答えた。


 

 「二人でね、のんびり暮らせるような空間を作って欲しいんですよ。少し都心から離れていいと思っているので、場所は大体決めました。あとはそこに建てるもの、ですね」


 と、ほとんど奥さんばかりが希望などを喋り、旦那さんは落ち着いた雰囲気で相槌を打っている程度だ。

 如月さんという夫婦二人は、随分大人しい雰囲気だった。


 丁寧に話しを聞き、希望の間取り、希望のキッチン、水周りなどを事細かに尋ねていく。

フリーハンドでざっくりとした間取りを書きながら話しを聞き続けた。


 「子供はいないから、二人それぞれ趣味の部屋があって、私料理が大好きだから、大きめのキッチンカウンターが欲しくて。でも背が低いから、キッチンは全体的に低めにして欲しいんです」


 ふんふん、なるほど。と細かくメモをしながらしっかり聞いていく。購入する予定の土地の図面を見せてもらい、日当たりなどを細かく考慮する。


 「すみません。この図面コピー頂いてよろしいですか?」


 コピーを取ってまた話しを進める。

ある程度話しを進めたところで、気になって仕方なかったので旦那さんにも問いかけてみた。


 「ここまでのお話しで、何か意見やご希望はありますか?」


 静かに聞いていた旦那さんが、少し面食らったような表情をした。

あれ?別におかしな質問してないよな?と思った。


 「とてもいいですよ、思っていたとおりのお方だった」


 と、想定外の回答が返ってきた。


 「あ、すみません。実はね、僕はここの前の坂を通勤で毎日通ってるんですよ」


 思ってもいない言葉に驚いた。


 「え?そうなんですか?」


 「でね、窓に貼り付けられている事務所の名前を見て、あなたがそこのベランダにいる姿も何度か見ています」


 朝、目を覚ますためにバルコニーに出て朝日を浴びながらコーヒーを飲む時がよくある。まさかそれを見て、覚えている人がいるとは。


 「いや、驚きました。お恥ずかしいです」


 旦那さんは立て続けに話し続けた。


 「この事務所ができる前からずっと通勤で通っていたので、開業された時すぐに気付きました。そこで、妻と家を建てる話しは去年からしていたものだから、これも何かの縁かと思ってここに話しを聞きにきたんです」


 なんとも嬉しい出来事だ。俺が事務所をここに決めていなかったら、会う事のなかった二人、そしてその偶然が繋いでくれた縁だった。


 「ありがとうございます」


 喜びはひとしおだ。


 「こちらこそ。今ずっとお話を聞いていて、とても熱心に考えて下さっているのが分かりました。是非、いい家を造って下さい」


 嬉しくて目頭が熱くなってきた。



 

 9


 夕方になるとようやく雨足が弱まり、夜にはすっかり雨は止んだ。

そういえば今日はまともに食事をしていない。お腹が減っている事に気付かないくらいに集中した1日だった。


 雨も止んだ事だし、コンビニまで買い出しに行くか。

 外へ出ると、雨で冷やされたひんやりとした空気が心地よく、空にはぽっかりと丸い月が浮かんでいた。


 「うん?」


 どことなく、なんとなく、既視感を覚えた。なんだろう?一瞬何かが頭をよぎった気がしたが、すぐに忘れてしまった。


 コンビニに入って食べ物の陳列を見ていると、急に食欲が湧いてきた。

すぐに食べれるものと、しばらく冷蔵庫に入れておくものと、多めに食べ物を買った。


 荷物が多い時のこの坂はやっぱり堪える。


 ゼェゼェしながら息を上げて事務所に着き、明かりをつけてまっすぐ冷蔵庫へ向かう。

 冷蔵庫に食べ物を入れ、ふと背後に気配を感じた。


 「あ、あいつだ」


 振り返らなくてももう分かっていた。何度めかの来客だ。


 まっすぐバルコニーを見ると、やっぱり大きな黒いシルエットが浮かび上がっている。

何度目だ?3度目??


