無意味で手放し難い思い出作り 6
またクラスメイトにでも見つかったらたまったものではない。
そう思った俺は昨日ウミと話した予定の通り、校舎の立ち入り禁止となっているフロアに足を踏み入れた。
リノリウムの床をなれないスリッパで踏みしめ、静かな廊下を二人で歩く。
階下から、屋外から聞こえてくる喧騒は確かにこの学校の中での出来事なのに。立ち入り禁止となったこの場所とは違う世界の出来事のように感じられた。
目的地に着き、やや立て付けの悪い引き戸を雑に開け放つ。
立ち入り禁止となっている教室には当然誰の姿もなかった。
「ここが俺の教室。普段とはだいぶ様子が違うけどな」
机や椅子は教室の後方へと追いやられ、空いた床にはクラスメイトのものであろうカバンがそこかしこに放置されている。黒板にも授業の板書など残されておらず、代わりに今日の劇のスケジュールが刻まれていた。
ちょうど今頃開演準備をしているのだろう。道具製作班まで会場に向かう理由はないのだが、そこは自分たちの頑張りを見届けるためなのか今この場には誰もいない。
都合がよかった。あまり外を歩き回ると知り合いに見つかる可能性も上がる。先ほどはクラスメイトだからよかったが、これが教師ともなれば面倒なことになるだろう。
俺みたいな特徴のない生徒を全教師が覚えているかというところに疑問はあるが、それでも授業を担当している何人かはすれ違えば気が付くだろう。
俺はいやに物悲しい教室を見回しながらドアの前で固まっているウミを招き入れる。
「別に見ても面白いものなんてないけど」
そう前置きをするが、ウミは興味津々と言った様子だった。ほわー、とかい出しそうに口をかっぴらきながら首をほぐすみたいに頭をぐるりと回していた。。
「ここでいつも何やってるの?」
「勉強だな。文字とか、数字とかそういうのの」
「へぇー……」
言いながらゆっくりと俺の隣までやってくるウミ。特に目に留まるものもないだろうにウミは目を動かし続けていた。
「ウミの世界には学校ってないのか? 師匠にいろいろ教えてもらうみたいな感じか?」
「うん。でも大きな町にはあるって言ってた。私たちの村は小さいから」
「村から出て学校に通ったりはしないのか?」
「私たちは村から出ることはないから」
「そういうものか」
「うん。そういうもの」
随分と閉鎖的なんだなと他人事のように思う。いや事実他人事だった。
どんな事情があるのかとか、そういうことを気にしても仕方のないことだった。
「村から出たこともないけど、今こんなところにいるんだ」
ウミは苦笑気味に言った。無知な自分が、そのさらに意識の外にある現実に相対している。そのことを彼女自身どういう気持ちで見つめればいいのかわからないのだろう。
ウミはそれ以上何を口にしていいかわからなかったのか話題を変えた。
「アオイ、さっきの人は友達?」
「さっき、ああ。友達、っとは言えないだろうな。名前も覚えてないし」
「そうなの? なんか仲良さそうだった」
「言うほど仲良くもない。クラスメイトだから話したりはするってだけだよ」
「くらすめいと?」
「この教室で一緒に勉強してる仲間」
「友達じゃないの?」
「違う、と俺は思うけどな」
多分彼とはこれから関係がどんどん希薄になっていくと思う。そもそも親しい間柄でもないけれど、ただのクラスメイトなんてそんなものだと思う。
健でさえ、これから先ずっと一緒にいるかと言われたら自信を持って頷くことができない。卒業して、それぞれの進路に進んだらなんとなくだけれど学生時代の人間関係なんてほとんどなかったみたいにして過ごすようになる気がする。
世にいるすべての人がそうだとは言わないけれど、多分俺はそういうタイプの人間だ。
卒業を機にリセットされる人間関係を構築出来た経験などないけれど、多分そうだと思う。
「でも、さっき仲良さそうだったよ?」
