見えない気持ちと残った願い 2
「今すぐ元の世界に帰る」
その宣言を聞いて、誰一人としてその場を動こうとはしなかった。俺も、俺に抱きかかえられているイズミも、ミサキを連れてこいと言われたウミも。この部屋で暮らしてきた三人ともが異を唱える代わりに無言の抵抗を示していた。
「ウミ、ミサキを連れてこい」
男はそう命じる。鋭い視線とはっきりとした声音に俺はどきりとして、ウミに縋るような視線を向けた。
呼ばなくていい、呼ばないでくれと。半分以上硬直してしまった頭でただ目の前に迫った終わりから少しでも遠いところに逃げ出そうとしていた。
「早くしろ」
「……にへへ」
師匠に命令された弟子は困ったように笑った。愛想笑いというものをこれほどまでにはっきりと見て取れたのは、多分初めてのことだった。
気遣いではない、純粋な愛想笑いが俺の胸を締め付けた。
「ねぇ、呼ばなくていい」
声を上げたのは俺の腕に抱えられていたもう一人の異世界人だった。
彼女は懇願するように、けれど男に負けず劣らずの鋭い視線で力強くそう断言した。
男はその小さな女の子を一瞥するとため息を一つ吐きだした。
「イズミ。私を嫌うのは勝手だがしなければならないことは間違えるな」
窘めるように、叱るように。何が正しいのかを諭す。
男はつい先ほど敵意を向けたばかりの俺のことなど忘れた様子で淡々と告げる。
「三人を連れて元の世界に帰る。それ以外のことは今は考えるべきではない。他のことは帰ってからゆっくりと考えるべきだ」
そこまで言うと、男はようやく俺に目を向けた。半ば放心してしまっていた無力な男の姿が翡翠色の瞳に映し出された。
「君は今のこの部屋の住人か? であれば彼女らが世話になったことだろう。礼を言う」
彼はまるで感情などないかのように淡々と頭を下げた。感謝などみじんも感じられない。それこそ形式的にこなしただけのパフォーマンスにしか見えなかった。
そのままの調子で男は続ける。
「勝手に上がり込んでしまったことにも謝罪を。他にもかけたであろう迷惑を想像して謝罪を繰り返したいところではあるが、ことは急を要する。申し訳ないがまずは三人を連れ帰ることが先決なので、話はこれくらいで」
機械のような男だった。翡翠色の瞳は宝石のような色をしているというのに、その内側に光など通っていないかのように深く暗い視線。ただ一つその瞳から読み取れることがあるとするならば、焦っているということくらいしかなかった。
だから、急を要するというその言葉にだけは嘘がないのだと直感的に理解してしまった。
そして同時に、正しいのはどちらであるかも。
「彼女らはこの場にいるべき存在ではない。この世界の人間ではないのだから」
その事実を俺が認識できているのかを確かめるように男は語った。いや、俺だけに向けたのではない。この場にいる全員に向けて男はその言葉を投げがけたのだ。
俺は目をそらすことしかできない。男の言う通りだ。ウミもイズミも、ミサキも。本来ここにいるべき人間ではないのだ。魔法なんて言うものを操る異世界人は元居た世界に帰るためにこの場にとどまっていただけ。ここは止まり木でしかない。
飛ぶことができなかったから少し長くその止まり木にいただけなのだ。
飛ぶことができるようになったのならば、その止まり木は役目を終える。
異世界に帰ることができるのならば、彼女らがここにとどまる理由はもう存在しない。最初からそういう話だったのだから。
ウミもそれを理解している。わかっている。けれどウミにまだここにいてほしくて、俺はすがるように彼女に目を向けた。
彼女もまた、俺に縋るような目を向けていた。それは助けを求めてのものだったのか、真意は悟れなかった。ただその瞬間に俺はウミと何かを共有していることに気付いた。
それは多分気持ちのところで、けれどそうじゃない俺たちの根底にある何かでもあった。
その正体を明確に言語化することはできないけれど。それを感じ取った瞬間俺は憤りを感じた。保護者面をするつもりはないが、今この場でウミを守らなければいけないとそんな気持ちにさせられた。
「ウミ、ミサキは呼ばなくていい」
気付いた時には口に出していた。
ウミと師匠と呼ばれた男が同じタイミングでこちらに目を向けた。片方は目を丸く見開いて、口角をわずかに上げながら。もう片方は敵意を超えて殺気と呼べるほどのものを宿しながら。
「ウミたちが元の世界に帰るのは当然のことで、それはこの生活が始まった時からわかってたことだ。いつかウミたちはいなくなる」
自分に言い聞かせる。つい先日まで忘れていたことを。この生活が始まった最初の出来事を。そこで交わした期間限定の家族という肩書きを。
「そのことに文句はない。最初から決まってたことだから」
そんなわけない、文句しかない。この生活が終わるなんて想像していなかった。今すぐに物わかりの悪い子供になって駄々をこねたい。
けれど、正しいのは男のほうだ。それを俺自身が認めてしまっている。あるべきものをあるべき場所へ。間違ってはいない。
「でも――」