 慣れてしまったのか、現実と空想の境なのかも未だに釈然としないが、もう怖い感覚はほとんどなくなっていた。

 バルコニーの扉を静かに開け、そっと外へ出る。


 バルコニーの端に大人しく座っている。いつもよりも雰囲気が大人しく感じる。どうしたのだろうか。

やはり至近距離で見ると、少し怖いと思ってしまう。


 だが、それ以上に好奇心が勝ち、思わず話しかけていた。


 「今日はあまり元気がなさそうだな」


 もちろん向こうは犬だ。そもそも現実なのかも分からなく、返事などするはずもない。

 微動だにせず、遠くの月を眺めているかのように見える。


 「月が綺麗だな」


 俺は気になってしまった。あまりにも静かに佇んでいる姿が寂しそうだ。

やめておけばいいのに、ジワジワと近づいて行く。


 そこでこっちへ顔が向いた。

 漆黒の瞳が俺を捉えて離さない。


 犬はゆっくりと動き出し、構えるような体勢になっていった。


 「ごめんごめん、近付かないよ」


 慌てて引き返し、室内へ戻った。

ドアを閉じ、ふぅと息をついて振り返った瞬間にはもう姿が見えなくなっていた。


 だいぶ大人しいように見えたけど、どうしたんだろう。いつもは一瞬甘えてきたりしてたのに。

気になって仕方なかった。



 

 10


 「やっとできたー」


 夜遅く、事務所で一人大きな声をあげている。


 思ったよりかなり時間を費やしてしまった。

だけど悔いはない、それくらい情熱を注ぎながら製作していた。


 コンペの締切はまだ少し先だから、念入りにチェックしてから応募する。ネットでの応募なので、ミスったらアウトだ。図面のファイルなどを慎重に見直す。


 一夜明けた明日応募しよう。疲れた時には些細なミスを起こしがちだ。念には念を、と。



 翌朝、仕事開始時間前にコンペの応募を済ませた。

かなり自分好みで仕上げた作品だった。実際作るとなると予算もかなりかかってしまうだろう。


 まぁ、入賞しない限りそんな心配する事はないか。


 デスクにつき、いつも通りに仕事を始める。

横でスマホが光った。母親からのLINEだった。時間ある時に電話ちょうだい、との事だ。

 なんだろう?


 お昼休憩時間になり、どうも気になったので昼食を食べる前に電話をした。


 「どうしたの?」


 すぐに俺は尋ねた。家で何かあったのか、と少し不安に駆られていた。


 「話すの久しぶりね、元気でやってるの?ちゃんと食べてる?」


 早速母親らしい、俺としてはちょっと面倒くさい質疑の連続だ。食べてる食べてる、と軽く返事をして受け流したあと、本題になった。


 「あのね、群馬のおばあちゃんなんだけど、ちょっと具合悪かったでしょ」


 群馬のおばあちゃんというのは父方のばあちゃんの事だ。去年から認知症が進んだと聞き、ヘルパーさんが頻繁に来ているという話しは聞いていた。


 「で、あまり進行する前に、みんなで会いに行かないか、ってお父さんが言ってて」


 正直めんどくさいな、と思ってしまった。

せっかくコンペ作品が終わって、これから如月さんの依頼に取り掛かって集中したいところだったのに。


 「全員揃って行ける機会なんて、この先どれくらいあるか分からないし」


 母親の言う事には一理ある。ばあちゃんの家に行ったのなんて、何年前だろう。

俺がまだ学生の時だったかもしれない。となると10年くらいは行ってないのか。


 「わかった、いいよ。ただ、仕事があるから土日、できれば土曜日がいいけど」


 「そう、よかった!お父さんも喜ぶわ。愛未はいつでも平気って言ってたから、決まったらLINEとかで連絡するわね」


 またね、と言って電話を終えた。

 ふう、と冷蔵庫から適当な食べ物を選んで応接用のソファーに移動し、昼食を食べる。


 群馬かぁ。


 ぼんやりと、昔行ったばあちゃんの家の風景を思い出した。

あの頃はまだじいちゃんも健在で、愛未と俺は近くの小さな川でいつも遊んでたなぁ。


 じいちゃんが他界したのは3年前くらいだった。それ以降、ばあちゃんは少しずつ物忘れが多くなり、今年になってからかなり進行していったという。


 俺の事、ちゃんと分かるのかな。



 

