治安が悪すぎる
女を殴りたい。
気取った女を殴ってやりたい。自分のことを美人だと思っている女を殴りつけて、心も体も汚してやりたい。そういう癖が俺の中にはあった。好みの女を見ると、つい考えてしまうのだ。
衝動が胸の中を真っ黒に染める時、俺は奥歯を強く噛み締めることで抑え込んでいる。そうすることで俺はどうにか社会に溶け込むことが出来て、いた。
スーパーに入って、総菜パンとコーヒーを手に取って会計する。財布の中には250円しか入っていなかった。200円を出して小銭を受け取る。駆け足で店の出入口に向かいながら、残金を頭の中で計算する。これで俺の財布には100円も入っていない状態になった。
俺のような男が結婚をしたのが間違いだったのだ。
弟が先に結婚をして、子どもができた。親の何か言いたげな気配を察知した俺は婚活アプリやら婚活イベントやらに参加することにした。努力している雰囲気だけ見せようと思った。
そうこうしている時に新卒の女が俺の会社に入社してきて、俺はその教育係になった。いい大学を卒業した、背の高い、自信に満ち溢れた美人。俺の好みの女だった。
奥歯を噛みながら仕事を続けた。女はいつの間にか俺に懐いてきていて、成り行きで交際が始まって、とんとん拍子で結婚することになった。
そして。その辺りでタガが外れた。恋人という他人が、妻という家族になったことがきっかけだったと思う。
離婚の原因は家庭内DV。100%俺の有責。多額の慰謝料を支払い、実家からは縁を切られ、会社では閑職に移されて、そのまま退職した。
離婚後に引っ越したアパートは家賃滞納の末に追い出された。残った金でネットカフェを転々とし、それも尽きて今日に至る。
パンを食ったら死のうと思う。スーパーの駐輪場の隣に座って、包装を破り、貪る。食いながら自分で自分が情けなく感じた。生まれながらに抱えているものを御しきれず、堕ちるところにまで堕ちてなお、腹が減る。ここから先は生きていても人様に迷惑をかけるだけ。早く、死んだ方がいい。
「あ。ダメですよー。そんなとこに座ったら」
女の声といい匂い。俺は反射的に顔を上げる。
背の高い女。
美人の女。
緋色の瞳は堂々としていて、強い自信を感じさせる。
「あ」
「ほら。あっちに公園あるから。こんなところでそんなことしてたら変な目で見られますよ?」
俺の、好みの女だ。
「じゃあ。そういうことなので!」
そう言って女はスーパーから離れていった。歩道を歩く彼女の手には買い物袋があった。ぱんぱんに詰まっていて、ネギが飛び出している。その日常感が、浮世離れした美しさを纏う彼女とはアンバランスで、一層目を惹きつけた。
頭の中で、女の鼻先を殴りつけることを想像した。無意識にそれをした自分が恐ろしくなって、俺は咄嗟に奥歯を噛む。『やめろ、やめろ』と呟く。
『けどさ。お前もう死ぬんだろ。ならいいじゃないか。最後に一回くらい』
心の奥から声がする。魔が差すとはこのことか。奥歯を一層強く噛む。恐怖に歪んだ女の顔を消し去ろうとする。
『どうせ死ぬならさ。好きなことして死のうぜ。死んじまえば後のコトなんか考えなくていい』
「ダメだ。実家に迷惑が」
『親父もお袋も縁切りしたんだ。迷惑なんてかかるかよ』
「っ」
心の奥から聞こえる声は、一層大きくなる。奥歯が痛い。恐い。自分が恐い。自分の欲望を抑える理由が、もう何もないことが恐い。
顔を上げるとスーパーのガラス窓に俺の顔が映っていた。ぞっとするような薄ら笑いがそこにあった。
パンの袋をジーパンのポケットに突っ込んで立ち上がる。まだ女の後姿は見える距離にあった。
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殴る。壊す。殴る。犯す。
単純な言葉だけが頭の中に広がる。獣の欲望が大きくなっていって、理性の入る余地が少しずつなくなっていく。
女の後姿は一定の速度で歩き続けていた。こちらに気付いているのであれば駆け足で逃げるはず。そういうことがない以上、彼女はこの尾行にきっと気付いていない。
殴る。殴る。殴る。殴る。
泣き顔。苦悶。血。悲鳴。想像が妄想が俺をがんじがらめにして、この悪行以外の身動きが取れない。