「それは文化祭の準備でいろいろあったからな」
「準備? 何かしてたの?」
俺の学校生活を覗き見することが叶わなかったウミは俺が何をしていたのか露とも知らない。
バイト先にかけあって資材を集めたことも、道具製作班としてそれなりに頑張ったことも。
俺はここからでは見えない体育館に集ったクラスメイトを思いながら語る。
「演劇やるんだよ。その準備」
「アオイ舞台に立つの? ここにいて平気?」
「いや、俺は小道具作ったりしただけ。本番はいたとしても見守る以外にすることない」
だからクラスメイトに謝罪をするでもなく休みの連絡を入れることができたのだ。もしも俺が舞台に立つという話になっていたのなら、それでも俺はウミとの時間を取っただろうけれど。
「多分その辺に台本転がってると思うけど……。お前にロミジュリって言っても伝わらないよな?」
「わかんない」
苦く笑いながらごめんねなんて続けるウミ。
俺は教卓の前に転がっていたコピー用紙をホッチキスで止めた簡易的な台本を拾いあげ彼女に手渡した。
「この世界の、多分一番有名な演目」
演劇のことなど何もわからないけれど、その名前は誰だって知っている。だからきっとそのはずだと思いながら、自信なさげに説明した。
台本を受け取ったウミはタイトルくらいは読めるはずなのに首を傾げた。
「そうなんだ。どんなお話?」
「えっと、なんか案外入り組んだ話なんだけど。端的に言うならそうだな。好き合った二人が一緒にいるために頑張る話、か」
その結果は悲劇的なものになるけれど。要約すればそういうことだと思う。
すれ違いがどうとか長々と語れるほど俺はこの演目に思い入れもない。そもそも今体育館で行われている演目はそんな悲劇的な話ではない。何せロミオは毒薬ではなくプロテインを飲むだけだし、ジュリエットは大胸筋で短剣を弾き飛ばす。最後にはジュリエットがロミオを抱えて逃げおおせる。
ハッピーエンドと言ってしまうのは少し違う気もするが、従来のものに比べればコミカルさも相まって明るい話と言える。
けれどウミはこのクラスオリジナルの話を訊ねたわけではない。本来のロミオとジュリエットがどういうものなのかを訊ねたのだ。
「二人は幸せになれるの?」
無邪気な人意味で見つめられてしまった俺は少しばかり口ごもった。しかし答を先延ばしにしたところで嘘を口にする意味などない。
ふうと息を吐き、何食わぬ顔ではっきりと答えた。
「いや、最後にはすれ違って死に別れ」
「そっか」
ウミは他人事のように呟いたけれど、その瞳は自身の足元に向けられていた。
思うところがあったのだろう。それは俺も同じだった。
だからなのか、ウミは表情を変えることもなく俺に台本を差し向けてきた。
「ねえアオイ。演劇やってみて」
「なんで俺が」
「アオイがやってるの見てみたい」
「俺は見せたくなんかないんだけど」
そもそも俺は演者として参加していたわけはないと先ほど語ったはずだったのだが。
ウミは微笑みを携えながらその瞬間を今か今かと待ちわびている。黙りこくれば静寂が待ち構えている。そうなってしまえばどちらにせよ俺はウミの我が儘を聞くしかなくなってしまうだろう。
俺はため息交じりにウミの差し出した台本をひったくると適当なページを開く。ロミジュリと言えば有名なセリフが一つは頭に浮かぶが、いかんせん俺が女役をする気にはなれなかった。
ナイスバルクなジュリエットのセリフを言うのも何か違う気がして、俺はロミオのセリフの中から適当なものを一つ読み上げる。
「あのまどからこぼれるひかりはなんだろー、むこうはひがしとすればジュリエットはたいようだ」
「アオイただ読んでるだけ」
文句を口にするが嬉しそうに微笑むウミ。
俺はその顔がなんだか癪に触って台本を彼女に押し付けた。
「ウミもやってみろ。素人に演技はハードル高い」
「私読めないところもある」