 11


 7月の晴れた土曜日、俺ら家族は群馬に到着した。

初夏のかなり暑い日だ。最寄り駅に着くと、おふくろと愛未が「暑い暑い」と連呼している。


 「この日差し、ヤバイ。日焼けしたらサイアク」


 とかなんとか騒ぎながら二人は日傘を差している。


 「確か、ここから結構歩くんだよなぁ」


 子供の頃の曖昧な記憶で俺はぼつりと呟いた。


 「そうだなぁ、20分くらいかな」


 親父はなんだか嬉しそうだ。思えば家族で出かける事なんてめったにないし、4人で歩くのはいつぶりだろう。

 おふくろと愛未はいつも通りにずっとお喋りをし続けている。女2人揃うと、延々と喋っているもんだ。


 確か、バスも走っているはずだったが、なにせ時刻表を見ても1時間に1本程度の本数だ。最初からバスは候補に上がっていなかった。

 親父が先頭に立ち、さっさと歩き出していた。俺らはのんびり後をついていく。


 俺や愛未に至っては、道すら覚えていない。駅前は閑散としていたイメージだったが、今も閑散としていた。かろうじてコンビニが一軒できているくらいか。確か前来た時はなかったと思う。


 ジリジリ照りつける日差しの中を歩き「お、そろそろだぞ」と親父が言う。

やっと着くか、だけど帰りも同じ距離を歩くかと思うと少しゲンナリしてしまう。


 うろ覚えの建物が見え、庭にいるのはヘルパーさんか。洗濯物を干している。


 「まぁまぁ、遠いところをわざわざようこそ」


 明るく声をかけてきたヘルパーさんは、40代前半くらいの女性だった。

親父は何度か会っているようで、世間話をしながら挨拶をすませる。


 「喜美子さんね、今家の中で休んでますよ」


 そうか、ばあちゃんは喜美子という名前だった。いつもばあちゃんとだけ呼んでいて、名前で呼ばれるのを聞くと不思議な感じだ。

 案内され俺らは家の中に入っていく。

 築年数は30年前後くらいの家か、そんなに古さは感じない。確か俺らがまだ幼い時に建て替えをしていたはずだ。

 当時じいちゃんの好みで選んだのか、木造のいわゆる古き良き日本家屋のデザインの一軒屋だ。

ばあちゃんは洋風の家が良かったとかで、揉めていたという話しを後におふくろから聞いた事がある。


 「おばあちゃん、こんにちは。愛未と省五も来ましたよ」


 そこに車椅子に座ったばあちゃんがいた。以前見た時より、だいぶ年老いているような印象だ。 

 おふくろがばあちゃんの耳元に近づいて大きめの声で話している。

ばあちゃんはぼんやりしたままで、うんうん、とうなずいているが、理解しているのかどうかはよく分からない。


 ここまで認知症が進んでいたのか、ちょっとショックを感じた。

愛未も同じく驚いているようで、いつもは口数が多いのに、ここに着いてからほとんど喋っていない。


 畳敷きの和風の部屋、いわゆるリビングに入り、俺らはざぶとんに座る。

 家の中は洋室と和室が半々くらいであったはずだ。ばあちゃんの意見も家の中には取り入れてたって事か。 

 ヘルパーさんがお茶を入れ、親父とおふくろにばあちゃんの近況などを報告し始めていた。

口数がめっきり減った事、お風呂に1人で入れない事、おむつが必要な事。


 現実を知らされた。


 なんとなく分かってはいたけど、今現在こうやってヘルパーさんがいないと生活が成り立たなくなっており、俺らの事すら把握できていない事実を見せつけられるのはしんどい。


 俺らが呑気にテレビ見てギャーギャー騒いてる間なんかも、こうやってばあちゃんは毎日を暮らしているのだ。



 

