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異世界へようこそ  作者: 澄葉 照安登
第六章 終わりを迎える非日常
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たった一人の特別な人 3

 準備が一通り終わった。

 宿の予約も取り、お金の用意もした。着替えも済ませ荷物も背中のカバンに入っている。

 隣に立つ彼女も先ほどまでの黒いぼろ布からつい先日買ったばかりの白いコートに着替えている。十一月初旬にコートはまだ早い気もするが、かといって夏場に来ていたワンピースというのも無理がある。

 何とも季節感を飛び越えてしまった気がしなくもないが、ともあれ準備を終えた俺たちはリビングで今一度彼ら彼女らと相対していた。

「じゃあ、行ってきます」

「いってらっしゃい。気をつけなさいよ」

 真っ先にそう送り出そうとしてくれたのは店長だった。彼はそれ以上無駄なことを言おうとはせず視線で次を促す。

 バトンを渡されたミナモは諦めがついたのか、はたまた単に呆れてしまっているだけか深くため息を吐いてからバトンを受け取った。

「ウミを頼む、あまり無理はさせないでくれ」

「はい」

 彼は最初からウミの体調を気にかけていた。それ以外は二の次なのだろう。楽しんで来いとは言わなかった。

「ねえ、楽しんでね」

「体大丈夫?」

 イズミとミサキはウミに向けそれぞれの言葉を贈る。イズミは乏しいながらも嬉しそうな顔で、ミサキは不安げな様子で。

「大丈夫。二人を待たせることになってごめんね?」

 苦笑交じりに謝罪を口にするウミ。彼女も悪いことをしている自覚はあるのだろう。体に限界が迫っているのはウミだけではない。自分と同じく苦しい思いをしている二人を待たせることになってしまったことを後ろめたく思っている。

 けれどそんなウミを見つめる二人はそろって首を振る。

「ねえが楽しめるならイズミはそれでいい」

「ウミの体調が平気ならあたしも言うことはないよ」

「ありがと」

 ウミは端的に、けれどまっすぐなお礼を口にする。それから俺に向き直った。

「アオイ、行こう?」

「ああ」

 いつまでもここで時間を潰すわけにはいかない。スマホを見ればとっくに正午を過ぎていた。

 今から電車で揺られて二時間以上かけて目的地に向かうのだ。つく頃には三時を超えているだろう。名残惜しくここにいてはそれこそ夕食間近の時間になりかねない。

 俺は宣言する意味も込めて再び彼らに向き直る。

「それじゃあ、行ってきます」

 その言葉はミナモに向けた。ちゃんと戻ってくるからとそういう意味を込めて。

 彼は何も言わなかった。これ以上の言葉は不要だと思ったのだろう。俺も返事がないことを理解するとすぐに踵を返しウミを玄関へ促す。

「……イズミ」

 その最中小さくもう一人の同居人を呼んだ。それにウミも反応して足を止めかけたが、彼女の背中を押して先に行くようにと促した。

 ウミは不思議そうに首をかしげるが、促されるまま玄関へ向かう。それを見送ってから、俺はちゃんとイズミに向き直った。

「イズミ、悪いな」

「なにが?」

 だしぬけの謝罪は彼女には届かなかった。当然と言えば当然だ。彼女は俺の胸中を理解しているわけではないのだから。

 俺は胸に蟠る靄を溶かす。

「お前を置いていくことになって悪い。本当なら三人一緒に行くべきなのに」

「いい。イズミは旅行とか興味ない」

「それでも、ウミと出かけたいとは思うだろ?」

「うん、でもイズミはねえが幸せならそれでいいから」

 終始彼女は姉の幸せを願い続けていた。何かあるたびにねえに優しく、ねえを幸せにと口にしていた。彼女にとって姉は何よりも、自分よりも大切なものなのだ。

「イズミのことは気にしなくていい。それよりイズミは今嬉しい。にいがねえを選んでくれて」

「選んだって……」

 選ぶも何もない。そう口にしそうになって胸の靄が濃くなった。

 一度息が詰まると言葉も続かなくなる。胸の内の痛みが肺を圧迫していた。

「本当に悪い。俺は……」

「にいイズミは今嬉しいよ。ううんずっと嬉しかった。にいにとって一番はずっとねえだった」

「…………悪い」

 逃れようのない事実を彼女に指摘され、俺はただ俯くことしかできなかった。

 本来であれば、一緒に過ごしたウミとイズミの二人と共に旅行に行くべきだ。最初はそのつもりだったし、ウミと口約束をしたときにイズミも一緒にと伝えていた。仮初めの家族三人で最後が来たら思い出作りをしようとそう約束した。

 その約束をイズミは知らないけれど、確かにそう口にしたのだ。だから俺は今回そう働きかけるべきだったし、是が非でもイズミを連れて行くべきだった。

 けれど、イズミが自分はいいと一言口にしただけで、俺の決意は崩れた。

 いや、最初から崩れていたんだ。

 突如突き付けられた別れを前に、俺はほかのことは何も考えられなくなっていた。

 ウミともっと一緒にいたい。それが俺の中にあるものだ。それ以外のものはなかった。

「にいにとってイズミとねえは一緒じゃない。それがイズミは嬉しかった。だからにいは謝らなくていい」

 イズミはそう言ってくれるけれど、どうしたって気にしてしまう。

 俺にとって異世界人はウミだった。仮初めの家族も、頑張る理由もすべて彼女だった。

 イズミはあくまでウミの妹で。ウミと一緒にいたいと俺が願ったから一緒にいただけにすぎない。イズミのことを悪く思っているわけでも、疎ましいと思っているわけでもない。大切にしたい女の子であることは間違いない。

