見えない気持ちと残った願い 6
「我々の住む世界とこの世界とではあらゆるものが違う。文明の発展の仕方や、それに伴ってはぐくまれた文化や信仰、生活様式。何から何まで違っている。その中で一番の、あらゆる違いの理由となっているものが魔法だ。私たちの暮らす世界には、魔法を行使するための魔力が存在している」
口元を引き結んだ山吹にミナモは語る。まるで学会での発表のように明瞭な声音で。
「私たちの体には、その魔力を蓄え行使するための器官が存在している。血管や神経のように、心臓や肺のように。魔力があるのが当たり前の世界で進化した私たちとこの世界に生きるお前たちとではそもそも体の構造が異なるのだ」
山吹は四人の異世界人を順番に見詰める。しかし、どこからどう見てもその姿は人間そのもので、山吹は眉を顰めるしかない。煌びやかな瞳を見ても、それは決定的な違いとまでは言い難い。
「だから私たちにはそもそもの前提として、生きるために魔力を必要とする。それは食事で補うこともあれば呼吸で補うこともある。ただ生きているだけで自然と補えるもの、補えなければいけないものなんだ。それがこの世界には存在しない。だから――」
そこまで言い切ると、ミナモはいまだ握っているウミの手を横目で確認しつつ、はっきりとした声音で言い放つ。
「私たちは、この世界では生きていけない」
表情をこわばらせた山吹を見て、ミナモはダメ押しとばかりに続けた。
「水中の生き物が陸で生活するのは無理な話なのだ。お前たちも空で暮らせと言われても無理だろう? 生きる世界が違うんだ」
文字通り葵や山吹と彼らでは住む世界が違う。それは山吹も重々承知の上で、最初から別れは避けられないと理解して納得のできていることだったけれど、改めてそう語られてしまうと息を飲まずにはいられない。
どこからどう見ても人間なのだ。何から何まで同じなのだ。
なのに住む世界が違うと。海と陸と空で暮らしている生き物ほども違うのだと言われてしまっては信じがたくも思うだろう。事実山吹は信じがたいといった面持ちで声を上げた。
「今まで普通に暮らせていたのはどうして?」
「簡単な話だ。蓄えていた分も魔力が残っていた、それだけだ」
「何か月も持つものなの? 絶食状態で生活するようなものでしょ?」
「魔力を蓄えられる量は個人差がある。とはいえ普通の食事と同じと考えるのは少し違うな。どれくらい持つのかで言えば、一切魔法を使わなければ五か月程度ならば生きられるだろう」
「ウミちゃんたちはそれ以上の時間ここにいるわよ」
「それはウミが才に溢れているからだ。魔力の保有量は私をはるかに上回る。とはいえもう限界ではあるが。他二人に関してはそもそも転移の魔法を使っていないからその分の余裕があるというだけだろう」
少女三人を順番に見つつ、ミナモは嘆息した。
「そもそも、ウミの不調は今に始まったことでもないはずだ。三人分の転移を行使したのだ。この世界に来てすぐに満足に魔法も使えなくなっただろう。もしもこれがウミでなければその場で昏倒し目を覚まさなくてもおかしくはない。普通に暮らせてなどいなかったはずだ」
言いながらウミに目を向けるミナモ。つられるように山吹もウミの様子を伺い見れば、群青色の瞳の少女は笑みを浮かべた。
それが何よりも証明として映ってしまった山吹は奥歯を噛み締めた。
「正直、ウミはいつ気を失ってもおかしくない状態だろう。もうまともに物も持てない状況だ。まだ共に過ごしたいという我が儘を借りにきくとしても、ウミだけは先に連れて帰る。そうするとすぐさまもう一度転移を行えるか怪しいため、一度に三人を連れ帰るのが理想ではあるが」
ミナモは申し訳なさそうにうつ向きがちに呟いた。
「どうあってもウミだけは連れ帰る。今日一日の延長も苦渋の決断なのだ」
「…………そう」
そこまで聞き届けると山吹は喉に溜まっていた空気を吐き出した。
それは言葉を吐くためのものだったけれど、それがこんなにも力なく消費されてしまったことに山吹は落胆した。
ミナモに吐くべき言葉を失った山吹はウミに問いかける。
