ハイキング
就活。
エックスはぼそっと呟いた。自宅で一人ぽつねんとしている午前10時。日差しが大きな窓から差し込んできていて、机に突っ伏している彼女の頬を照らしている。
公平はいない。『説明会を受けてみようかなって』とか言って出て行った。東京にある某企業らしい。
「なーんで就職?というかなんで東京?引っ越すのヤだよボク」
住み慣れた土地を離れるのはイヤだ。けれども公平と別々の場所で暮らしたいかと言われるとそれは違う。
東京で生活するための住所を一つ用意するか。
或いはこちらの住所で東京の会社に連絡するか。
どちらにしてもデメリットがある。家賃0で住んでいるこの家とは別にアパート借りると家賃が勿体ない。あちらの賃貸は高いと聞くし、それならこっちで仕事探した方がいい。
後者は恐らく会社側からおかしな目で見られる。ここから東京へ勤めに行くとなると、新幹線を使って片道3時間、交通費8000円以上が毎日かかる計算になる。魔法を使えば全部計上する必要はなくなるが、それを企業側に伝えて納得してくれるかどうかは怪しいところだ。そんな面倒なことをするくらいならこっちで仕事を探した方がいい。
「……ホントになんで東京?」
考えれば考えるほどに釈然としなかった。そんなに東京で生活がしたかったのだろうか。そんな風には見えなかったけれど。
顔を上げて一人の自宅を呆然と見つめる。公平が向こうで勤めることになった時の、もう一つの選択肢。『イヤだけど諦めてこの家を引き払う』という選択が頭の中に過った。つまりは引っ越しである。
まだこの家に来てから2年も経っていない。この街で生活するようになったのも高々3~4年だ。引っ越しをするとなれば、きっと新しい街の方が長く生活することになる。
エックスはこの街を大切に思っているが、それ以上に公平のことが大切だった。だから彼が引っ越すというのならば、一緒についていくつもりである。そして、そうなったとしてもエックスはこの街のことを忘れない自信がある。
ただ、エックスが覚えていたとしても、街の方が先にエックスを忘れてしまうのだ。
自分がいなくなった後もこの街の時間は当然変わらずに流れていく。必要が無くなったこの家も取り壊しになる。この街で起こる出来事全部が自分とは無関係の事柄になる。
そして、自分の存在がいつの日か思い出よりも薄い何かに変わる。
そこまで考えて、エックスは酷く寂しくなった。胸の奥を寂しさの風が通り抜ける。
「……うん」
それならせめて。
エックスは机から立ち上がると炊飯器のふたを開けた。今朝方多めに炊いておいたご飯は当然まだ残っている。一部はお昼ご飯にして、残りは冷凍して明日のお昼のチャーハンにするつもりだった。けどやめた。ここで全部使うことにする。
次に冷蔵庫を開けて中を確認。明太子に昆布にウメボシ。それから今晩のおかずにする予定のシャケ。十分だ。
最初にシャケを一切れ切ってやって、魔法の炎で適当な加減で焼いてやる。いい匂いがしてきた。少し上機嫌になったエックスは、鼻唄を歌いながらご飯を大きめのどんぶりへよそう。適当な分量の塩を振りかけて、冷蔵庫の中にあったご飯のお供たちを中に詰めて、握る。
こういう時魔女の肉体はお得だ。人間だと熱くて手が出せないご飯も平気でおにぎりにしてしまえる。少し硬めに握ってから、のりを撒いてやれば、合計4個のおにぎりの感性である。
「よーしっ。おっけいおっけい」
魔法で作った弁当箱におにぎり4個を入れて、ちょっとしたお弁当の完成である。本当はおかずも用意したかったけれど、それをすると晩御飯の予定が狂うのでやめておいた。
魔法で早着替えをし、お弁当を手提げかばんに入れて、家を出る。いつかこの街と別れる日は来る。街がエックスのことを忘れる日も。それでも寂しくないように、思い出を作っておこうと思った。本当は公平と一緒が良かったけれど、いないのは仕方がない。
「さあて。どこに行こうかなあ?」
目的地は決めていない。決まっているのは、適当に歩いて、よさそうなところでお弁当を食べるだけのハイキングをするということだけである。
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住宅街を歩いていると、喫茶店のシャロンを通り過ぎた。そう言えばここにはあまり行けていない。今日はハイキングなので仕方ないが、後日コーヒーを飲みに行こうと思った行ける時に行かないと、遂に行けなくなるかもしれないのだし。