「じゃあ有名なセリフがあるからそこ読んでみろ」
俺が雑にページをめくるとウミはそれを落とすまいと両手でページの端を握りしめた。
そのページはロミオとジュリエットと言えばという代表的な場面。当然コメディに書き換えられたこのクラスの台本と言えども印象深いシーンであることに変わりはない。開いたそのページには癖が付いていて、手を離しても簡単に閉じたりはしなかった。
「これだな」
「えーっと」
「ちゃんと演技してみろ」
「…………」
言うとウミは硬直した。それから俺を見上げ深呼吸を一つ。
意を決したとばかりに台本に目を落とした彼女の手管はいかほどか。
「おーろみおー、あなたはどーして――」
「聞くに堪えないな」
大根役者のほうがまだましなレベルだった。変に間延びした声に抑揚などかけらもなく、それでも演技の体裁は保とうと声高に読み上げる。
もしもこれで舞台に立とうものならば笑いものにされること必至。むしろそれを狙っているのではないかと思うほどの惨憺たるありさまだった。
ウミはくすりともせずに茶々を入れた俺を睨む。けれどその瞳はイズミのような鋭さは持ち合わせておらず、随分とかわいらしい怒りだった。
「演技なんてやったことないんだから、できないよ」
頬を膨らませるでもなく目をそらした彼女は、俺が見てきた中で最も子供らしい顔をしていた。笑みを浮かべることもなく、不服そうなその声音は俺の求めた子供らしさだった。
「悪かった。どうせならちゃんとした演技見に行くか?」
教師に見つかる危険を冒したくはなかったけれど、彼女の機嫌を取るためにそう提案した。
けれどウミは首を横に振ると黒板を見上げ、教卓を見下ろし、教室後方に寄せられた机や椅子を見据えた。
「いい、もう時間だから」
その宣言に息を飲んだ。それから俺を見上げた彼女の苦笑いを見て奥歯を噛み締めた。
まだ日も傾きだしたばかりだ。夜はおろか夕だって遠いところにいる。まだ終わりじゃない、まだ時間はある、そう口にしたかった。
けれどウミがごめんねなんて言いたげな笑みを浮かべているから、俺は何も言えなくなってしまった。
「アオイ、最後にお願いしてもいい?」
声を失った俺はただ頷くことしかできない。気付けば呼吸も止まっている。活動のために必要な何もかもを忘れてしまった体は次第に不調を訴え始めた。
胸が痛んだ。息切れを起こした。指先が冷たくなっていく。
そんな俺を見上げながら、ウミは苦笑いのまま続ける。
「嫌だって言われると思うから、先に言うね。アオイ、できないって言われても私はアオイのことひどいって思ったりしない。だから無理だって思ったらそう言って」
そうは言われたけれど、彼女の願いを無碍にするつもりなんてなかった。それも最後だなんて前置きされてしまえば、どれだけ不可能であっても叶えて見せようと思った。
そんな俺の覚悟はきっと顔に出ていた。だからなのか、ウミは一瞬だけ目をそらし、申し訳なさそうにぽそりと、伝わらなくてもいいと言いたげな程小さな声で願った。
「キスしてほしい」
「…………は?」
思考が止まった。漏れ聞こえていた喧騒も耳に届かなくなる。
ウミが口にしたその言葉の意味を理解しようと咀嚼を試みるが無意味だった。だってその言葉の意味は理解できていたから。
狼狽える俺を見てウミは苦く笑う。その顔は、決して何かを願う時のものではなくて、何かを諦めるときの顔だった。
「私はアオイのことが好き。私たちのために頑張ってたアオイが、必死になってくれたアオイが、手を繋いでくれたアオイが、私は好き」
笑みが変わることはない。苦い笑みは変わらない。
我慢などしなかったと、全てをぶつけてきたと、伝えたいから口にすると語った彼女は多分本当にそのためだけに今口にしている。結末が、俺の選択がどうなるのかなんて彼女は最初から分かっていると言いたげだった。