 12


 ヘルパーさんが庭に出て、洗濯物の続きをしている。それを見たおふくろが、手伝うと言って庭に出て、なにやらヘルパーさんと談笑を始めた。


 3人になって、ようやく愛未が落ち着いたのか喋り出した。


 「おばあちゃん、すっかり変わったね」


 「まあな、もう歳だもんな、しょうがないよ」


 お茶をすすりながら親父が話す。


 「ずっと気になってたんだけどさ、あれ、何?」


 愛未が指を指した方向を見ると、壁に雑多にいろんな物が掛けられている。

 どこぞのお守り、誰かのお土産なのかドリームキャッチャー、手作りのネックレス、、、よく見るといろんな物が壁にぶら下がっている。


 愛未が指差しているのは、太い輪っか状のものだ。


 「あー、あれは首輪だよ」


 かなり太い首輪だな、とぼんやり見ていた。


 「犬なんていたっけ?」


 俺の鼓動がドクンと波打った。

 犬?犬は飼っていないはずだ。俺の家でも犬は飼った事はない。せいぜいハムスターと亀くらいしか飼った記憶はない。


 「ばあちゃんがな、むかーし飼ってたんだよ、おっきい犬をな」


 どんどん脈打つ鼓動が早まって行った。大きい犬、俺の頭の中には犬のシルエットが鮮明に浮かんでいた。

 黙って親父が口を開いて喋るのを聞いていた。


 「犬なんていたんだー?全然覚えてないけど」


 「ここじゃないんだよ、群馬の家じゃなくて、ここに来る前ばあちゃんは四国に住んでたんだよ」


 「え?そうだったんだ?知らなかった。じゃあ、お父さんも四国にいたの?」


 愛未が興味深そうに親父の話しに喰い付いている。


 「父さんが生まれたのはここだよ。この家を建てる前の古い家だったけど、群馬で生まれたからな」


 両親の生まれ育った場所は知っていたが、ばあちゃんが生まれ育った場所は知らなかった。初めて聞く話しだった。


 「ばあちゃんは高知で生まれたんだよ。お前たち、自分の苗字の事も知らないのか。楠瀬って苗字は高知発祥なんだぞ。まわりになかなかいないだろう」


 そういえばそうだ、ちょっと珍しい苗字だと思っていたけど、自分の苗字の事なんて何も知らなかった。

 

 「で、お前たちも見聞きした事あるだろうけど、高知と言えば土佐犬も有名でな」

 

 背中に汗がしたたっている。土佐犬、、、。


 「当時は土佐犬を持つのがステータスなんて言われたりしていた時があって、大変だったそうだよ」


 「大変って、何が?育てるのが難しいとか?そもそも怖いって印象だよね、土佐犬って」


 「そうだな、本来土佐犬は武士の士気を高める為に闘犬として戦わせてたからな。これといって娯楽もないような時代だから、無理もないけど人間のエゴだよなぁ」


 「ただ戦わせる為だけに飼われてたの?なにそれ、かわいそう」


 愛未の意見は尤もだが、今の時代だって人間のエゴで飼われている愛玩動物なんて山ほどいるんだろう。


 「時代が時代だしな、戦っていくには鼓舞させるような物事が必要だったんだろう。

 その後はどんどん土佐犬の人気が高まって、むやみに増やされた時もあったそうだよ。かわいそうな事に、増えすぎてから多くが撲殺されたって聞いたしな」


 愛未の表情が変わり、一気に目に力が入っている。


 「ひどいよな、人間の身勝手で増やして、増えたら殺すのか」


 俺はボソっと呟いた。


 「その時、ばあちゃんの家でも一頭土佐犬をもらい受けてな。ばあちゃんが大層かわいがってたんだよ。まだ幼い頃のばあちゃんがだよ、大きい犬を見ても怖がらず、毎日のようにずっと一緒にくっついていたって聞いたよ。

 まだ日本が裕福じゃなかった時代だから、土佐犬が広まって殺して減ったあとは、犬を飼う食料が不足したって話しだし、その後は戦争だよ。その時高知にいた土佐犬は絶滅したらしい」


 「え?いなくなっちゃったの?たくさんいたのが一匹も残ってなかったの?」


 全滅なんて、知らなかった。高知から土佐犬がいなくなってたなんて初めて聞いた。


 「そのあとのばあちゃんと言ったら、相当悲しみにあけくれてたらしくてな。自分が一番かわいがってたもんだから、責任感じて、自分のせいだとずっと思っていたらしい。もちろんばあちゃんは悪くなんかないよ、時代が悪かったんだよ」


