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異世界へようこそ  作者: 澄葉 照安登
第六章 終わりを迎える非日常
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無意味で手放し難い思い出作り 1

 特急券なんていうものを初めて買った。普段の生活ではまず買わないし、遠出するような出来事だって今までなかった。実家に向かうときに使おうと思えば使えたのかもしれないが、金銭的な問題もあって手を付けたことは今まで一度もない。

 いつもと同じはずの駅がなんだか様変わりしてしまったような感覚にやや怯えつつ、俺はウミの手を取って特急列車に乗り込んだ。

 内装は当たり前だが普通の列車とはまるで違う。足元は絨毯張りの様相、シートも車両の左右から向かい合うような形ではなく二つペアになった座席が進行方向に向いている。

 左右にそれぞれ配置された席をちらちらと見渡しながら、俺は目的の席に腰を下ろす。

 好奇心半分、恐怖心半分と言った様子のウミも俺に促されて俺の隣、窓側の席に腰を下ろす。

 その間も、俺たちの手は繋がれたままだった。

 列車が動き出すまでも、動き出してからも俺たちは手の平の体温に浸っていた。縋っていた。

「ねえ、アオイ」

 ウミがそう切り出すまで俺たちは無言だった。電車に乗ってからではない、駅についてからでもない。あの部屋を出てから、俺とウミは一言も言葉を交わさなかった。

「私ね、我慢してたわけじゃないんだ」

 うわ言のように、俺と目も合わせようともせず彼女は語る。

 ちらりと繋がれた手に向けられた視線は、そのまま動かなくなる。

「さっきアオイのお願いを受け入れないようにしたのは、確かに我慢だったけど。でも向こうの世界にいるときの私はそんなずっと我慢してるとか、そういうわけじゃなかった」

 言いながら少しづつ彼女の手から力が抜けていく。一瞬だけ彼女の体の問題を思い出しぎょっとするが、しぼんだ言葉尻からそうでないことを悟った。

「悪さするのだっていつものことで、師匠との約束なんて守ったことなかった。我慢なんてしてたつもりはないんだ」

 力が抜けた指先が俺の指の間を滑る。このままだと彼女の手が離れてしまいそうで俺は指先に力を込めた。

 ウミはそれに答えるように指先で俺の手の平を撫でた。

「ほかの人たちにいろいろお願いされるのだって私は嬉しかった。嫌だなとか、面倒くさいなとかそういうこと思ったことは多分ないの。全部私がしたくてしてたことだから」

 撫でるような指先の感触は、いつしか縋るような力強さを伴っていた。手放したくないと喚いているような痛々しいほどの、けれど決して強くはない力。

「でも、多分私は我慢するっていう感覚がなかっただけなんだと思う。最初はそういう感覚があったんだって、さっき思い出した」

 言いながらウミは顔を上げた。それからいつもみたいに、にへへと笑った

「アオイのお願い断ろうとしたときも我慢しなきゃって思ったわけじゃない。そうしなきゃいけないことだからって、それだけを思ってた。私がどうしたいかっていうのは、私も全然気にしてなかった」

 そう言うと、ウミは深く息を吐いて車窓の向こう側を見つめた。流れる街並みが彼女の瞳の中で色を刻む。

「だからイズミは嫌だったんだね。我慢してるって思うこともできないで、自然にそうしてる私を見るのがイズミは嫌だったんだ」

 イズミが嫌だったのはウミのその態度ではなく、それを強いてくる大人だった。けれどそう口を出すのは何か違う気がして、俺はウミが語り終わるまで黙って訊いていることにした。

 俺の瞳にもウミと同じ景色が映る。砂嵐になりかけたどこかもわからない街並みが。

 今一度、彼女はにへへと苦く笑った。

「アオイ、私の笑い方変だよね。にへへって。これがそうだったんだ。私は我慢するときにそうやって笑ってた。苦笑いが私の癖だったんだ。もっと小さなときは、いろいろなしなきゃいけないことを言われるたびに嫌だなって思って苦笑いばっかりしてた。なんでそんなことしなきゃいけないんだろうって思いながら、でも断れなくてそうやって笑ってた」