「だから最後に、キスしたい。私はアオイとキスしたい」
願望を語っているはずなのに、ウミの表情は沈むばかりだった。
多分、沈黙を返せばウミはすぐにでもこういうだろう。
『ダメだってわかってるよ、言ってみただけ』
そんなことを言う姿が容易に想像できてしまって、そんな我慢のための笑みを浮かべられたくなんてなくて。
「…………」
けれど俺は静寂を作ってしまった。今度は俺が目をそらす番だった。
「アオイ、困らせてごめんね。私がそうしたいって言うだけだから、アオイがそれに答えなくちゃいけないなんてことはないよ」
苦虫を噛み潰す思いだった。
かろうじて俺が口にできた言葉は、たった一言だけだった。
「……悪い」
「うん、わかってたよ」
それからウミは、にへへと言った。
「アオイにそういう気持ち無いって、わかってたよ」
「…………ッ」
違うと叫びそうになった。
そんなはずないだろう。共に暮らした姉妹とではなく、ウミとの時間を俺は求めたんだ。俺にとってウミは特別で、それはウミが求める特別と同じ形をしている。
その気持ちは家族としてでも人としてでもない。異性として俺は彼女のことを特別だと思っている。保護者なんて自覚はない、最初から俺は彼女のことを一人の女の子としてみていた。
けれど、言えるはずもない。俺は彼女の願いを受け入れることができないから、何を口にしたところで言い訳にしか聞こえない。
その行為自体を嫌悪しているわけではない。胸中を語るならば、いくらでもしたいと言える。
この場で彼女と手を繋ぎ、抱き寄せ、唇を合わせる。そうしたいと思う気持ちがないわけじゃない。
でも、この先を思うと俺は怖くて仕方なかった。
これが最後になるんだ。最初で最後の口づけに。
もう二度と彼女と触れ合えなくなってしまうのなら、俺はいっそのこと知らないままでいたい。耐え難い思いをするくらいなら、いっそのこと何も知らないままのほうが息継ぎする間も得られる。
彼女の熱を、その心地よさをこれ以上知らないままにしたかった。
幸せは刺激物なんだ。甘くて痛くて暖かい。そんな情報量の束。慣れていない者からすれば処理が追い付かなくなるようなたまらない苦痛。けれど慣れてしまったものからすれば、それはなくてはならないもの。当たり前のもの。
いつの間にか俺は慣らされていた。その暖かさに、心地よさに。すっかり慣らされてしまったんだ。
だから、ただでさえそれを失うとわかっているのに、新しい刺激を覚えたくなんてなかった。
別れのための口づけなんてしたくない。俺がしたいのはそんなものじゃない。
二人で将来を語って、永遠なんて言うものを約束し合うような甘ったるい刺激でなければ意味がない。
失うために得る刺激なら、俺は最初から知らないままでいたい。
したとたんに後悔がやってくるのはわかっているから、そんな恐ろしいものに踏み出すことなんてできない。
ここで彼女の願いを拒絶したら、それはそれで後悔するのはわかっている。けれど、どちらも後悔の道だというのなら、俺は少しでも刺激を知らぬままで生きていたかった。
ウミは小さく息を吐いて、それから苦い笑みを浮かべた。
「アオイ、最後の最後で困らせてごめ――ッ」
そうウミが締めくくろうとした時だった。彼女はまるで糸が切れたようにその場に倒れこんだ。幸いその場に座り込むような形ではあったが、もし前のめりにでも倒れていたら床に顔を打ち付けていただろう。
「ウミっ!?」
俺は慌ててしゃがみ込み様子を窺う。ゆっくりと顔を上げた彼女は苦笑いを浮かべていた。
「ごめんね。本当にもう時間がないみたい。立ってられなくなってきた」
「……そうか」
言いながら俺は彼女に手を差し伸べる。
俺の手を取った弱弱しい手は、もはや握りしめる力すら残っていないようだった。
「帰ろう、ウミ」
「うん、帰るね?」
そんな風に言い合って、俺たちは最後の思い出に幕を閉じた。




