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4 川のニンフ

「踊る子豚亭」に向かうと、まだ明るい時間にも関わらず、外に置かれた卓では飲酒やダイスに興じる客たちが賑やかな声を上げていた。彼らは、黒いマントをなびかせてイザヤが横を通り過ぎても、見えていないかのように全く問題にしなかった。


「悪いけど、うちでは泊められないよ」


 扉の脇に立つ主人に近づいた途端、イザヤは刺すような声をぶつけられた。彼は眉間に皺を寄せ、ダイス遊びの卓に視線を向けていた。機嫌がよいとは言えない様子に気が重くなるが、イザヤは努めて穏やかな声で話しかけた。


「ご迷惑をおかけするつもりはありません。ここで起こった首斬り事件について、お話を伺いたいだけです」

「話すことなどない。帰ってくれ」

「ですが」


 主人の眉間の皺が深くなる。


「もうすぐ祭りなんだ。あんたみたいな辛気くさいのにうろつかれるだけで、こっちは大迷惑なんだよ」

「調査をさせてください」


 イザヤは自分を見ようとしない主人に詰め寄った。


「また同じような事件が起きるとも限りません。そんなことが続けば、ご商売に差し障りが生じます」

「余計なお世話だよ。女神が旅人の無作法にご機嫌を損ねていらっしゃるだけだ。祭りが終わればすべて元通りになる。さあ、出てってくれ」


 主人はにべもなかった。イザヤは扉の中を覗こうとしたが、それも立ちはだかった彼の体のおかげで叶わなかった。

 振り返ると、客たちがイザヤから素早く目をそらした。そうして何事もなかったかのように酒を飲み、会話に興じ始める。

 ダイスで勝ったとおぼしき客の歓声と笑い声を背に、イザヤは静かに宿屋から離れ、裏手を流れる川のほうへと向かった。記録で知った事件現場を確認するためだ。しばらくの間、町の人間から話を聞く気にはなれなかった。


『やはりこの町は、リベル教会の力が十分に及んでいないようだな。魔力の回収に協力するのは、信徒の務めの一つでもあるんだが。初めての仕事にしては、つらいんじゃないか?』


 イザヤは答えずに歩き続けた。肯定も否定もしたくなかった。


『どうした。もうくじけたのか』


 エレミヤの声で、イザヤは自身の心痛に気づいた。


「まさか」

『じゃあなんで、護符タリスマンさながらに魔石を握りこんでるんだ? さっきから、痛いほどだぞ』


 石のように硬くなっていた右の拳が、びくりと震えた。

 右手の中指に嵌めた指輪は、魔石が手のひら側に来るようにしてある。汗で濡れ、体温で温められた黄色い魔石。それを包み込む手が、エレミヤの言葉で一瞬だけ緩んだ。


「どうも、知らず知らずのうちに気負ってしまっているようですね」

『ふうん。意外だな』


 エレミヤはそこで言葉を止めた。

 イザヤは彼の目に意識を向けた。その途端、左目はとぼけたようにぴたりと動きを止める。

 イザヤはできるだけ静かな呼吸を続けた。少しだけ速さを増した胸の鼓動は、あるいは伝わってしまったかもしれない。が、五感を共有しているとはいえ、思考や感情について感知することは不可能なはずだ。

 裏へ回ると、柳の木と厠はすぐに見つかった。どちらも宿屋を囲む板塀を見上げる土手にある。川べり、というのも、ヨシの生い茂ったこの土手のことなのだろう。


『宿屋にいる人間を呼び出して密会するのに、うってつけの場所だな』


 密会、という語に力を入れたエレミヤの声に、イザヤは小さな息で応えた。


『なあ。そろそろ、「主題」に当たりがついただろ。調べれば調べるほど、確信が深まっていくんだが』

「そうですね。主題が何であるかはともかく、魔力による事件でまず間違いはないかと」

『それじゃあ、あとはアトリビュートを探すだけだな』


 イザヤは板塀ごしに宿屋を見た。傀儡魔を発生させているアトリビュートは、おそらく室内にある。だがあの主人の様子では、中に入ることは難しいだろう。


『夜中に忍び込むしかなさそうだな。あの塀、乗り越えられそうか? それか、どっかに隙間が……』


 エレミヤの声が止まると同時に、辺りを見回していたイザヤの動きも止まった。

 柳の木の奥にある岸辺。そこに、踊る二つの陰があった。

 初め、イザヤはそれを川のニンフだと思った。かつて魔石を通して見た、美少年ヒュラスに群がるニンフたち。その妖しい美しさを彷彿とさせる、白く輝くような肌に、腰まで伸びる美しい茶色の髪。

