君のいない日常 4
その年の夏は例年とはくらべものにならない猛暑を記録していた。
上がりすぎた気温は夏の風物詩のセミすらも生きられないほどらしく、今年は一度も蝉の声を聞いていない。それと同時に蚊も見かけないのでそちらに関しては願ったり叶ったりと言ったところではあるが。
一番の問題は冷房のない部屋での就寝時だった。
タオルケットをかぶると、なんていう話ではない。数歩歩いただけで汗が滝のように流れてくる。そもそもシャワーを浴びても着替えている間にまた汗をかく始末。一日中自身の汗の感触にうなされているせいで、この一か月余り俺はあまり寝付けずにいた。
当然、目覚めだってすこぶる悪い。疲れなど取れるはずもない。
末期の熱中症なのかと疑いたくなる体調のまま寝室からリビングへ。水分を求める体に従いそのままキッチンへ向かおうとする。
「アオイ、おはよう」
ああ、今日も最悪の目覚めだ。
目の前の光景が今この瞬間にも俺の心を蝕んでいる。
梅雨が終わったころから、俺は毎日のようにこの夢を見るようになった。朝目が覚めて、だるい体を起こしながらキッチンに向かう。そうすると決まってキッチンには彼女の姿があって、その特徴的な笑みでもって俺を迎えてくれるのだ。
『水?』
小首をかしげながら水道を指し示すウミ。俺はそれに首肯を返し一歩一歩と彼女の幻に歩み寄っていく。
そうすると、だんだんと体の感覚が薄れ始める。聞こえていたはずの生活音も聞こえなくなり、次の瞬間には自身が寝返りを打つ音が耳に届いた。
本当に最悪だ。これが夢であると認識すると途端に体が覚醒し始める。彼女の姿も靄のように曖昧になり、足元に目を向ければそこにはフローリングではなく煙に似た何かがふわふわと漂っていた。
覚めなくていい。もっと見ていたい。
例え幻であろうとも、実態なんて無くとも彼女の姿を見つめていたい。
けれどそう願えば願うほど眼前の少女の姿は朧気になっていく。もうその顔も認識できなくなっていた。
『アオイ、今日もバイトあるの?』
そんな風にウミが問い掛けるが、もう彼女の声は聞こえていない。音として認識できていなかった。
彼女にそう問いかけてもらいたいという願望が歪な形で出力され、瞼の裏側に文字として浮かんでいた。
『いや、今日は休み。どこか出かけるか?』
そんな風に返したことなど一度もないけれど、半覚醒状態の俺は夢に縋りたいあまり問いかけていた。
『じゃあ、行きたいとこある』
彼女も彼女でそんなことは言わないだろう。この世界のことなどほとんどわかっていないウミが行きたいところがあるなどと言うはずもない。
何もかも俺の願望だ。この夢が少しでも長く続いて欲しいという願いが、らしくない言葉の応酬に結び付いた。
『じゃあ出かけよう。準備してくれ』
そんな風に言う頃にはもう彼女の姿は見えない。代わりに薄暗い天井が見えていた。
本当に最悪な目覚めだった。今すぐに夢の世界に戻りたいのに、夢を夢だと認識してしまったからだろうか、眠気などかけらも残っていなかった。目を瞑っても体の重さと汗でべたついた肌の感覚ばかり気にかかって十秒もじっとしていられない。
「…………くそっ」
目を瞑ったままタオルケットを蹴飛ばして起き上がる。からからに乾いた喉を潤すためにキッチンへ向かえばいやに綺麗なシンクが癪に障った。
プラスチック製のコップに水道水を汲み一気に喉に流し込む。カルキの匂いがせりあがってくるせいでうまく呑み込めず、無理に喉を鳴らそうとすれば空気を飲み込んでしまって喉の奥が痛んだ。
体の内側に生じた痛みに苦しみながら乱暴に息を吐く。リビングの窓の向こうには青い空が広がっているが、周囲の生活音は聞こえない。まだ日が昇ったばかりなのだろう。
俺はコップを水でゆすぎ、逆さにしてラックへ干す。
そのとき不意に、天板の端に放置されていたフライパンが目に入った。
手を伸ばさずともそれが埃をかぶっていることは見て取れて、俺は代わりに天板を指でなぞった。
薄く埃の付いた指先を見つめながらため息を吐き、それからキッチンの隅のごみ袋に手を伸ばした。
今日はプラスチックごみの日だった。昨日の夜のうちに準備をしていたので今から慌てるようなこともない。一杯になった四十五リットルのごみ袋を指先に引っ掛けながら俺は小さくため息を吐く。
今年に入ってから、プラスチックごみが出る量が格段に上がっていた。