 ウミは我慢の上手な女の子だ。初めて会った時に俺はそう感じた。

 それは確かに、彼女が自身の危機的状況を不安に思うのではなく、向かい合った相手にかかる迷惑を考えていた様を見てのことだったけれど、それと同時に浮かべた笑顔にも苛立ちを覚えていた。

 笑顔を浮かべるのが上手い子だと思った。そう表現すると彼女が今まで笑みの絶えない人生を送ってきたようにも感じられてしまうかもしれない。それは多分本当のことで、彼女がひどい人生を送ってきたのだと解釈するほうが間違っている。

 けれど、笑顔が上手いというのはそれだけ笑顔を浮かべなければならなかったということでもあるんだ。そうしなければやっていけなかった、あるいはそうしなければいけない環境に置かれていた。

 作り笑いだって笑顔だ。顔を感情のままではなく理性で動かして同じ形にしているだけで、そこに差はない。表情筋を使うことに変わりはない。

 十四の女の子が、不自然にうまい笑顔を浮かべるから俺は彼女のその顔に苛立ちを覚えていたんだ。

 ウミは思い出したように苦くにへへと言う。

「いつから我慢するのが当たり前になってたのかな。悪さしたり好き勝手してたから、私我慢なんて一度もしたことないって思ってた」

 あるいは、我慢しすぎてしまったからこそ悪さをしていたのかもしれないと思った。

 自分の中に蟠るストレスを吐き出すための方法が、彼女にとってはそういうものだったのかもしれない。そんなかわいい反抗が彼女の精一杯の悲鳴だったのかもしれない。

 何もかも想像の域を出ないけれど、そう考えるといろいろなことが腑に落ちる。

 自身を蔑ろにしているのではないかと憤りたくなるほどの献身。イズミが現れた時も、彼女は当たり前のように自分を犠牲にすることを考えていた。修学旅行の話をした時だって俺の要望に二つ返事で頷いてくれた。彼女は一度だって嫌だと口にしたことはない。

 みんなそんな彼女に甘えてしまうんだ。

 首を横に振らないから大丈夫なんだろうなんて勝手に思って、次から次へと要望を投げる。彼女に求めるものが大きくなる。

「イズミはわかってたんだね。私が本当はいろいろなものを我慢してたって。私も気付いてなかったのに、イズミだけは気付いてた。だから、私の言う通りにするっていつも言ってくれてたんだ。悪いことしちゃったなぁ…………」

 そんな風に言いながら彼女は苦笑いのにへへを浮かべ続けた。

 気付けば車窓の向こうには田んぼか畑かどちらかわからないものが広がっていた。街を外れ郊外に出たのだ。特段自然に思い入れなどないが、視界を遮るものがなくなったから、不思議と息がしやすくなった。

「今も何か我慢してるか?」

 だから胸に溜まっていたしこりがやけに気になってそう口に出していた。

 ウミは小首をかしげながら振り返る。青い瞳には仏頂面の男が映っていた。

「我慢してるか? その、今回のことで。今回の俺の我が儘に付き合わされて」

 ウミの気持ちなんて考慮していなかった。今回旅行に行きたいと言い出したのは俺で、強引に彼女に言いよって得た結果だった。

 だから、彼女が全く望んでいなかったとまでは思っていないけれど、俺の望みに答えなければいけない、という気持ちが少しでもあったのならば申し訳ないことをしたと感じてしまう。

 言うとウミはちょっとだけ悲しそうに眉尻を下げて、にへへと笑う。

 そして首を横に振った。

「アオイ私はね、アオイといるときに何かを我慢したことなんてないんだよ。そういう意識がなかったとかそういうことじゃなくて、アオイといるときは、私はこうしたいって思ったことをすぐにアオイにぶつけてた。今だって」

 言いながらウミは繋いだ手に力を込めた。

 弱弱しいそれは彼女が女の子だからなのか、それとも肉体的限界が近いからなのか。ウミ以外の女の子と触れ合った経験のない俺にはわからない。

「アオイは私を全部受け入れてくれた。最初から、出会った時からそうだった。その受け入れてくれた理由も私のためじゃなくてアオイ自身のためだって言ってくれた。私はアオイと一緒にいるときは一度だって我慢したことはないよ。会いたいって思ったらすぐに会いに行くし、手を繋ぎたかったらそうする。そうしてほしいじゃなくて、私がそうしたい。それを我慢したことなんて一回もないよ」

