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たんぽぽ

ルフェリア・ベルノット侯爵令嬢。サリンジャー侯爵家次男の婚約者。世間は私をそう呼ぶ。


愛されていないどころか、放置されている婚約者。社交界での笑い者で、嘲笑の的だ。


同情してくれる人もいるが、悪意を持つ者の方が強いのだ。愚かで良心を持たない分、躊躇がないから。



「あら失礼。手が滑ってしまって」



そんなありきたりなセリフで、爵位が上の相手に当たり前のように紅茶をかけた時の、彼女らの顔は実に醜悪だ。



「お若いのに、もう指先に震えが出ていらっしゃるの?大変ね、お大事になさって?今度お医者様を紹介させていただきますわね。私今日は着替えがありませんので、これで失礼させていただきますわ。では、ごきげんよう」



優雅に微笑み、完璧なカーテシーをしてやると、彼女らは顔を真っ赤にして悔しそうにしている。


ただで転んでなどやるものか。


主催者には後で手紙を送らないといけないな。


しかしこのまま素直に帰るのも癪だと考え、一度帰らせていた迎えの馬車が来るまで、と誰に対してでもなく言い訳して、茶会とは別の庭園へと向かう。


普段から交流のある公爵家の庭園は、ある程度好きに見て回って構わないというお許しは既に得ている。


ちょうど全体を見渡せるような位置にあるベンチに座り、庭園の花々を見渡す。



ベルノット侯爵家は力こそ強くはないが、古くから続く名家と言われる家門の一つ。現当主である父は家族を深く愛するあまり、若くして妻を亡くしてから今まで、再婚はしなかった。子は娘の私一人なので婿をとることになり、価格の釣り合うサリンジャー家の名が挙がった。


長男は優秀な人であるが、次男はダメだった。出来の悪い、なんて言い方は生ぬるい。浪費を繰り返し、女性との噂の絶えない下半身のだらしない男であるらしい。らしい、というのは、私はほぼ会話をしたことがないからだ。


会いに来ることはないし、こちらからも行かない。贈り物をもらったことは一度もないし、同伴が必要な夜会は会場前で合流し、挨拶もないまま入場したらすぐ別れてそれきり。名前すら思い出せない。


婚約破棄の話は出ているが、そうなればキズがつくのはこちらばかりで、新たな相手も見つかっていないので踏み切れない。分家から養子をとるにしても今更過ぎる。


けれど、どうしてもあの男とは結婚したくない。家のためにも、私自身のためにも。今はじっと耐えて、時を待つのだ。


よし、と自分に喝を入れる為に拳を握ったところで、カサリと芝生を踏む音がして、反射的にそちらを向いた。



「こんな所にレディがいらっしゃるとは思いませんでした。ごきげんよう、レディ。そちらへ行っても構いませんか?」



何の偏見も感じさせない紳士的な態度をとられたのは久しぶりで、数瞬、反応が遅れてしまった。



「ここの主人ではない私が言うのも何ですが、どうぞご遠慮なく」



淑女らしく穏やかに笑って見せた。紳士な男はありがとうございます、と言ってドレスに触れない程度の距離をとってベンチへ腰かけた。


途端、妙に緊張してしまって、不躾にならない程度にチラチラと相手を横目で見た。


艶やかな金髪をサイドに流して緩くまとめているだけなのに野暮ったさはなく、寧ろスマートにすら見える。優しげな瞳は空色で澄んでいて美しい。面立ちを整い過ぎていて怖いくらいだ。


この公爵家には私と同じ歳の、王太子の婚約者である娘とその兄が一人いるが、そのどちらでもないし、他にこんな恐ろしく美しい人はいなかった。そもそも公爵家の人間ならばプラチナブロンドに深い青の瞳をしているはずだ。今日の茶会の招待客も女性ばかりだった。



「どうかしましたか、レディ?私の顔に何かついていますか?」



明らかに分かってて言っている。私が気になってチラチラ盗み見ていたのを知ってて言っている。からかわれているんだろうか。



「い、いいえ、そんなことは。ただ、お見受けしたことのない方だと思いまして」



何とか体裁を整えて愛想笑いをする。遠まわしに名乗らせようという悪知恵も働かせた。



「そうでしょうね。社交界はあまり好きではないので。ですが、少しは顔を出しておくべきだったと後悔しているところです。花の名前が分からずに歯痒い思いをするのは初めてです」