息遣いが荒くなる。心臓の鼓動が早くなる。だのに足取りは彼女に気付かれないようにと冷静に、静かに進んでいた。
女が一軒家に入った。俺は思わず舌打ちした。人気のないところで行為に及ぶつもりだったのに。
玄関が閉じたのを確認したところで、俺は駆け足になる。
新築に見える家だった。彼女はここに住んでいるのだろうか。表札らしいものはない。半ば諦めながら、俺は玄関の扉をゆっくりと開ける。
「あっ」
鍵はかかっていなかった。それが分かった瞬間に俺の心臓は一層早く鼓動した。
殴れる。壊せる。殴れる。犯せる。
口角が歪んでいることを自覚したのは一瞬遅れて。その瞬間に俺は俺という人間の本質を改めて理解する。結局、そういうことなんだ。
俺は扉を一気に開けた。
「あ……?」
そこには女が立っていた。呆れたような顔をしている。一瞬俺は怯んで、すぐに探す手間が省けたってことじゃないかと思い直し、家の中に一歩足を踏み入れた。同時に視界がぐにゃんと歪んだ。
瞬きをした瞬間に景色が何もかも変わっていた。巨大な靴。遥かに高い壁のような土間とその先を区分けする段差。顔を上げると、あの女が巨人として、腕組しながら俺を見下ろしている。
「全く。公園に行けって言ったのに。なんでウチに来たんだい?」
「あ……ああ……」
「まあ。正気な顔じゃなかったし。理由を聞く必要はないかな」
「ああっ!」
女が手を伸ばしてくる。一瞬遅れて俺は慌てて逃げ出した。しかしこの圧倒的な対格差を覆すことはできず、俺はあっさりと女の指先に捕まってしまって、そのまま顔の高さにまで連れていかれる。
数十メートル、或いはそれ以上の高さ。足は完全にフリーの状態で頼りない。自分が落ちないでいられるのは目の前にいる巨人の指先のおかげ。物理的に命を握られている状態であることをイヤになるくらい自覚させられる。
「さあ。話しなさい。一体なんのつもり?通販の配達じゃないし近くで引っ越しがあった様子もない。なら一体どうしてスーパー小枝からボクの後ろについてきたのかな?」
「あ、ああ……」
謝れ。謝ってしまえ。もしかしたら素直に話したら許してもらえるかもしれない。
「早く言いなさい。素直に言えばこの後の扱いも考えてあげるぞ」
「ああ。あああ……」
分かっている。もう謝る以外の選択肢はない。分かっているつもりだ。分かっているつもりなのに。
「ほら、早く……」
「ああああああああっ!」
「わっ!?」
分かっていても、俺の心も体も、謝るなんてことをしてくれなかった。
死んでもいいと思っている。これで終わりでいいと思っている。だから最後に胸の内で渦巻いている全てを、俺は叫んでいた。
自分でも何を言っているのか分からなかった。意味が通る言葉のはずなのに、めちゃくちゃなことを言っている気がする。口を開くたびに、巨人の女の顔はどんどん不愉快な表情に変わっていく。
やがて俺の口は言葉を発するのをやめた。言いつくしたからではない。巨人の指先が胸を押さえつけて、息ができないくらいに圧迫されたからである。
「キミが女の子に対して思っていることはよーく分かった。うん。これはちょっと酷い目に遭っておいたほうがいいみたいだね」
言うと巨人は回れ右をして俺を連れて廊下を歩く。抜け出そうとじたばたしてみるけれど、指の力は強く、脱出できない。
玄関の扉が遠ざかっていく。逃げ道が遠くなっていく。
どこで間違えたんだろう。俺は扉を見つめながらぼんやりと考えた。
--------------〇--------------
「……ってことがあって。今日だよ今日。全く困ったもんだよ!」
エックスはぷんぷん起こりながらカレーを口に運んだ。流石に今日の男はエックスとしても不愉快だった。口を開けば女は劣等種だの男に逆らうなだの。だから少し懲らしめてから警察に突き出してやったのである。
話を聞いている公平の手は止まっていて、呆然とした顔でエックスを見つめている。
「……ん?どうかした?」
「いや、あの……。……別に。なんでもない」
「……?変なの」
言わないでおくことにする。『この辺り治安悪すぎじゃない?』という感想は。




