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8 乙女と生首

『――わからねえ』


 つぶやきのような声の後で、左目がルーナの体をなぞるようにゆっくりと動いた。


『主題はサロメ、傀儡魔はルーナ。つまり、斧で旅人の首を斬っていたのはルーナ。それはわかった。だが彼女に取り憑いていたのが「サロメ」なら、どうして彼女自身が首を欲した? 洗礼者ヨハネを邪魔に思っていたのは母のへロディアのほうだろう』


 エレミヤの言葉は、イザヤの抱いた違和感の内容そのままだった。


「それは、アトリビュートから回収した魔石を見ればわかるでしょう」


 一瞬の後、左目がぱちりと瞬いた。


『あれか』


 洞窟の奥の「布」に、二つの目が向けられる。


「棚に置かれていたのを見た時点で、すぐに気づくべきでしたよ。サロメのアトリビュートが『皿』であることに」


 疲れた声で答えながら、イザヤはノーラの言葉を思い出していた。


 ――踊りの前に、泉の水をいただくことになっているのです。それを注ぐための入れ物で、物騒なものではありませんよ。


 布を剥がすと、果たしてそこには、土器の皿に載った男たちの生首があった。思いのほか生前の姿を留めていたが、いくつかは相当腐敗が進んでいる。


「サロメ」のアトリビュートは、洗礼者ヨハネの生首。そしてそれを載せた「皿」だ。


 彼女たちが作っていた、土器の祭具。「サロメ」の魔力はそれを介してルーナに取り憑いたのだ。ルーナは生首を得るたびに自分の作った皿を「置き場」にしていたため、何度も作り直す必要があったのだろう。


 イザヤの低い声に、エレミヤは一拍遅れて「そうか」と答えた。


『おれたちは最初から二人の「獲物」だったというわけだな』

「ええ。今夜も私をここに誘導したのは、ノーラさんですから」


 宿屋での言葉、あれは妹のために、イザヤを洞窟に向かわせるための手段だったのだ。


『ああ――鈍ったな。何一つ読めていなかった』


 自嘲ぎみのその声に、イザヤは言葉を返すかどうか迷った。が、すぐに左目がルーナを捉えた。


『目を覚ましたら厄介だ。早いところ、「回収」しちまおう』


 イザヤは、生首の載った皿に指輪の手をかざした。魔石から黄色い閃光が放たれ、目を細める。

 光を受けた皿は、どくんと脈打つように動いた。光が治まると、赤い魔石が生じた。空気の隙間から零れるように現れたそれは、イザヤが差し出した左の手のひらにぽとりと落ちた。

 いつかと同じように、それをつまんで右目へ近づける。


 まず見えたのは、半裸の少女の白い肌だった。

 スカートを履いているが、上半身に身に着けているのは宝石の散りばめられた首飾りと腕輪のみ。首をのけぞらせて腕を上げているのは、踊りの途中なのか、それとも差し出された皿に載った生首を見た歓喜の反応なのか。洗礼者ヨハネの首を見下ろすその表情は、満願の恍惚に満ちている。


 フランツ・フォン・シュトゥックの『サロメ』。それが魔石から読み取れた絵画の情報だった。


「サロメの主題で描かれた絵画の中では、比較的新しいもののように見えます」

『おれにも見せてくれ』


 言われて、イザヤは魔石を左目の前に持っていった。


『これは……なるほど、そうか』


 左目がうなずくように上下に動いた。


『王やへロディアが徐々に排され、サロメとヨハネが主題の中心になっていくにつれて、「愛する男の首を欲する狂女」として描かれるようになった、ということだな』

「おそらく、そういうことかと」


 イザヤが機構から受けた教育では、サロメは「ヘロデ王の饗宴」あるいは「洗礼者ヨハネの斬首」という作品に登場する一人物に過ぎなかった。だが母親の駒を脱して能動的に男を愛する主人公となった彼女は、次第に「魔性」のイメージを獲得していくようになったのだろう。


『無垢な少女に秘められた狂恋と、無邪気な残忍性……芸術家が好みそうなテーマだな』

「ええ。とても美しく、悲しい絵です」


 そうして魔石を再び右目の前に持っていこうとしたとき、背後から明かりが差した。

 ノーラだった。手燭の明かりが、その頬を明々と照らしている。


 ――妹の獲物として、自分を差し出そうとしていた人。


 その事実は、まっすぐにこちらを見つめてくる藍色の瞳の前では、霞のように薄らいでしまう。


「ルーナに、何をしたの」


 唇が震えていた。肩にかけられた黒いケープは、白く汚れている。


「じき目覚めます」


 イザヤは赤い魔石を握り、彼女のほうへ向き直った。


「たった今、アトリビュートから元の魔力を回収しました。首斬り事件が起こることは、もうないでしょう」

「それじゃあ……あの子は、元に戻ったの?」

「そうです」


 自身のその返答に、イザヤはささやかな自尊の響きを感じた。手の中の赤い魔石は、仕事が終わった証しだ。あとはこれを機構に送り届ければ、今回の任務は完了となる。つまりもう、首斬り事件が起こることはない。ノーラ自身も、妹から解放されるのだ。