「ウミちゃん。体調はかなり悪いの?」
「……にへへ」
「そう」
返ってきた苦笑いを見て、山吹はそれ以上の問いかけは必要ないと判断した。
誤魔化しのきかない程度には体が限界を訴えているのだと理解したのだ。それは山吹だけでなく、少女の傍らにいる友人と妹もそうだった。
おずおずとミサキが口を開く。
「ウミ。何でアオイさんに学校行かせたの? 時間がないのはわかってたはずなのに」
「しなきゃいけないことがあって、そのために」
「しなきゃいけないことって?」
「にへへ」
「……言うつもりはないのね」
呆れたと言わんばかりの顔をするミサキにウミは笑みを返すことしかしない。自身の思惑も、計画も、そして胸中も語るつもりはないという意思の表れがその笑みだった。
「しなきゃいけないことはもうしたの?」
ミサキがそう問うとウミは苦笑いを浮かべた。
「まだなら、アオイさんが帰ってくる前に済ませたほうがいいんじゃない?」
「うん、そうするつもりだけど……」
ウミはちらりとミナモを伺い見た。当然、会話の中心人物であったウミはミナモに注目されていて目が合ってしまう。
「なんだ、何か企んでいるのか?」
「そうじゃないよ、にへへ」
否定を口にしたウミだが、だらしのない笑みが自身の言葉の信憑性を落としていた。
ミナモは息を吐き、ウミの思惑に当たりをつけ宣言する。
「もう一度この世界に来ようというのならば、不可能だ。さっきも言った通り、転移には危険が付きまとう。二度とお前たちにこの魔法を使わせないために帰り次第三人の記憶からこの世界のことを消す」
「…………えっ?」
告げられた瞬間、ウミの顔から表情が落ちた。
その変化に気付きながらも、いやだからこそミナモは続ける。
「当然だ。お前の素行の悪さを鑑みてもそれが妥当な判断だ。いくら使うなと言ったところでそんな言いつけを守るとも思えない。私の蔵から保管されていた日記を盗み出したという前科があるのだから」
お前に信頼など向けられるはずがないと語るミナモに、ウミは顔を青くした。
「消すって、魔方陣のことを? 私覚えてないよ」
「この世界に関することすべてだ」
一切揺らぎのない声で力強く断言され、彼女は慌てふためきながらミナモに詰め寄った。
「なんでそこまでするの。ダメならダメって言ってくれれば――」
「お前がそれを守った試しなどないだろう。だから今お前はここにいるのだから」
「でもっ、それじゃ、ここで暮らしたことは?」
「この世界に関することすべてを忘れてもらう。例外はない」
「アオイのことも? 私アオイのこと忘れたくないッ」
「…………お前が正面から文句や我が儘を言うのは初めてだな」
ミナモは若干驚きながらも嘆息した。
それから、目を細めて窘めるように言う。
「お前は自分を危険に晒しただけじゃないんだ。友人と妹を危険に晒したという事実を認識しろ。そもそも窃盗まで働いて、今まで私の信頼を裏切り続けて、それなのに自分の我が儘は押し通そうとするのか? どの口で言っている」
「ッ――」
凄まれたウミは、震えそうになりながら半歩後ずさる。
そんなウミの様子を見て声を上げたのは、言わずもがなイズミだった。
「師匠、ねえを傷つけるな」
「間違ったことは何も言っていない。お前も私を嫌うのは勝手だが苛立ちをぶつけるだけならば今すべきことではないだろう。お前の姉の体調を思うならな」
「お前のそういうところがイズミは大嫌いだ」
「いまさら言われずともわかっている」
どすを利かせ威嚇してもミナモに効果は見られない。いくら睨みつけようともミナモは呆れ交じりに嘆息するだけ。
ミナモは自身がイズミから嫌われていることも、彼女が姉によく懐いていることも知っているのだからこんな風に横やりが入ることも予測済みだったのだ。
部外者である旧友が口を挟むであろうことも。
「ミナモ、いくら何でもそれはちょっとひどいんじゃない」
「必要なことだ。そうしなければまた同じことが繰り返される。危険なものをまたつかわれるわけにはいかない」
「まるで遊具を撤去する大人みたいじゃない」