そこから歩いていってメインストリートへ。大きな県道沿いには飲食店やコンビニや雑貨店なんかが立ち並んでいる。スーパー小枝があるのもこの辺り──という道を挟んでちょうど向かいにある。
飲み物でも買っていこうか。県道を横切るのが一番近道だが、車が何台も行き交っていて危ない。人間サイズに縮んでいるとはいえ、魔女と正面衝突したら一般車などは済まないだろう。
止むを得ない。少し歩くが横断歩道まで行こうか。小枝に入るにはちょっとだけ戻らないといけないのが億劫だが仕方ない……。
「……あっ。そうだ」
そこでエックスは名案を思いついた。横断歩道まで歩かなくても。県道を歩いて横切らなくてもいい方法がある。
軽く助走をつけてぴょんと跳躍する。車を跳び越える高さで、片側二車線の道路の向こう側まで。要するに走り幅跳びである。魔女の身体能力であればこれくらい容易だ。
「よっ、と」
華麗に着地する。お弁当が無かったらここに回転を加えて芸術点を取りに行っているところだ。
ともあれこれでショートカットできたので、改めてスーパー小枝へ向かい、98円のペットボトルのお茶を買って出てくる。次は川沿いを歩くことにした。その後はもうちょっとだけ歩いて郊外まで行ってみようか。或いは更にその先の、行きつくところまで行ってもいい。
歩きながら左手に流れる川に目を向けてみる。日の光が水面に反射して、煌めいていた。目を凝らしてみれば魚が群れになって泳いでいる。恐らくはコイ。
公平の家ではニシキゴイとか言うカラフルなコイを飼っていたらしい。調べてはいないので、どんな色なのかエックスは知らない。
「熱帯魚みたいな色かな。赤とか青とか緑とか……?」
見知らぬニシキゴイに想いを馳せていると、右手にある小さな公園のブランコに小学生くらいの男の子がいた。寂しげにブランコを漕いでいる。目に入ると気になってしまう。今日は平日。時間は昼前。学校はお休みではないはず。ではあの子どもは一体何をしているのか。
興味があった。ニシキゴイよりもよっぽど。エックスはにまにましながら俯いている少年の元へと駆け足で寄っていく。
「おーい。少年?」
声をかけると少年はびくっとした様子でエックスを見上げた。
「だれ……?」
「ボクのことよりキミだ少年。こんなところで何してるのかなー?学校は?」
「……別にいいでしょ」
「サボり?なんでサボってんの?」
ずけずけと聞きながら、エックスは少年の隣のブランコに座った。少年は露骨にイヤな顔をする。
「なんだよ。その顔」
「ほっといてよ。俺のことは」
「いや。放っておかない。貴重な暇つぶしだからね」
「暇……」
「それで?なんで学校サボってんの?」
少年はエックスに聞かせるような音で舌打ちをすると、ブランコから立ち上がって、どこかへ歩いていく。どうせ当てもないくせに。その生意気なところが面白くて、思わずエックスは後をつけてしまった。
「ついてくんなよ!」
「いーじゃーん。お姉ちゃんと話しようぜー」
「防犯ブザー鳴らすぞ!」
「いいよー」
エックスは防犯ブザーを恐れていない。警察が来たとて恐れるに足る相手ではないからだ。切り札が効かないと分かって、少年はまた舌打ちをする。
「仕方ないなー。じゃあ交換条件でどう?」
「交換条件?」
「おにぎりあげる。お腹すいたろ?美味しさは保証する。後は……いい景色でご飯を食べる権利とか?」
「意味わかんねえし!」
「えーじゃあ仕方ないな。先払いでいいよ」
「は?」
「とおっ」
かけ声と共にエックスは川に向かって走りだした。そうしてこの日2回目の大ジャンプをしてみせる。10m以上の高さまで登ったところで、下方に目を向けた。
(川幅は……20mくらいか)
それならば、本来の大きさに戻ったとしても、足が川からはみ出すことはない。ギリギリ収まるはずだ。
落ちながらエックスは自身にかけた縮小の魔法を解いた。人間大の大きさでしかなかった彼女の身体が、巨人の大きさに一気に膨れ上がる。
そして、殆ど飛び蹴りするみたいな恰好で、エックスは川へと着地した。突然に落ちてきた超巨大質量が川の水を撥ね上げようとするので、魔法でそれを無理やりに抑え込む。
「……とっ!ふふん。どーだっ」
「あ……」
少年の反応はない。ビックリして腰を抜かしているらしい。自分を揶揄ってきた女の人が突然巨大化したのだから無理もない話である。
