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異世界へようこそ  作者: 澄葉 照安登
第六章 終わりを迎える非日常
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たった一人の特別な人 1

「……なにを言っているんだ?」

 俺が願望を吐露した瞬間ミナモの表情が変わった。無論良い方にではなく悪いほうに。

 眉を顰めつつ翡翠色の瞳を薄く研いだ彼の顔には、純然たる怒りが見て取れた。

 そんな彼を見て、俺は言葉に窮してしまいそうになる。すぐにでもさっきの発言を撤回して、何でもないと口に出しそうになってしまう。

 けれど俺は歯を食いしばり、自身の体を冷やす感情を噛み潰した。

 そして今一度、彼にまっすぐと伝える。

「もう数日時間をください。今のままじゃ、俺は納得いく別れなんてできないと思うから」

「ふざけているのか」

「本気で言ってます。まだ果たしてない約束がある」

「約束だと?」

「一緒に旅行に行こうって約束したんだ。それをまだ果たしてない。だから数日だけ時間をください」

「ふざけるな」

 声に怒気が乗った。それには俺を黙らせようとするすごみが込められていて、一瞬息を飲みそうになる。

 けれど、飲みそうになっただけだ。俺は今一度彼に伝える。

「もう少しウミと一緒にいたい。だから――」

「ふざけるなと言ったんだ」

「…………」

 しかしそんな俺の覚悟も言葉を遮られてしまえば怯んでしまう。決して生半可な気持ちではなかった。学校を早退し、ウミ自身の気持ちすら考慮せずに自身から湧き上がる感情に従った。

 自分のためでしかないけれど、だからこそ生半可な気持ちではない。

 なのに、俺は声を遮られただけで続きを口にすることができなくなってしまった。

 その空いた隙間に、ミナモは怒気を孕ませた声を響かせる。

「今から元の世界に帰る。準備しろ」

 その声は俺に向けられたものではなかった。突然帰宅した俺に丸い目を向けた三人の少女たちに向けられた言葉だった。

 彼女らは急に声を投げかけられたからか弾かれた様に振り向く。ただ一人、ずっとミナモを睨み続けていたイズミだけは振り返る必要はなく、変わらずじっとミナモをにらんだまま。

「これ以上この場にとどまらせる理由はなくなった。早くしろ」

 ミナモは苛立ちを露わに三人に命じる。けれどイズミは睨んだままピクリとも動かず、ミサキはおびえたようにおろおろするばかりで、ウミに至ってはちらちらとこちらの様子を窺っていた。

 素直に命令を聞かない少女たちにミナモはさらに苛立たし気に声を荒げる。

「お前たち、自分たちの状況は理解しているだろう」

 ミナモの言いたいことが俺にはわからなかった。

 ウミとミサキはお互いの顔を見合わせると顔をうつむける。

 けれど、ミナモに歩み寄っていくものは一人もいない。睨んでいるイズミはもちろん、何も言えないといった様子の二人でさえも。

 ことごとく思い通りにいかないからだろう。ミナモは歯噛みをして俺に向き直った。

「お前も何を言っているんだ。今日一日だと約束したはずだ」

「……けど、そんな短い時間じゃ」

「短くとも時間は与えただろう。こっちにだって余裕がないんだ。お前だってウミをこれ以上苦しめるのを望むわけではないだろう」

「………ウミを苦しめる?」

 予想外の言葉に、俺は呆けた声でオウム返しをすることしかできなかった。

 俺の様子を見たミナモは、荒々しい溜息を一つ吐くと吐き捨てるように言う。

「さっきまでの話はさすがに聞いていなかったということか。なら今から説明してやる」

「ッ、待って師匠っ」

 ミナモが何かを語ろうとした瞬間、ウミが焦ったように声を上げた。

 彼女の懇願する声は俺の胸を締め付けるには十分で、今ミナモがしようとしていることはウミを傷付けるようなことなのだと容易に理解できた。もしも俺がウミにあんな声をぶつけられたのならば、きっと俺は何も言えなくなってしまうだろう。

