歯を磨こう
「あ。いいこと思いついた」
エックスはポンと手を叩いた。見上げた緋色の目はキラキラしている。その瞳が机の上にいる公平に向けられた。反射的に反転して逃げ出す。
その二秒後。彼は彼女の手の中に囚われる。
「ねえ。何で逃げたの?」
「イヤな予感がしたから」
最近鋭くなってきたなとエックスは苦笑いする。逃げたバツとして無言でにぎにぎしてみる。公平は「ヤメロー」と騒いだ。
「まったく。にぎにぎ。失礼だよ公平は。にぎにぎ。ボクはそんなに酷いことばっかりしないんだから。にぎにぎ」
「してる!今してる!」
「まあ。それはそれだ」
にぎにぎ。にぎにぎ。彼のかよわい抵抗を楽しむ。こんなんでもその気になれば強いのに。それでも彼女には敵わないのだけれど、そういう公平を弄んでいるのは何だか楽しかった。最後はちょっとだけ強く握ってみる。
「うぎゅ」
変な声が手の中で聞こえる。開いてみて、そこで動けなくなっている公平に瞳を近づけた。
「今日の所はこれで許してあげよう」
「り、理不尽だ……」
「それでお願いしたいことがあるんだけど」
「まだ何かさせる気かよ!?」
「ボクはこの身体でもちゃんと歯を磨いている。それはキミも知っていると思うけど」
無視された。公平は少し悲しくなった。
「当然ピカピカに。綺麗にしているわけだけど。けど。細かいところを磨くのって大変じゃない?」
「……いやだ」
「そこのキミの出番というわけ」
無視された。あんぐりした。キミの意見なんかもう聞かないよモードである。こうなるともう諦めるしかない。どうせ逃げられないのだ。
彼女の手の上、公平の目の前でポンと煙が上がって、大きなブラシが現れた。
「磨いて?」
彼女はにっこりして言った。公平は乾いた笑い声と共にブラシを掴んだ。それを認めると、彼を摘まみ上げてひょいと口内に放り投げる。
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暗い。それでいてジメジメしている。口の中なのだから当然だ。ズンズンと揺れている。彼女が歩いているのが分かった。かと思うと立ち止まる。口が開いて光が入り込んでくる。
向こう側には鏡がある。口の中に入り込んだ自分の姿が見えた。心の中でエックスの声が響く。
『奥歯から磨いてねー』
「はいはーい」
公平は右側の下の奥歯に向かって歩き出した。突然口の中全体が揺れる。
「な、なんだ!?」
『くすぐったいよお』
「分かり切ってたことだろーが!」
『うーん。公平が大きすぎるのが悪いんだな』
「へ?」
公平の身体を緋色の光が包む。口の中の空間が広がっていく。
「お、おいおい……」
世界に置いていかれるような感覚。天井が遠くなって、地面は広くなっていって自分だけはそのまま。何だか心細い。腰くらいの大きさだった彼女の歯は、肩くらいの大きさになって目線と同じくらいの大きさになって、遂には彼よりも大きくなった。
『うん。それくらいがいい』
彼女の力で小さくさせられたのを理解する。服やブラシも一緒に付いてきてくれた。
「……まあ。それくらいは出来るか」
改めて奥歯に向かう。全容を窺おうと思ったら見上げなければならない。全体を磨こうと思ったら、いっぱいに手を伸ばさないといけない。
「俺どれくらい小さくなったんだろ」
『うーん?普段の大きさの半分よりちょっとちっちゃいくらい』
「へえ」
『ボクが人間大の大きさだったら、そうねー。1cmはないね』
「えっ!?じゃあミリ単位!?ちっちゃ!お、おい!間違って飲み込むなよ!」
『飲み込まないよー』
呑気な声が返ってくる。不安だ。
自分の歯を舌で撫でながら自分の位置を意識する。
「あ。すごい。コレ親不知だろ。めっちゃ真っ直ぐ伸びてる」
『それってすごいのかなあ』
「羨ましいよ。変な伸び方したら痛むからさ。抜かないといけなくなるよ」
『え……嘘。よかったぁ。だってボクの歯なんて誰も抜けないじゃないか』
彼女と会話をしながら親不知を磨き始めた。ブラシを使ってごしごしと。それを通じて、彼女の歯の硬さが伝わってくる。
(……あれ?)