 愛未が耐えきれずにティッシュを取り、目頭をぬぐっている。


 「ばあちゃんは、その後どうしてたの?」


 俺はその後が気になった。


 「ばあちゃんの両親、つまり俺の祖父母だな。見かねて高知から離れたんだよ。高知に住んでると、いつまで経ってもばあちゃんは忘れられないからって。で、たまたま群馬に親戚が住んでたから紹介を受けて、ここに引っ越してきてな。

 何度も写真で見せてもらったよ。ばあちゃんがかわいがってた土佐犬、名前は『ツキ』だ。

 もらってきた日の夜、満月でえらく綺麗に月が輝いていたから『ツキ』と名付けたって、ばあちゃんは誇らしげに何度も教えてくれたよ」


 俺は胸がいっぱいになった。ツキ、そうか。お前だったのか。


 「父さんが小さい頃から何度も聞かされた話しだったよ、いつもばあちゃんは嬉しそうに、でも寂しそうに喋ってたな」


 ふと、庭を見たらヘルパーさんとおふくろと、横に車椅子のばあちゃんがいた。

 2人の声は聞こえるけど、ばあちゃんの声は聞こえない。ぼんやりしているように見えるばあちゃんがいるだけだ。



 

 13


 「おばあちゃん、お散歩に行くって」


 おふくろがこっちに戻ってきて、そう言った。


 俺は無意識に立ち上がり、庭の方へ向かった。

家の門の辺りにばあちゃんとヘルパーさんがいる。


 「すみません、俺が散歩に連れて行きます」


 咄嗟にそう言っていた。


 「あら、いいんですか?喜美子さん、省五さんが一緒にお散歩に行って下さるそうよ、良かったわね」


 いつも周るルートを聞き、15分程度で戻ってくればいいという事を聞いて、俺は車椅子を押しながら家の外へ出た。


 この辺りは緑が多く、俺から見ると田舎に感じてしまう。

歩いてすぐにコンビニがあり、夜でも街は明かりに満ち溢れている景色を見続け毎日生活している俺と、ばあちゃんは全く違った日々を送っている。


 「夕方になってきたけど、まだちょっと暑いね」


 話しかけてもばあちゃんはほとんど返事はしない。ぼんやりと景色を眺めているだけだった。


 「俺さ、ツキに会ったよ」


 「ツキはかっこいい犬だね」


 ばあちゃんは少し考え込むような表情に変わったようにも見えた。

俺は無言のまま、車椅子を押し続ける。


 川沿いを歩いて、一旦車椅子を止めて川を眺めていた。


 そこで、ばあちゃんがゆっくり何かを話し始めた。


 「ツキはいい子だよ。


 気性が荒いところもあったけど、いい子だった。


 かわいい子だよ、ほんとに」


 と、ゆっくりゆっくり一言を噛みしめながら俺に伝えてくれた。


 「、、、うん、そうだね。いい子だね」


 ツキのシルエットを思い出しながら俺は返事をした。

それ以上何も言えなかった、ばあちゃんの想いがいっぱいいっぱいに通じてきた。


 「そろそろ戻ろうか」



 