頑として聞く耳を持たない。ミナモは自身の判断が正しいと信じて疑っていない。
震えそうになりながらも必死に訴えてくる少女を見てもミナモは眉一つ動かさない。
「師匠。私忘れるのはいや、だよ。今度はちゃんと言いつけ守るから」
「いつからお前はそんなに我が儘を言うようになったんだ」
聞く耳も持たない。誰の訴えも今のミナモには届かない。
「いいから無駄な企みは諦めろ。考えるならば、今生の別れに悔いを残さない方法を考えろ」
そう言われても、これから忘れ去るというのに悔いも何もあったものではない。
何もかも忘れてしまうのならば、残した悔いすら忘れるというのならば、そもそも今日一日だって意味のないものだ。いったい何のための猶予なのか。
その場にいる全員がそう考えるであろうことを先読みしたミナモは付け足す。
「そもそも今日一日はお前たちを守っていてくれた少年への義理立てのつもりで渋々許諾したのだ。お前たちのためではない。お前たちのためを思うならば問答無用で連れ帰っている」
何度も言わせるなと苛立ち気味に言うミナモに、ウミだけでなくミサキまで委縮していた。
元々気を強く持つということが不得手なミサキは、自身が怒られているわけではなくとも怒鳴り声を聞けばすくみ上ってしまうような少女なのだ。直接ではなくとも誰かの怒りに触れてしまえば声を失ってしまう。
ミナモは嘆息気味に、けれど願うようにこぼす。
「だから、あの少年に悔いを残さないような別れをさせてやれ。それが世話になった者が最後にすべきことだ」
その声に自責の念が混ざっていたのをみな感じ取った。
だから、すぐさま声を上げるものは一人もいなかった。
部屋は静寂に包まれた。
太陽はまだ上り始めて間もない。ベランダに面した窓からは陽光が差し込んでいて、締め切られた部屋は暖房をつけているわけでもないのに春先を思わせるほど暖かくなり始めている。
けれど、静寂がその温度を奪っていく。
これから訪れる冬を予感させる肌寒さが、静寂となって彼ら彼女らの肌を突いていた。
誰も彼もが口を閉ざし、十秒、二十秒と時間だけが流れていく。各々の体感時間も曖昧になり始めたころ、ようやくその静寂は打ち破られた。
玄関からガチャリという音が響いた。
決して大きな音ではなかったはずのそれに部屋にいた全員が顔を上げる。それほどまでに場を支配した静寂というものの存在は大きかったのだ。肩をこわばらせるもの、眉を顰めるもの、目を見開くもの三者三様の反応を示す中、静寂を打ち破った彼はゆっくりと現れた。
「アオイ、どうして……」
最初に声を上げたのはウミだった。
「まだ全然時間経ってないのに」
壁掛け時計もないこの部屋で正確に時間を見ることができるのはスマホを携帯している山吹だけだ。けれど、わざわざ時間を確認する必要などない。
ウミは放心したように面持ちでうわ言のように続ける。
「まだ、学校にいる時間のはずなのに」
彼はうつむいたまま何も答えない。まるでウミの姿など見えていないかのように。見ないようにしているかのように自分の足元のじっと見つめていた。
そんな彼を見てひとり合点がいったとばかりに声を上げた者がいた。
「思い出作りのために戻ってきたというところか。それならば――」
「ミナモさん。お願いがあります」
その声を遮って葵はぼそぼそと口にした。
言いあぐねているというよりかは、むしろ言わないようにしているのに漏れ出るみたいに。
学生服は乱れていた。肩にかけられたカバンも持ち手が半分腕に垂れ下がっていて急いで帰ってきたことが窺える。だというのに息が乱れている様子はなく、汗の一つも見て取れない。気温の下がった十月といえど、駆ければまだまだ汗はかくだろうに。
どうにもちぐはぐな彼に眉を顰めるミナモ。目線だけで先を促せば、垂れた頭はそのままに目だけを動かしてそれを受け取り、葵は歯噛みしながら絞り出すように言った。
「もう少しだけ、時間をください」
それから彼は耐えきれないと言いたげに肩に目いっぱい力を入れて頭を下げた。
「今日一日じゃ、絶対に足りない」




