7 銀貨と氷
イザヤは、フードをかぶって闇に溶けるように洞窟に向かった。
稀人は、夜目が利く。暗闇においては、猫のように瞳孔が大きく開くのだ。
幸い、夜警の衛兵の数は少なかった。物陰に身を隠し、衛兵の持つ松明の火が通り過ぎるのを待つ。松明特有のつんとした匂いが、イザヤの緊張を刺激した。
洞窟の内部は、きれいなものだった。入り口はともかく、奥に進めば蝙蝠や得体の知れない虫と遭遇するのではという恐れは杞憂に終わったようだ。
入り口から五十歩ほど進んだところで、ごつごつした岩肌が左右に迫る細い隙間に突き当たった。
『入れるのかよ』
「なんとか体は入れられそうです」
黒マントをかき抱き、横向きに隙間へと侵入する。
『案外度胸があるんだな、おまえ』
心底感心したようなその響きが、妙に可笑しく感じる。
「仕事ですから」
足下を探りながら、肩で隙間をかき分けるようにしながら進む。その間にも、イザヤの脳裏には一人の女性の顔が浮かんでいた。
――主題は、ユディト。傀儡魔は、ノーラ。
本当に、そうなのだろうか。私情を抜きにして考えてみても、何かが引っかかる。
革手袋の右手を、ぎゅっと握る。中指の内側に感じる、魔石の感触。その黄色い石の中に渦が巻いている様子を想像しながら、イザヤはある司祭の言葉を思い出していた。
「稀人は、特別な存在です」
狭い独房の中、向かい合って座った司祭の顔は近い。年若い彼の鼻に脂が浮いているのをぼんやりと眺めながら、イザヤは言葉の続きを待った。
「あなたがたの魔力は、肉体再生能力、暗闇でも十分に見ることのできる特殊な目……われわれ人間とは違う性質を体に付与するものであり、さらには魔術の使用を可能にする力です。あなたがたの寿命が平均四十年と短いのは、体内の魔力がそれらの特殊な性質のみならず、多大な負荷を生み出しているからだと考えられています。ここまでで、何か質問はありますか」
イザヤは、ちょっと考えたふりをしてから口を開いた。
「稀人は、僕以外に何人いるのですか」
「それは機密事項なので、答えることができません」
司祭は即座に答えた。が、イザヤの表情に何か感じるものがあったのか、しばらくもごもごと口を動かした後で、遠慮がちに話し始めた。
「あなたがた稀人は、大変数が少ないのですよ。機構が把握している限りでは、産まれてくる稀人は多くても年に十人と言われています」
「それは、野良稀人も含めてですか」
その存在を把握できていない稀人のことを、機構はこう呼んでいた。稀人は産まれたらすぐにリベル教会を通じて機構に報告、保護される決まりになっていたのだ。
が、何らかの事情で報告されず、他の人間と同じように育てられる稀人が、これまでに何人か存在していたことがあると言う。機構にその存在を知られた後の彼らの運命については、教えられていなかった。
「教会の力の届く範囲においては、野良稀人はもはや存在しません。その他の地域においては、おそらくかつての因習が続けられているでしょうから、やはり存在しないのです」
さりげなく埋められた「因習」という言葉に、イザヤは身震いを覚えた。産まれてくる時代が、場所が違えば、自分はとっくに殺されているのだ。
あのときの身震いは、自身の運命の可能性に対してだけのものだったのだろうか。
司祭の放った、「われわれ人間」、「あなたがた稀人」という言葉。当然のように引かれた境界線に、世界における自分の意味に、恐れと怒りを感じた故のものだったのではないのか。
再び、ノーラの顔が浮かんだ。少しだけ憂いを帯びて見える、藍色の瞳。
機構を発って以来、自分と目を合わせてくれた数少ないひとりだ。魔力が原因とはいえ、彼女が凶行の犯人であるとは思いたくなかった。
そのとき、マント越しに体をこすっていた岩がふっと離れる感覚があった。開けた空間に出たようだ。
が、その奥を見て思わずため息をつく。暗闇に染まった黒い水が、沈黙とともに地面を満たしている。
不気味だ。だが調べる必要があるだろう。それがノーラの言葉を、彼女の潔白を信じることにも繋がる。
しかし、左目は違うものを注視しているようだった。よく見ると、水の手前の地面が妙な形で盛り上がり、歪んでいる。岩肌と同じ鈍色でわかりづらいが、あれは布だ。何かが並んだ上に、布がかけられているのだ。
そのとき、妙な芳香が鼻をついた。異国を思わせる、甘く神秘的な香り。
――いる。
そう思ったのと、エレミヤが叫びを発したのはほとんど同時だった。
『おい!』
左目が、眼窩から飛び出さんばかりの激しさで左を向く。その目につられるように、イザヤは顔を傾けた。
岩の陰から、女が飛び出してきた。暗闇の中でもわかる、ぎらぎらと欲望を迸らせる瞳。その色は、水色だった。
イザヤは素早く腰を落として飛び退いた。激しい衝撃音とともに、頭のすぐ上で岩が砕ける。
斧だった。両手で握ったそれを持ち上げながら、ゆっくりと彼女が振り向いた。
「だめじゃないですか、動いちゃ。きちんと、首に狙いを定めていたのに」
水色の瞳が、闇の中で妖しく揺らめいた。
「ルーナさん。どうして……」
斧を振りかぶって近づいてくるルーナから後ずさりながら、イザヤは指輪の魔石を握りしめた。あの斧は、やぐらを作る男たちが使っていたのと同じものだ。
そう、斧だ。剣ではない。
「どうしてって、決まってるじゃない。ご褒美よ」
――褒美?