エックスは暫くの間、呆けている少年を観察していたが、やがて飽きてしまってそっと手を伸ばした。
突然に迫ってくる巨大な手。深い影が包み込む。少年は咄嗟に逃げようとしたけれど、時すでに遅く、エックスの指先に摘まみ上げられることとなってしまう。
「う、うわっ。はな、はなして!」
「まあまあ。一緒にご飯食べるだけだって」
言うとエックスは少年を手のひらの上に乗せた。それから彼女と一緒に巨大化した手提げかばんを漁って、おにぎりを1個取り出す。そいつを人間用のサイズに戻してやって、指先に乗せて、少年に渡した。
「はい。中身は梅かシャケか昆布か明太子。それが何かは分からない。おにぎりロシアンルーレットだ」
「え?え?」
少年は戸惑いながら手元にある大き目のおにぎりと自分を見下ろす巨人の顔とを交互に見比べる。
「別に変なモノは入ってないよ?」
言うとエックスはまた手提げからおにぎりを取り出して、今度は縮めずにそのまま齧り付いた。むぐむぐと口を動かしながら少年を見つめて、飲み込んだ後に「ほらっ!」と得意げに言う。
「は……」
夢でも見ているような顔で少年もエックスの真似をするようにおにぎりを齧る。何か釈然としないモヤモヤしたものを感じているらしいが、味に不満はなさそうだ。
「ほらー。どうよ。ボクの手の上から見る景色って結構いいでしょー?」
「……高いだけだよ」
「えー……生意気……」
また一口少年がおにぎりを齧る。それを飲み込んでから「今日は……」と口を開いたので、エックスは「いいよ言わなくて」と続きを遮る。
「面白そーだからちょっかい出しただけでイヤな話をさせたかったわけじゃないからね。学校行くのも行かないのもキミの自由だ」
「……」
「大抵のことは巨人のお姉さんに捕まってしまうより大したことじゃないよ。気楽に好きにやればいいさ」
おにぎりの最後の一口を食べ終えたので、エックスは少年を再び公園に降ろしてやる。手に付いた米粒を舐めとると、夢の中にいるみたいな顔をしている少年に手を振った。
寂しさはだいぶ紛れた。もう家に帰っても大丈夫だ。
「学校は行かなくてもいいけど勉強はしろよ、少年。じゃあね?」
そう言って、空間の裂け目を開けて、エックスは自宅へ帰っていく。生意気な少年は何も言えずに、食べかけのおにぎりを握ったまま、彼女を見送るのであった。
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「エックス、お前なんかニュースになってるって田中が言ってたよ?」
「え?あー……なったかもね。そうかニュースか。うん。いいんじゃない?」
台所で晩御飯の用意をしているエックスは、リビングでネットニュースを見ている公平の言葉を背中で聞いた。
何らかの形でメディアに出るのは好都合である。その分、自分がいたことを街が覚えてくれる気がするからだ。
そんなエックスの気持ちを公平は推し量ることが出来ずに、怪訝な表情をする。
「いいって何が……騒ぎになってるのに」
「いいの」
言いながらエックスはリビングに戻ってくる。手には焼いたシャケを載せたお皿が2つ。一つは少しだけ欠けていた。こちらはエックスの分である。
テーブルの上に皿を乗せて、公平の分は人間用にサイズを合わせて、それからエックスは続けて言う。
「そのうち東京に行くんだろ」
「え?」
「その時は付いていくけど、せめてちょっとでもボクのことを覚えてもらいたいからね。騒ぎになるくらいがちょうどいいのさ」
「……東京って何の話?」
公平があまりに素のテンションで聞いてくるので、エックスの方も戸惑ってしまって、思わずまばたきが早くなった。
「だって東京の会社の就活に……」
「ああ。あれ?ああ、違う違う」
「違う……とは?
「あれは説明会っていうのに出てみたかったからテキトーな会社に応募しただけ。就職するならこの辺で探すよ」
「……」
「だってエックス引っ越したくないだろ。……うわっ、ちょっ何を……」
公平が何か言っているけれど無視して、彼を摘まんだまま台所へ行く。それから菜箸で彼を持ち返ると、魔法のコンロに火をつけて、公平を摘まんだ菜箸をそこに近付けた。
「うわっ!?ええ、ちょっ!なにすんの!?」
「引っ越す気がないなら先に言えよ!」
「ええっ!?」
無駄にナーバスになって。無駄に恥をかいただけ。全部公平が悪い。説明をしなかった公平が悪い。
「だからちょっと火あぶりになるくらいの罰は受けてもらうぞ!」
「熱い!ちょっ、熱いって!」