 ウミは照れくさそうに笑った。

 それから繋いでいた手を離して問う。

「アオイは? アオイは我慢してない? 嫌だなって思ったことない? 最近の私アオイに触ってたいってずっと思ってて、ずっとそうしてるから、アオイ迷惑だったかなって」

「そう思ってたら最初から拒否してる」

 離れて行った手を俺はすぐにつかんだ。試すような真似をしたことは腹立たしいが、立場が逆なら俺も同じようにしたと思う。だから文句は言わずに彼女の手を乱暴につかんだ。

「うん、ありがとう。私も嫌なことは一個もしてないよ、信じて」

「別に疑ったつもりはない」

 もちろん素直に飲み込めたかと言われればそんなことはないけれど、今更彼女の言葉を疑うようなことはない。繋いだ手から痛いほどに伝わっているから。

 彼女の温もりが手の平にあれば、二人で眺める何処かもわからない景色を、枯れ葉色の畑を、何もない風景を、いつまでだって見詰められるような気がした。

 それでも体は欲望に忠実で、隣で小さく腹の虫が鳴いた。

「ところでアオイ。これどれくらい乗ってるの?」

「二時間くらいだな。乗ってる間に昼めし食おう」

 ちょうどいい塩梅で切り出してくれたことに感謝しつつ、俺は彼女と繋いでいないほうの手にぶら下げていた紙袋を膝の上に置く。

「それさっき買ってたよね。何?」

「駅弁」

「なにそれ」

「お弁当だな、ちょっと豪華な」

 実際豪華なのかどうかは知らないが、勝手なイメージをもとに相槌を打つ。

 俺は彼女と繋いだ手を見て、結局空いているほうの手だけで紙袋の中身を開いていくことにした。

 出てきた二つの弁当は片方が鶏のイラスト、もう片方が紺色の和柄というものだった。どちらも意匠の凝った達筆な文字で名が打たれている。

「どっちがいい?」

「読めない」

「まあそうだよな。とりあえず開けてから……」

 言いながら両手を動かして、繋いだ手が明らかな枷になっていることを自覚した。

 名残惜しくはあるが仕方なしと俺は彼女と繋いだ手を離そうとする。しかし彼女は手の平を滑った感触に嫌悪感を覚えたのか今までとはくらべものにならないほどの力で俺の手を握った。

「ウミ、弁当が開けられないんだが」

「私がやるよ」

「いや片手じゃ無理だろ」

「じゃあ共同作業で」

「あほか」

 俺は彼女の手を振り払い弁当を開ける。

 興味津々といった具合で弁当を覗き込むウミだが、手を離した瞬間は名残惜しそうにうめき声をあげていた。

「好きなほう選べ」

「じゃあこっち」

 ウミは紺色の包みに包まっていた和食の弁当を選んだ。必然俺は余った唐揚げ弁当になる。

 俺は彼女の膝の上に片方を乗せ、それから割り箸を差し出す。

 二人で手を合わせていただきますと言ってから、ウミは素っ頓狂なことを言い出した。

「アオイ、食べさせてほしい」

「バカなの?」

 冷たくあしらうとウミは笑った。それからしばし悩むようなそぶりを見せるとはっとして顔を上げる。

「あんまり体に力入んないから」

「お前さっきかなりの力で俺の手を握った気がするんだが」

「それはそれ」

「食べないなら俺が全部食うぞ」

「あ、待ってッ」

 箸を伸ばせばウミは慌てて食べ始める。箸の使い方も見事なもので、やはり力が入らないだなんだと言っていたのはでまかせだったらしい。

「それなりに高いんだから味わえよ」

 そんなことを口にするが、この旅行中は値段を気にすることはやめようと思っていた。

 最後なら、余計なことを気にして悔いを残すほうが愚かしいと思ったからだ。

 取られそうになったからか、はたまた食べさせてもらえなかったからか、少しだけ不機嫌そうなウミを見つめながら、俺は手元の唐揚げを彼女に突き出す。

 それを見た彼女はにへへと照れくさそうに笑った。

 旅の恥は掻き捨て、なんて言葉もあるのだからこれくらいはいいだろうと俺は何度も彼女に餌付けを試みた。


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