 けれどミナモは止まらなかった。

「ウミの体に限界が来ている。魔力のないこの世界ではウミはこれ以上生きていけない。早急に元の世界に帰る必要がある」

「待ってって、言ったのに……」

 ミナモの言葉を咀嚼しつつウミを見やれば、彼女はうわ言のようにそう呟いた。

 それから、ぎこちない動作で俺のほうを見た。しかし眼があった瞬間、ウミは気まずそうに目をそらしてしまう。

 ミナモはそんな俺たちを見て嘆息した。

「ウミはそのことを隠していたらしいな。気を遣ったのか、単純に言いたくなかったのか、理由はわからないがこの際どちらでもいい。重要なのは今ウミの体は限界に達しているという事実だ。…………お前はそんな少女に無理強いをするのか?」

「…………」

 そんな言い方をされてしまえば、口ごもるしかなくなってしまう。

 事情を知らないままであればいくらでも我が儘を吐くことができた。決まりだとか、あるべきものをあるべき場所へとか、そんなことを言われようものならばいくらでも駄々をこねてやろうと。

 けれど、そう言われてしまえば、ウミの体調の問題なのだと語られてしまえばそんなことできるはずもない。

 欲しいものを買ってもらえない子供のように喚き散らせるほど自分勝手にはなれない。

「……それでも、もう少しだけウミと一緒にいたい」

 だから、絞り出すように懇願するのが精いっぱいだった。

 それが最上級の我が儘だとミナモは思ったのかもしれない。どこまでも自己中心的だと感じたのかもしれない。窘めるような口調は消え去り、怒号が俺に浴びせられた。

「お前はウミの事を大切に思っているから匿い続けたのだろう? ならばそんなこと望むべきでないとわかっているはずだ。大切に思っている相手に無理を強いるべきではない。もしそれで取り返しのつかないことになったら悔いしか残らないぞ」

 取り返しのつかないことというワードに怯えてしまう。思いつく限りの最悪を頭に浮かべ、身震いをした。

 ミナモがどういう意味でその言葉を口にしたのかはわからないが、俺の想像はきっとそう遠くないところを射ているだろう。

 その想像が現実に起こるとするならば、俺がこれ以上の我が儘を言うのは確かに間違いだ。

 ウミを苦しめたいわけではない、後悔を招きたいわけでもない。

 ここで素直に引くのがきっと正しい選択なのだと。諦めて残された今日一日を最大限有効活用するべきなのだとわかってはいる。

 けれど、それじゃあ絶対に俺は納得できなかった。

 俺は歯を食いしばり、ミナモから背を向ける。逃げるためではない。向き合うべき相手と目を合わせるために。

「ウミ、俺の我が儘なのはよくわかってる。ウミがどう思っているかはわからないし、正直それはどうでもいいと思ってる。本当に自分勝手で、ただの自己満足なんだ。……それでも、俺はもっとお前と一緒にいたい。数日でいい、もう少し俺と一緒に過ごしてくれ」

 卑怯な言い方だと自覚しながら口にする。なりふり構っていられないんだ。今ここで引いてしまったらどうしようもない何かを失ったまま生きていくことになる予感がある。

 ウミは、上目遣いに俺のことを見つめた。戸惑いながらも、その瞳には歓喜の色が見て取れる。決して悪い反応ではなかった。けれど、ミナモがそこに横やりを入れた。

「ウミ、馬鹿なことを考えるな。限界なのはわかっているはずだ」

 彼も彼で必死なのだ。何も彼は自分のためにものを言っているわけではない。彼は最初からずっと弟子の心配をしていたのだから。

 だから、余計なことを言うなと怒鳴ることもできない。正しいのはどちらかと言えば彼のほうだとわかっているから。彼は彼女らのため、俺は俺のために言葉を紡いでいるのだとわかっているから。