言いながら彼は目を細めて微笑んだ。名乗らせようとしたフリを優雅にかわされ、逆に探られている。してやられる悔しさよりも、この曖昧なやりとりを続けたいと思った。



「まあ、それは大変ですわね。私で良ければお力になりますわ。それはどんな花でしょう?この庭園にあるかしら?」



少しわざとらしい素振りで庭園に視線を向ける。彼は隣でこれまたわざとらしく、そうですね、と思案するように呟いて庭園の花々を見渡し、最後にこちらに視線を戻した。



「ここにあるような気もしますが、残念ながらよく分かりませんでした。貴女のような花なのですが」



――分かってる。これは名前の代わりにその花の名で呼ぶ時の常套句だ。でも、これ程皮肉めいた言葉はないと思うと、自然に見える淑女の微笑みが作れない。


無理やり作った微笑みに自嘲が混ざったのを悟られまいと正面を向いたまま口を開く。



「それでしたら、きっとここにはありません」


「ここにない程珍しいと?」


「いいえ。きっと道端でたくさん見られますわ。それは多分、野花ですもの」



何だか惨めになってしまって、相手を見ることすら出来ない。


淑女ぶってはいるけど、ドレスはかけられた紅茶で汚れている。


相手を勝手に紳士だと思い込んだが、汚れたドレスで一人でいる、いかにも可哀想な令嬢に同情したか、単に面白がって声をかけたかに過ぎないのだろう。


こんな人が社交界に疎いわけがないのに。


きっと私が何者かなんて知っているに違いない。


今更ながら悔しいやら恥ずかしいやら。でもここで感情的になって立ち去ったりしては余計に惨めだと思い留まり、ぐっと拳を握ってこらえる。



「…そうですか。では、探してきますので、しばらく待っていてください」



予想もしていなかった言葉に思わず顔を向けると、彼は立ち上がってニコリと微笑み、あっという間に姿が見えなくなった。


スラリとした長身で足も長いから歩くのも速いのね、なんて考えてからハッとして、軽く頭を振って思考を切り替える。


探してくるから待っていろ、確かにそう言った。本気なんだろうか?からかわれているだけなら待ちぼうけになるが、どのみち馬車の迎えを待っているのだからここを動く気はないが。でも浮かれて暢気に待っていた、なんて笑い者にされるんだろうか。


などなど、あれこれ考え込んでいるうちに時が過ぎ、また足音が聞こえた方へと顔を向ける。



「ああ、良かった。まだいてくれたんですね。納得のいくものがなかなか見つからなくて。やっと一輪、見つけました」



ホッとしたような優しげな笑みを浮かべて、彼はあっという間に目の前まで来て、わざわざ跪いて花を一輪、差し出してきた。



「…たんぽぽ、ですね」



暖かい陽だまりのような色をした、大輪のたんぽぽ。


差し出されるままに受け取り、少し顔に近づけてじっと眺める。



「お気に召しませんでしたか?」


「…いいえ。とっても綺麗。ありがとうございます、こんなに素敵な贈り物は初めてですわ」



ぎゅっと握りしめたくなるのを必死にこらえたせいで震えた手元を見たのか、彼からは窺うような視線を向けられたが、それどころではなかった。


男性から花を贈られたのは初めてだった。花どころか、贈り物そのものが初めてで。隠しきれなかった喜びが表情に思いきり出てしまっていたことに気付かない程度には浮かれていた。



「…そこまで喜んでいただけるとは思ってもみませんでした。どうせなら花束でお渡ししたかったですね」



彼は口元を緩ませて目を伏せながら立ち上がり、ほんの少し首を傾けて苦笑を浮かべた。



「まあ、ご存じないのですか?この大輪のたんぽぽ、一輪の花に見えますが、実はこの花びら一枚一枚が一つの花なのです。ですからこれは、立派な花束ですわ」



目の前に立つ相手にも良く見えるようにと腕を伸ばして差し出しながら説明し、手元に戻すと得意げに笑って見せた。



「そうでしたか、知りませんでした」


「良かったですわ、貴方の力になれて。名前どころか、花そのものの知識が深まりましたでしょう?」



ご満足いただけまして?まで言い切り微笑むと、相手は数瞬目を瞠って、小さく吹き出して笑った。



「参りました、レディ。私の負けです。貴女は本当に素敵な人ですね」


「お褒め頂き光栄ですわ。では、貴方が真に紳士であるならば、勝者のささやかな願いを聞いていただけますよね?」



勝負をしていたわけじゃないのは百も承知だが、ここは敢えて言葉遊びを続けようと思った。



「もちろんです、マイレディ。何なりと」



彼は胸に手を当てわざとらしい礼をとる。何だかずっとふわふわと楽しくて、自然に笑ってしまう。



「では、この花を髪に差していただける?ここには鏡がないから自分では差せないの」



自分の髪を指さしながら伝えると、彼は少し意外そうな顔をして、承知しました、と言って私から花を受け取った。


花と私の髪を交互に見遣って思案し、やがて右耳の上に差し込んだ。



「いかがでしょう、マイレディ」


「鏡がないのが本当に残念だけど、貴方のセンスを信じます。どうもありがとう」



お礼を告げてお互いに微笑みあったところで、自分を探しに来たであろう、この屋敷の使用人が目に入った。さすが空気の読める使用人で、目配せと礼だけで用件を伝えてきた。



「迎えが来たようなので、私はこれで。今日は散々な日だと思っていましたが、貴方のお陰で素敵な日になりました。本当にありがとうございました」



意趣返しの為ではない、少しでも良い印象を残しておきたいというささやかな欲で、精一杯優雅なカーテシーをして、名残惜しい気持ちを画し、自分を案内するために待つ使用人のもとへ行こうとした。


彼の横を通り過ぎようとしたところで、右手をそっと、けれどしっかりと握られ振り返った。



「不躾で申し訳ありません、レディ。ですがどうか、貴女のお名前を教えて頂けませんか?」



真摯な空色の眼差しを向けられ、息を飲む。


本音を言えば、教えて、彼に名を呼ばれてみたい。彼の名も知りたい。呼んでみたい。


けれど名前を知られるということは、社交界での噂も知られるということ。


そうなってしまえば、きっと今日の出来事も台無しになってしまう。


握られていない左手でぐっと拳を握って葛藤を乗り越え、右手を握る彼の手に添えてやんわりと放すように促す。



「今日の出来事は私にとって夢のような一時でした。ですが夢はいつか覚めるもの。またどこかでお会いできたら、その時には改めてご挨拶から始めましょう」



いつもより重い口角を何とか持ち上げて微笑みを浮かべると、彼を振り切るようにはしたなくない程度の急ぎ足で使用人のもとへ向かい、馬車へ着くまで一度も振り返らなかった。


だから、彼がどんな顔をしていたのかもわからなかった。



汚れたドレスに驚く馭者にも一言気にしないでとしか告げられなかった帰り路の間中、右手からは彼の熱が消えなかった。



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