左目が、びくりと跳ねたように動いた。ルーナは斧を下げ、目を見開いたまま唇を横に広げた。
「あなたも見たでしょう、私の踊り。上手だったでしょう? 私はただ、ご褒美が欲しいだけなのよ」
瞬間、閃光のような衝撃が全身を貫いた。頭の中で、はあっと驚きとも落胆ともつかない息が漏れる。
『――サロメか!』
そう。これは、ユディトではない。「サロメ」だ。
王の催した祝宴で見事な踊りを披露した、王妃へロディアの連れ子サロメ。踊りの褒美に何が欲しいかと問われた彼女は、母へロディアにそそのかされ、洗礼者ヨハネの首を求める。
イザヤは、悔しさにぎりりと奥歯を噛みしめた。なぜ気づかなかったのだろう。彼女らは、巫女。祭りの「踊り子」ではないか。
ルーナは、斧を手にしたままくるりと回転してみせた。恍惚に染まった瞳は細められ、唇はうっとりと半開きになっている。
「ちょうだい。あなたの首を、ご褒美にちょうだい。初めて見たときから、欲しくてたまらなかったの。あなたのその、きれいな黒髪……星空みたいな目……子供のような唇……」
言いながら、ルーナはイザヤをまっすぐに見つめた。その水色の瞳は、獲物を前にした獣のようだった。飢えと興奮の向こうに見え隠れする、狡猾な理性。
――おかしい。
「へロディアの娘、サロメよ」
違和感とともに呼びかけると同時に、ルーナが勢いよく斧を振り下ろした。首を曲げてそれを避けると、斧は再び岩肌に突き刺さった。頭の中で、はっと息をのむ音がする。
イザヤは静かな声で続けた。
「なぜそのように首を熱望する? おまえ自身が望んだものではないはずだ」
「違う。欲しいのは、私。私が、欲しいの。あなたの首を!」
熱い吐息とともに叫んだルーナは、軽々と斧を引き抜いた。その隙にイザヤは素早く横に飛びすさり、彼女から距離を取った。ゆらりとこちらに向き直るルーナの手元で、斧が静かに持ち上げられる。
斧は、「サロメ」のアトリビュートではない。となると、彼女を傀儡魔にしたアトリビュートは、「あれ」しかない。
イザヤは革手袋の履き口をくわえ、右手を引き抜いた。贈り物を差し出すように伸ばした手を、そっと開く。中指の付け根の上で、黄色い魔石が渦をはらんでいる。
そのとき、ルーナが高く跳んだ。足を曲げ、腕を伸ばし、着地と同時にひらりと一回転する。宙を舞う羽根のような、軽やかで予測のつかない動き。サロメの「舞」だ。
その動きに触発されたように、彼女の白い肌がにわかに淡い光を放った。そうして獲物に狙いを定めるように、左手をイザヤのほうへ突き出す。
『危険だ。逃げろ!』
左目がぐるりと動いた瞬間、指先がびりりと痺れた。肌の光が一層強くなる。その白い輝きは、異国めいた甘い香りとともに洞窟内を満たし、イザヤの体を空気で押し固めるような圧を放った。一歩下がろうとした足が、やたらと重い。
と、ルーナが一足飛びに距離を詰め、片手で斧を振り上げた。
『イザヤ!』
その叫びと同時に、イザヤは大きく息を吸った。痺れた体から発せられた息が、手のひらの魔石を撫でる。
魔石は、柔らかな光を放った。左目が、右目とともにイザヤの手のひらを注視する。
光が弱くなると、そこに現れたのは小さな革袋だった。
――大丈夫ですよ、エレミヤさん。
イザヤは胸の内でそうつぶやき、痺れた指で革袋の紐をゆるめた。
口の開いた袋の中から、複数の銀貨が勢い良く飛び出した。
『銀三十シェケル』。イザヤの魔石の持つ「魔術」のひとつだ。
意志を持つかのように自身の体めがけて襲いかかってくる銀貨に、ルーナは一瞬身をすくめた。彼女の体に触れると、銀貨はそのまま黄色い光となって弾け飛んだ。同時に、体の痺れがするりと解ける。
ルーナは斧を取り落とし、顔を真っ青にして震え出した。何かに怯えるように目を見開き、白い両腕で自身をかき抱く。
「欲しい……欲しいのに……!」
呻きとともに発せられるかすれた声。そこにイザヤは、サロメの陰に隠れたルーナ自身を感じた。
「首を手に入れたところで、男の運命も命も、決してあなたのものにはなりませんよ」
「私を拒むからいけないのよ」
突き刺さるような言葉に、魔石を握り直そうとしたイザヤの手が止まった。
「私の思いを拒んで、去ってしまうから……だから、こうするほかないの!」
ルーナの髪が、空気をはらんでぶわりと広がる。斧がひとりでに浮き上がり、彼女の手元に吸い寄せられる。イザヤは反射的に息を深く吸いこんだ。――仕上げだ。
魔石に息を吹きかける。同時に、斧を振りかぶったルーナが泣くように叫んだ。
「あなたを、愛しているの!」
その言葉に、一瞬息が止まる。が、問題はなかった。
――『コキュートスの氷』。
ルーナの全身が、黒い氷で覆われた。口を開けたまま懇願するようにイザヤを見つめる彼女の顔が、芸術作品のように時をなくして動きを止める。
手のひらを下に向け、大きく横に空を切る。途端に氷が砕け散った。目を閉じてよろめくルーナの下に腕を伸ばし、なんとか抱き留める。
途端に洞窟内を満たしていた芳香が消え、鼻をつく異臭へと変わった。その強烈さに、イザヤはマントの袖を鼻に押し当てた。
黄色い目が、ぶるりと震えた。