 だから、俺はウミが答えるまでじっと待つことしかできない。彼女は迷いながらも俺に歩み寄ろうとしてくる。それを見て俺は大きく息を吸おうとした、そんな時だった。

 ミナモがぼそりと、どうしようもないのだと言いたげに呟いたのは。

「……それに、限界が来ているのはお前だけではないこともわかっているだろう」

 ミナモの口にした言葉で、彼女の瞳に宿る色が消えてしまった。ウミははっとして友人と妹に目を向けると、顔をうつむけてしまう。

 すぐに持ち上げた顔には、困り笑いが張り付いていた。

 それを見て悟ってしまう、ウミが何と答えようとしているのか理解できてしまった。

 俺は焦って言葉を紡いだ。

「ウミ、俺の我が儘をきいてくれ」

「…………にへへ」

 いつものそれとはくらべものにならないほど弱弱しい笑み。純度百パーセントの困り笑い。

 困ったなぁなんて声が聞こえてきそうなほどの表情に、俺は歯を食いしばる。

「ウミ」

「アオイ、ごめんね」

「ウミお前の気持ちは――」

「ごめんね」

 もはや俺の言葉を聞こうともしない彼女に、俺は縋りつく勢いで懇願する。

「俺はもっとお前と――」

「ごめんね」

 ウミは謝るばかりで首を縦に振ることはない。俺の望む答えを口にすることはない。

 そのことにミナモは胸をなでおろしていた。

「そうだ、妹たちのことを思うなら、そうするべきだ」

 腹立たしい。卑怯な言い方をしたこいつが、満足そうなその顔が、はらわたを刺激する。

 なのに怒声も出てこない。ウミが自分の意思で俺の願いを拒絶した。その事実が俺の足を引っ張ってくる。

 ウミはどうするべきかを選んだだけだとわかっているけれど、そこにウミのどうしたいかなど一切組み込まれていないと理解できているけれど、受け入れられなかったという事実は俺の歩みを止めるには十分すぎた。

 ミナモは安堵したからか、噛み締めるように言う。

「お前が自分勝手な子でなくてよかっ――」

 刹那、視界の端で何かが揺れた。

 黒い影のようなもの。身じろぎ一つしないウミのものではない。締め切られた部屋の中で風が衣服を揺らしたわけでもない。

 その影を追って顔を上げると、その先にはミナモの姿があった。

 彼が見下ろす先には、真っ黒なシルエット。それが黒いポンチョであると気付いた時にはもう事は起こっていた。

 きつく握られた少女の拳はまっすぐに突き出され、ミナモの鳩尾を的確についた。

「――ッヴぁ!?」

 うめき声をあげ腰を折る長身の男。崩れ行く彼を睨みながらイズミは怒鳴り声をあげた。

「ねえに我慢させようとするな!!!!」

 声が掠れるほどの大声だった。イズミのそんな声を初めて聞いたせいで、それと自分よりもはるかに大きな体をした相手に何の躊躇もなく暴力をふるう様を初めて見たせいで、その場にいる全員が驚嘆の声一つ上げることができなかった。

 ただ一人、事を起こしたイズミだけが動く時間の中にいた。

「ねえ。もういいよ」

 イズミは振り向き、ややかすれた声で絞り出すように言う。

 慣れない大声のせいで喉を傷めたのかもしれない。それでもイズミは必死に語り掛ける。

「もうこれ以上我慢しないでいいよ。もうそんな風に我慢しないで。我慢させられてるねえを見るのは、イズミもう嫌だよ」

 しゃがれた声のせいかイズミは泣いているように見えた。涙こそ流れていないが姉にすり寄るさまは怪我の痛みを訴える幼子のようで、今すぐにでも大粒で頬を濡らすのではないかと思わせるほどだった。

「ねえの気持ち教えて。イズミはねえに比べれば全然平気だから。イズミのこと気にしないでいいから。ねえがどうしたいかをちゃんと教えて」

 姉を見上げる少女の表情は切実で、彼女の瞳に映る者以外の発言は許されなかった。

「イズミもサキも、ねえに比べれば全然平気。一番辛いのはねえだから、ねえが決めて。ねえがちゃんと言って。どうするのか、どうしたいのか。しなきゃいけないことなんていい。誰かのこうしてほしいなんて気にしなくていいから。ねえのしたいことを教えてよ」

 握られた拳が突き出されることはない。代わりにぶつけられるのは、純然たる願い。

 姉の押し込められ続けたそれを知りたいという、この中で最も幼い少女の痛いほどの思い。

 見つめられた姉は、その瞳を見開いていた。妹の態度に驚いたのか、彼女の言葉そのものに胸を打たれたのか、あるいは両方か。

「ねえの気持ちを、教えてよ」

 ウミのまん丸に見開いた瞳は、次の瞬間俺のことをとらえた。

 それから逡巡を視線で語り、それでも怯え交じりにおずおずと、そしてつい先ほどまでのように困ったなあなんて言いたげな笑みを携えながら、ウミは唇の端から願望を吐露した。

「師匠、私アオイと旅行行きたい」

 それを口にしてから、ウミは泣きそうな妹に苦笑いを向けた。

 その願望に口を挟むつもりであろうミナモはというと、腹を抱えて床に突っ伏していた。


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