 14


 親父とおふくろ、そして愛未と別れたあと、俺は東急東横線に乗り、いつも通り白楽の駅に向かっていた。

 帰宅中、俺はスマホで土佐犬の事を調べていた。

親父が言っていた通りの事が事細かに書かれていた。そして、本来は『土佐闘犬』と呼ばれる事も分かった。


 本当に闘う為だけの犬なのか。

 武士の気持ちを鼓舞させる為に闘う犬たち。何を意味するのか、獲物を捕らえるのともまた違う、人間の為だけに闘う犬たち。


 そして、スマホで次の満月を調べた。




 「すみません、日曜なのに急に相談に乗って頂いて」


 と、恐縮そうに如月さんの奥さんが言う。

今日は打ち合わせではなかったけど、どうしても気になる部分があるから話しがしたいという事で、時間を空けて来てもらった。


 「ここなんですけどね、やっぱり高い位置に窓が欲しくて。空を見たいんですよ、星とか月とかも」


 俺がちょっと前にコンペに送った図面を思い出した。あれも高い位置に窓をつけ、まさに同じように空を見れるような造りにした。


 「いいですね、日差しも入ってくるし。じゃあ、この辺りを少し変えましょう」


 嬉しそうに如月さんの奥さんは俺のシャーペンの動きを見ている。

今日は奥さんだけが来ている、細かい部分は奥さんに任せるという事で、旦那さんに会う機会はめっきり減っていた。


 昨日からの疲れが多少残ってはいたが、仕事が充実しているのは有難い。

本来今日は休みだ、如月さんが帰ったあとはのんびりしようと思っていた。



 如月さんが帰った後、コンビニに出向き、ビールやちょっとしたおつまみなどをカゴに入れていく。


 「あ」


 買っておかなければいけないものに気付いた。そうだ、うん、これを買わなきゃいけないな。



 

 15


 「暑~い」


 愛未が汗をふきながらソファーに腰掛けている。


 「何飲む?」


 「なんか冷たいお茶とか。喉乾いたー」


 冷蔵庫からお茶を出し、愛未の前に置き、俺も向かい合わせにソファーに腰掛けた。


 「今日はね、すぐ帰らなきゃいけないんだけど」


 と、愛未が前置きしながら話し出した。


 「お兄ちゃんに渡すものがあって」


 手提げの紙袋をゴソゴソ探りながら、上品な柄の包みを愛未が差し出した。


 「ちょっと前にさ、酒井さんに頼んだじゃん、弁護士の酒井さん。

 でね、友達がすごい助かったって言ってて」


 「あぁ、解決できたのか?」


 そういえばバタバタしててすっかり忘れていた。炎上騒ぎになったとかで、酒井に声をかけたんだった。

そういや飲みに行こうって話しもあったな。


 「そうそう、すぐ解決してくれたみたいで、めっちゃ喜んでてて。紹介してくれたお兄ちゃんにもお礼がしたいって言ってたから、これ」


 わざわざ手土産を持たせるとは、今時の若いやつにしては礼儀正しいな。


 「酒井にだけお礼すれば良かったのに、なんか悪いな。ありがとうって伝えておいてくれよ」


 「うん、本当に良かった」


 愛未はまるで自分の事のように嬉しそうだ。


 「でね、もういっこお知らせがあるの」


 愛未は笑顔で話し続ける。


 「私さ、いつも化粧品とか紹介してるのやってるじゃん。で、もっともっと化粧品とか美容とか詳しくなりたいって思ってさ。

 で、資格を取ろうと思ってるんだ」


 意外な報告だった。

勉強嫌いの愛未が、これから何かを学んでいきたいと思っているとは。

 兄貴ながら、嬉しさがこみ上げた。


 「へー、いいじゃん。美容系の資格取るってことか。どういう資格を取るつもりなんだ?」


 化粧の事なんてサッパリわからないので、資格と言われてもピンと来ない。


 「目指してるのはビューティーアドバイザー。とりあえず通信で勉強しながら、頻度は減るけどユーチューブも更新したりして、仕事決まるまでは同時進行でやってくよ。

 化粧品で悩んでる人ってたくさんいるって分かったの。ユーチューブのコメントで、そういうのすごく多かったんだよ。

 だからさ、1人1人いろんな人にアドバイスしたりして、それぞれに合う化粧品を選んで、悩みを一緒に解決できるような事ができればって思ってさ」


 愛未がイキイキとした表情で語っている。

 自分の道を見つけてくれたというのは本当に嬉しい。ユーチューブをやっている中で気付いた事が、愛未にとっての将来の道に繋がって行ったわけだ。

 好きな事を仕事にするのが大変だと身をもって痛感しているけど、愛未の今の姿を見ていれば心配など一切感じないくらいに覇気に満ちている。




 16


 「うそだろ、おい」


 メールを開いて1人で事務所にいる俺は、大きな声をあげている。

 幾度となくパソコンの画面を凝視する。何度見ても俺宛のメールで間違いない。


 「この度は弊社コンペにご参加頂き、心より御礼申し上げます」


 という書き出しのメールだった。すぐに選考結果のメールだと分かり、メールに書かれた文字を目で追うスピードが自然と速くなっていく。


 「今回ご応募頂きました作品の優秀賞受賞が決定致しました」


 頭が真っ白になった。

 いつももらうメールは「今回は残念ながら」というような文面ばかり見てきた。

 