 しかしノーラの表情は明るくなるどころか、影が落ちたように青みがかった。


「あの子を、どうするつもりです」


 声の中に敵意を感じ取ったイザヤは、一瞬息を止めた。


「どうもしません。私は回収人です。アトリビュートから魔力を回収することだけが仕事で、それ以上の義務を負ってはいません」

「でも、今回のことを報告するのでしょう。そうしたら、ルーナは……」

「魔力の関わった事件はなかったものとして扱われます。逮捕も起訴もされませんし、記録は機構にしか残りません。――ですが」


 顔をこわばらせたままのノーラに、イザヤはできるだけ穏やかな声で続けた。


「あなたがたが行ってきたことは消えませんし、犠牲者の方々が生き返ることもありません。その事実に対してどう向き合うかは、あなたがた次第です。妹さんや宿屋のご主人とともに贖罪の道を模索することもできますし、すべてを胸の内に秘めてこれまでと変わらない暮らしを送っていくこともできます」

「贖罪……」


 その途端、ノーラの表情からふっと緊張が解けた。そうして、藍色の瞳から小さな雫がこぼれ落ちた。


「そう、ですよね。私たちは、罪を犯したんですよね」

「しかし、すべての原因はあくまでも魔力にあります。妹さんは、被害者でもあるのです。彼女が魔力に取り憑かれさえしなければ、罪に手を染めることもなく、平和な日々を……」

「それは違います」


 イザヤの声をはねのけるように言うと、ノーラは大きく顔を歪めた。涙が次から次へとあふれ出て、あごを伝って足元へと落ちる。


「――ごめんなさい。わかっているんです、あなたが正しいと。でも、できれば、そっとしておいてほしかった」


 手で顔を覆って泣き始めた彼女を、イザヤはただ見つめることしかできなかった。混乱していた。ノーラは悲しんでいる。が、その理由がわからない。左目に問おうとしても、ノーラを前にしている今はそれも叶わない。

 せめて何か言ってくれればいいのに、と思うが、脳内は静寂が支配していて、ため息ひとつ聞こえてこなかった。


「――あの子は、恋をしたんです」


 やがて落ち着きを取り戻したノーラが、ゆっくりと語り出した。


「去年の終わり頃のことです。相手は、あなたのような黒髪の、美しい顔立ちの若者でした。どこか異国的で、不思議な雰囲気があって。実際、遠い東の国からやって来た巡礼者でした」


 その若者は、ここに留まってほしいというルーナの願いには答えず、ある日の朝早くに発ってしまった。それを知ったルーナの意気消沈ぶりは、見ていられないほどだったと言う。


「それ以来、彼と似た雰囲気のある若者がやって来ると、妹はすぐに恋に落ちるようになったんです」


 その頃にはもう、「サロメ」の魔力がアトリビュートの皿を介してルーナに取り憑いていたのだろう。彼女の思いを受け取った彼らは、ルーナに一時の思い出を与えた。が、「ずっとここにいてほしい」というルーナの願いには、応えようとしなかった。


「仕方がないことです。彼らにはそれぞれ行くべき場所があり、帰るべき故郷があったのですから」


 そうしてルーナは、夜中に彼らを呼び出して首を斬るようになった。


「最初に首を斬ったときは、踊る子豚亭のご主人に見つかってしまいました。けれども、黙っていてくださっただけでなく、それからもルーナに協力してくださるようになったんです。ご主人には娘さんが一人いたのですが、旅人にひどい目に遭わされたことを苦に、命を絶ってしまったということがあって……それが関係しているんだと思います」


 ノーラはそこで、一つしゃくり上げた。


「首を斬るようになってからのあの子は、とても幸せそうでした」

「幸せ……」


 思わず復唱したイザヤを、ノーラはちらりと一瞬だけ見た。


「私も最初は驚きましたし、なんということをしたんだ、と妹を責めました。けれどもあの子は、とても生き生きとしていたんです。『どうしていけないの? こうすればずっと一緒にいられるのよ』って。妹は去っていく彼らの『一部』を、思い出の品として欲しただけなんです。それがたまたま、首だったんです。あの子は、愛に溢れています。傷ついて悲しんでいただけのときよりも、ずっと輝いていました。私にとっては、あの子が笑顔でいてくれることが『平和』だったんです」


 そう言うと、顔だけをイザヤのほうへと向けて続けた。


「すみません。本来なら感謝しなければならないところを、責めるような真似をしてしまって。ほっとしてはいるんです。もう、妹の犠牲者は出ないんだって。でも、それ以上に妹のことが心配なんです。あなたも、最初に恋した人に去られてからのルーナの様子を知っていれば、私の気持ちがわかるかもしれません。見ているだけで、胸が押し潰されるようでしたから」


 言われて、イザヤの胸は実際に痛みを感じた。それはルーナに対する憐れみではなく、ノーラの優しさと彼女の悲しみに対するものだった。


「もうおわかりでしょうが、洞窟の剣の話はあなたを誘い出すための嘘です。あなたがここに来た目的に気づいて、初めはルーナとあなたを引き離そうとしました。あの子があなたに惹かれていることはわかっていましたから。けれども私は、結局あの子の歓びを選びました。お祭りを終えたら、宿のご主人と話そうと思います。今までしてきたことと、これからすべきことについてを」


 平坦な声でそう言うと、ノーラは洞窟の入り口のほうへと目を向けた。


「もう、お帰りください。できれば、日が昇る前に。お見送りしたいところですが、私はあの子についていなければなりません」

「しかし……」


 イザヤは並んだ生首のほうを振り返った。


「首はルーナと一緒に、墓地に埋めようと思います。体と同じところに」


 一呼吸ほどの間を置いて、ノーラは力なく笑った。


「首が腐りさえしなければ、妹も同じことを繰り返さずに済んだのかもしれませんね」


 そう言った彼女の白い横顔が作り物のように見えて、イザヤは身震いした。と、その藍色の瞳が、彼の覚束ない表情を鋭く捉えた。


「さようなら。二度とお会いすることがないよう、祈っています」

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