ふと気付いた。彼女の歯は最初からすごくキレイだ。直前に歯を磨いていたのではないかと思うくらい。いやむしろそれでもおかしくはない。
普段、魔女の身体で食事をしないとは言っても汚れているかもしれない場所に放り込むとは思えない。このお遊びの前に普段より念入りに歯を磨いていてもおかしくはない。
「……まあ。いいか」
歯と歯の間は入念に。とは言えやはり汚れはない。無駄なことをしているような気がしてならない。
背後から生暖かい風が吹いてくる。向こう側は彼女の体内の更に奥へと続く大穴。落ちてしまえば人間の形では出てくることは出来ない。この小さな身体では胃に落ちた瞬間に一片も残らず消化されてしまうだろう。
「まあ。心配はないんだろうけど」
少し強めに動かしてみた。歯茎の方までブラシでマッサージしてみる。
「んう……」
エックスの声が口腔内に響いた。気持ちいいのだろうか。そうだとしたらちょっとだけ嬉しい。
奥歯の内側を磨き終えて、犬歯へ。見上げる白い歯は先端が少しだけとがっていた。更にその上。上部の犬歯はより鋭くできている。ここに噛まれれば逃げ出すことが出来ないまま身体を貫かれるのだろう。ここにもブラシを走らせる。とは言え汚れてはいないのだが。
無限に歯磨き粉が湧いて出てくるみたいでいくらでも磨ける。こんな歯ブラシが自分もほしい。磨くのがちょっとだけ面白くなってきた。彼女の歯並びは綺麗だ。変な隙間も無くて磨きやすい。
口の中に唾液があふれ出てくる。腰に浸かるくらいまで溜まったら、器用にそれだけを飲み込んでくれる。溺れるようなことはないけれど、身体はびしょびしょだった。
前歯は獲物を切り裂くギロチンである。ふと興味が湧いて、つま先立ちになる。前歯の先に手を伸ばしてみる。すると彼女の舌が伸びてきて、そこから離した。一端舌の下に包み込んで、それから外へと開放する。
『もう。切れたらどうすんの。危ないよ』
「危ないと思うならこんなことさせんな」
またしても口の中が揺れる。奥から笑い声が聞こえてくる。中で転がって、前歯の内側に頭をぶつけてしまう。
「笑うな!よせっ!危ないから!」
『ゴメンゴメン』
「……ったく」
それから前歯を磨いて、左の奥へと。そちら側の親不知まで磨き終わったところで既に30分以上経っていた。裏側を磨くだけでこれ。一本当たり2分以上。もう疲れた。
『じゃあ。次。歯の上ね』
舌が公平の身体を持ち上げて、左の奥歯に載せる。
「お、おれもうへとへとなんだけど……」
そう言うと彼女の舌が怪物の如く襲い掛かってきて硬い奥歯に押し付けてきた。
『磨いてよお。あとは下の歯の噛み合わせだけ綺麗にしてくれたらいいからさあ』
優しく言ってはいるけれども、その内容は四の五の言わずやれと言うメッセージでしかない。仕方がないので手元のブラシで親不知から順番に磨いていく。
岩のように固く白い塊。彼女の奥歯に載せられているのを実感する。ここは口の中に招いた獲物を磨り潰すための場所。上の歯が落ちてきたらどうなるんだろうなとぼんやり思った。
それがいけなかったのかもしれない。急に空が落ちてきて、光が小さくなる。そして、上下の奥歯に挟み込まれた。
「お、おい……!」
エックスは答えない。代わりに奥歯で噛んでくる。だが潰されるような力ではなくて、甘噛みのようなもの。痛みもそれほどない。ただ動けない。物は試しと押し返してみるも、彼女の顎の力には敵わない。ただ自然にしているだけなのに。
上の歯と下の歯とが、その間の獲物を磨り潰すように動く。実際には、そこにいる公平の感触を楽しんでいるだけのようであって、当然潰されたりバラバラに粉砕されたりはしない。
もう抗うのは止めた。それでも問題はないだろうと思った。きゅうきゅうと押しつぶされても抵抗はしない。されるがままに。彼女の好きにさせた。それで満足してくれるなら、もうそれでいいやと思って。
暫く玩具にされて。やがて、満足したのか上の歯が離れていく。同時に巨大な舌が公平を掬っていって表面に張り付けた。
エックスは鏡の前でべえっと舌を出す。公平は彼女の舌にくっつく小さな自分の姿を見た。
「酷いな」
「かあいいよ」
舌ったらずに言う。それに連動して、彼を捕える舌が震えた。それでも落ちたりはしない。彼女の大きさと自分の小ささを感じる。久しぶりに彼女の生の声を聞いたような気がした。時間にしたら一時間にも満たない。だけど彼女の口の中は異次元のようで、時間の流れが狂ったみたいに長く感じた。
エックスの指先が舌に迫って、公平を回収する。元の大きさに戻すと水の魔法で身体を洗ってくれた。
「まだ磨き終わってないけど?」
「んー?うん。もう大丈夫。ありがと。楽しかったよ」
エックスはにっこりして答えた。巨人の女の子は気まぐれである。公平は苦笑いした。
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ちゃぱちゃぱと音を立てる魔法の水は鏡の下にある洗面台に落ちていって、どこかへ流れていく。唾液にまみれてべたべたの身体がさっぱりしていく。
「ねえ?」
「うん?」
「恐かった?」
「別に?」
「そう?」
「何で?」
「別に?」
エックスはクスっと笑った。その気になれば。飲み込んで溶かしてしまうことも出来る。唾液の海で溺死させることも出来る。前歯で首を落とすことも出来る。犬歯で貫くことも出来る。奥歯で磨り潰すことも出来る。
あらゆる手段で人間を残酷に殺すことのできる場所が彼女の口の中。そんなところに普段より小さくなった身体で放り込まれて、それでも我儘を聞いてくれた。怖がることなく歯を磨いてくれた。口ではあーだこーだと言いながらちゃんと付き合ってくれる。
「ボクは幸せ者だなって」
またやってほしいな。そんな風に思った。