 軽やかに回転し、跳ねるたびに、白い薄衣のドレスがふわりと空気をはらむ。まるで鏡合わせのような、左右対称の動き。まるで、動く絵画――いや、動く「美」だ。

 彼女たちに目を奪われながら、イザヤは初めて絵を見たときのことを思い出していた。


 それは、老司祭の七回目の訪問日のことだった。イザヤは、彼の持ってきた魔石のひとつをおそるおそる摘まみ上げて目に近づけた。

 最初に見えたのは、琥珀色だった。琥珀色の太陽が、腕を伸ばすようにその光で空を照らしている。太陽からは、地上で眠る男のほうへと巨大な螺旋階段が延びていた。そこを行き交うのは、何人もの優美な人々の姿だ。

 ウィリアム・ブレイクの『ヤコブの夢』。それが、イザヤの初めて見た絵の名前だった。


 ――その所持も制作も禁じられている今、旧世界の遺物である絵は、魔石の中だけで静かに息づいているのですよ。


 髭を動かして言った司祭の横で、イザヤはまばたきすることも忘れ、初めて見る「絵」に見入った。初めての色。見たことのない色。現実とは異なる、自由な形を作り出す線。

「ヤコブの夢」は、アブラハムの孫ヤコブが旅の道中で見る夢の話だ。彼は夢の中で天使の姿を見るだけでなく、彼を祝福する神の声をも耳にする。


 老司祭からこの物語を習ったとき、イザヤの頭の中に浮かんだのは、独房のようにぼんやりとした白い光景だった。ヤコブという男や天使というものの姿を、うまく思い描くことができなかった。だが、目の前の小さな石の中に見えるものは、想像をはるかに超えた別物だった。失われた旧世界で生み出された、技術と想像の塊。


 あのときの心の震えが、今再びイザヤの胸を支配していた。圧倒された後で、静かに沸き起こる高揚感。法悦、畏怖、嫉妬、切望……そんな言葉を並べるだけでは到底言い表せないような感情に、イザヤは陶然とした。


『美しいな。双子か?』


 左目のつぶやきで我に返る。見れば、二人の女性は確かに同じ顔をしていた。

 そのとき、右側にいた女性がはっとこちらを見た。

 イザヤはびくりと肩を震わせ、そのまま固まった。罪悪感ときまり悪さで、足が動かない。

 踊りを止めた右側の女性に、左側の女性もイザヤの存在に気づいた。こちらを見て、藍色の瞳を陰らせる。

 すると右側の女性が、静かに土手を上ってきた。イザヤはあわてて後ずさる。

 女性はイザヤまであと数歩のところまでやって来ると、水色の目を細め、じっと彼の顔に見入った。刃面に映った、左右で色の違う目を思い出す。この明るさ、近さなら、目の中の星屑もはっきりと見えていることだろう。


「あの、すみません。覗いていたわけでは」


 そう言って、顔を背ける。すると女性は、驚くことにイザヤの革手袋の手を静かに掴んだ。


「どうぞ。見ていってください」

「ルーナ」


 もう一人の女性が、戸惑いの混じった声を上げた。


「いいじゃない、ノーラ。旅のお方には親切にしなくちゃ」

「でもその方、お困りのようよ。顔が青ざめているわ」


 頭の中で、くつくつと笑い声が響く。


『おまえ、動揺しすぎだろ。気持ちはわからないでもないが』

「あら、赤くなった」


 手を取った女性が言うと、もう一人の女性からくすりと笑いが漏れた。

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