 けれどそれは、ウミの妹だからそう思っているんだ。

 ウミはウミとしてみている。ウミという一人の女の子として。

 けれどイズミはイズミではない。俺にとってイズミはウミの妹だ。

 俺自身の妹でも、頑張る理由でもない。守るべき対象ではあるけれど、それまでだった。

「にい、ねえと二人きりになりたいと思ってくれてありがとう。それと、ずっと邪魔をしていてごめんなさい」

「邪魔なんかじゃない。そんな風に思ったことはない」

 こんなことを言わせたくなくて間を開けず、半ば叫ぶように口にするがイズミは控えめに頷いただけだった。

「うん。でもイズミは邪魔だって思ってる。ねえもにいもイズミを大切に思ってくれてるのはわかる。でもイズミがいなきゃ、最初から二人だけだったらってイズミはずっと思ってた。イズミはイズミのことを邪魔だなって思ってた」

「俺は、お前がいてくれたよかったと思ってる」

「うん、イズミも少しそう思う。じゃないとにいはずるい大人と同じになったと思う。でも、にいにとってイズミは特別じゃない。特別なねえの、おまけ」

 彼女は聡い。そこまでは思っていないと口にすることも憚られるほどに。

 言い訳なんて口にできるはずもない。彼女の思っていること、感じていたことに間違いはないのだから。

 付属品扱いだったというのはまぎれもない事実だ。言い方が悪いと修正するのももはやお為ごかしでしかない。

「でもにい、イズミはにいを責めたいわけじゃない。イズミは本当に嬉しい。イズミはずっと思ってた。ねえはこのまま元の世界になんて帰らなくていいって。ここにいるほうがねえは幸せそうで、にいはそれを受け入れてくれてた」

 そこまで言うと、彼女は俯いたままの俺の顔を覗き込んだ。

 鼻が触れ合うほどの距離にイズミの顔がある。それはいつだかと同じ距離感。不安げに、申し訳なさそうに、けれど強引に俺の胸ぐらを掴んだあの時の距離感だった。

 既視感はしかし、すぐに塗りつぶされる。両手で優しく俺の胸元を掴んだ彼女はいよいよ鼻を触れ合わせ、それから。

「にいありがとう。ねえはきっと、にいといるのが幸せだった」

 笑顔を浮かべた。

 いつも無表情な彼女が始めて見せた、初めて俺に向けた笑顔だった。極上の感謝とともに、満面の笑みを俺にぶつけてくる。

 俺はやっぱりばつが悪くて、目を逸らしてしまいそうになるけどイズミがそれを許さない。

 だから俺は気休めにもならない言葉を口にした。

「俺はイズミも一緒にいてくれてよかったと思ってるよ」

「うん、ありがとう。イズミもね、にいと一緒にいれてよかった」

 別れの挨拶みたいだった。実際に明日には離れ離れになるけれど、いささか早すぎる別れの挨拶だった。

「イズミ、にいのこと好きだよ。ねえを幸せにしてくれるから大好き」

 そこまで言われてしまうとこちらとしても泣き言なんて言えない。信じてくれているのだから、俯いてなんていられない。

 俺はいまだ触れ合っている鼻の頭の熱を自覚し、胸の内に沈殿していたものが溶けた。

「時間は限られてるけど、できる限りのことはするよ」

「うん。にいも、ついでに楽しんで」

「ああ」

 あくまでもねえが最優先。

 最後までそう言いたげなイズミに笑みを浮かべ、俺は彼女に掴まれていた胸ぐらに手を添えた。その指を少しづつほどいていく。

 そんな折イズミは、はたと声を上げた。

「けど、さっきのにいはちょっと情けなかった」

「さっき?」

「ねえと旅行に行きたいって言った時。ねえ断ろうとしてた。ねえに我が儘言わせてあげられなかった」

「それどうしようも……いや、悪い」

「うん、ねえはそういう人だってイズミもわかってるから、仕方ないかなって思う。師匠も邪魔してくるし。でもちょっとだけ、にい情けなかった」

 言いながら、イズミはほどかれた左手で俺の腹を殴った。

 触れる程度のささやかな衝撃。けれど握られた拳からは痛いほどの思いが伝わってくる。

 つくづく思う。イズミにとってはウミこそがすべてなのだと。

 さんざん言われ続けていたけれど、それを改めて実感して俺は笑みを浮かべた。

「面目ない。これから挽回することにするよ」

「うん、ねえをお願い。……逃げてもいいよ。帰ってこないで最後までねえと一緒にいても」

「そんなことしたらイズミに恨まれるだろ」

 そもそもそんなことは望まない。ウミの体が限界だという事実を知らないままならばあるいは、と思うが事情を理解した俺にその選択肢はとれない。

「うん、恨む。けどそれはイズミの話。ねえがそれを望むならイズミはそれでもいいよ」

「帰るのは夜になる、と思う」

「うん、いってらっしゃい」

 彼女の指をすべてほどき終えると、イズミはタップでも踏むみたいな足取りで俺から距離を取った。

「アオイ、まだ?」

 そうしたところでしびれを切らしたウミが玄関のほうから顔を出す。

 俺は改めて時間を確認しウミの隣へと駆ける。

「行こう」

「うん、行こう?」

 そう言い合ってからはもう振り返らなかった。

 だから残された四人がどんな顔をしていたのかは俺にはわからないままだった。


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