 「よっしゃ!」


 嬉しくてソワソワとデスク周りを小走りしてしまう。

 優秀賞というからには、一番いい賞ではない。最優秀賞が一番だからだ。

 だが、俺にとっては初めての受賞、しかも二番目の賞だなんて、信じられない功績だ。


 もちろん賞に選ばれたから、すぐに何かが変わるわけではないが、メディアに名前が上がったりすれば、俺の作品が世に広まる機会が増えるはずだ。今までより多くの人の目に触れる事になる。

 そこから仕事に繋げるのは自分の力量でもある。ここからが勝負だ。


 とはいえ、なにせ嬉しくて浮き足立っている自分を落ち着かせるのが大変だ。

よーし、今夜は幸田に貰った酒でプチパーティーだ。


 と、言っても俺ひとりだけど。



 翌日、如月さんから朝早くに電話がかかってきた。

図面などの製作は全て終わり、地鎮祭の日取りも決定した。


 「楠瀬さんに頼んで本当に良かったです。私達の夢をここまで形にしてもらえて、あとはできあがるのを楽しみに待つだけです」


 有難くて恐縮してしまう言葉だ。


 「とんでもないです、周りの人の力もたくさん借りましたし、如月さんのご希望に沿って製作する事ができて、こちらこそ光栄です」


 実際これからは職人さんの力にかかっている。俺は随時現場をチェックしていく作業だ。今後も図面変更などのトラブルがあるかもしれないし、まだまだ気を抜けない。

 しかし、これほど喜んでもらえるからには、最後まで気を引き締めて業務を全うしていくだけだ、と改めて気合いが入った。




 17


 今日はずっといい天気だった。夜になっても星が綺麗に見えている。

 良かった、雨じゃなくて。


 俺はデスクにこの間コンビニで買ったドッグフードの缶詰を置いている。それを入れるお皿も横に並べた。


 事務所のソファーに腰掛け、時計を見る。夜十時を回る。

飲み物を取りに行こうかと立ち上がった瞬間、背後に気配を感じた。


 すぐに分かった。


 静かにデスクの方へ向かい、置いてあるドッグフードの缶詰を開け、お皿に盛り付けた。

そして、ゆっくりバルコニーを見る。


 

 うん、いる。



 そっとバルコニーのドアを開け、外に出た。


 「今日も綺麗な満月だな」


 ひとりごとなのか、話しかけているのか分からないような大きさの声で話した。


 「これ、食べてくれよ」


 俺は片手に持っていたドッグフードを盛ったお皿を足元に静かに置いた。

 輝く月を見上げたまま、動かない。


 「ここに来たばかりの時は全然仕事もままならなかったんだよ。だけど、最近は頑張れてるんだ、俺なりに。

 仕事で喜んでもらえる機会も増えたし、ちょっとだけど、自信も出てきた。

 これも全てお前のおかげだよな。


 ありがとう、ツキ」



 少しだけツキが動いたような気がした。


 「ツキが来てくれて、俺の気持ちを鼓舞してくれたおかげなんだな。気付くのが遅くてごめん。

 ツキは、自分の義務だと思って俺の所に来てくれて、たくさん勇気づけてくれた。

 もう、終えていいんだよ」


 ゆっくりツキがこっちを見る。


 漆黒の目を正面から捉えたのは初めてだった。


 真っ黒い漆黒の目、だけど、なんて優しい瞳をしていたんだ。

 ツキの優しさが滲み出ている瞳だった。


 「ツキがこんな風に責任感じてたら、いつまで経ってもばあちゃん悲しむぞ」


 ツキは再び月の方を見ている。

俺は静かにツキの横に行き、そっと背中を撫でる。


 少しだけしっぽが動いた。


 「ありがとう、ツキ。お前のやるべき事は全て終わった。もう自由になっていいんだよ」


 月が一瞬光ったような気がして、俺も月を見上げる。


 ふと、空に黒いシルエットが浮かんだように見えた。

目を下に向けると、横にいたツキはもういない。


 足元に置かれたドッグフードが、ほんの少しだけ減っている気がした。




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