だから、俺がもし捏ねられる駄々があるのならば。口にできる我が儘があるとすれば。目の前の男に文句を言えるとするならば。俺にはたった一つしかなかった。
「いくらなんでも急すぎる。いきなり今から連れて帰るなんて言われても受け入れられない、受け入れたくない。短い時間でも一緒に過ごした家族なんだ。別れの挨拶もなしで、これまでここであったこと全部無視して終わりなんて。納得できない」
最後まで言い切ると、最初は厳しい目をしていた男も考慮する余地があると考えたのか顎にこぶしを当てしばし黙考した。
本音を言えば離れたくなんかない。終わりなんて永遠に訪れないほうがいい。これからもを願い続けている。
けれど、そこまでの我が儘は言えなかった。それは目の前の男と初対面だからというのもあったけれど、相手が年上だということもあったけれど、一番はウミが何を望んでいるかがわからないからだった。
俺の我が儘がウミを苦しめてしまったらと思ったら、それ以上の我が儘は言えなかった。
やがて男は黙考を終えると、やはり淡々と告げた。
「ならば少し待とう。確かにまっとうな別れをこなせずにすべてが終わってしまうというのは忍びない。それはこの先の膿になる。君やウミがこれから生きていくうえでふとした瞬間に蘇る古傷になりかねない。それは確かに君の言う通りだ」
そんなことまで考えてはいなかったが、男が一人納得してくれているので余計なことは口に出さない。とにかく目的を達成できればいい。ほんの少しでも長くこの生活を保つ。
「ならば十分ほど待とう。別れの挨拶をしろ」
「短すぎる。ウミたちが関わったのは俺だけじゃない」
「ならばどれくらいの時間が必要なんだ?」
「一週間。せめて数日」
「無…………」
無理だと言おうとしたらしい。それは当然予期できたので身構えてはいたのだが、言葉の途中で男は確かめるようにウミに目を向けた。
そして男はウミに歩み寄る。一瞬このまま連れ帰られるのではないかと危惧して駆けだしそうにもなったが、所詮は一人暮らしの賃貸マンション。俺が身構えたころには男はウミの目の前に立っていた。
頭二つ分ほども違う体格の二人が向き合う。ウミからすれば恐怖を感じてもおかしくない体格差だが、そこは顔見知りということもあってか怯えた様子はない。代わりに彼女は男の顔を伺い見ていた。
「ウミ、手を出せ」
「ん? …………ん」
一瞬のためらいがあった。けれどそれは本当に一瞬。ウミはすぐに右手を差し出した。
「…………」
男はその手を掴む。握手をするようにして繋がれた手に力みは見られない。強引な様子もない。それを確認した俺は踏み出しかけていた右足をようやくひっこめた。
「………………」
「……………………」
無言で手をつなぐ二人。その行為に何の意味があるかは分からなかったが、やがて男は得心がいったとばかりに小さく息を吐くとその手を離し俺に向き直った。
「悪いがそんな時間はとれない。今から十数分でできる限りの別れをしてくれ」
「俺以外にもウミたちとかかわりのある人がいる」
「できる限りと言った。すべてはこなせないだろう」
「それじゃあ」
「悪いが君の我が儘をすべて聞いている余裕はない。わかってくれ」
「ぁ…………」
その諭すような声が、俺の言葉を押しつぶしてしまった。申し訳なさそうに言うその姿が、俺の我が儘を押しとどめる。
大人のやり方だ。理性的で、気遣いをにじませて、諭すように静かに。そんな、俺が昔から浴びてきた、母親に浴びせられてきたやり口だ。
そう頭が理解するよりも先に俺の口はその機能を失った。
反射的に、これ以上は言葉を発してはいけないと体が発声を拒絶した。
唇をかみしめるが、言葉を失ってしまった時間は変えられない。その空白、無言を容認と受け取ったらしい男は話を閉めようと切り出す。
「すぐに転移の準備に取り掛かる。その間に済ませてくれ」
言いながら男は踵を返し寝室に向かおうとする。そこに何かがあるのだろうか、開いたドアからは床に落ちた布団が見えた。
「ああ、一つだけ」
男は思い出したように鵜と振り返り、俺をまっすぐに見つめた。
「逃げ出そうとは思わないでくれよ?」
釘を刺された。間違ってもそんなことをするんじゃないぞと。こちらは譲歩したのだからそちらも相応の態度で示せと。そんないろいろな思いがその言葉には込められていた。
「もしそうなったら、問答無用で連れ帰るしかなくなるからな」
それは男が確認のためにつぶやいただけなのかもしれない。けれどその小さな呟きは俺の耳にもしっかり届いてしまって。俺は震えあがってしまいそうだった。
制限時間は十数分と言ったところだろうか。準備にどれだけの時間がかかるかはわからないが過度な期待はできないだろう。もうそれを引き延ばすことはかなわない。
俺には、その時間で目いっぱいの別れを済ませる以外の選択肢はなくなってしまった。
だというのに、何をすればいいかが浮かばない俺はウミを見つめるだけで思い出話の一つも口にすることができない。それどころか、歩み寄ることさえも。
「どうした、時間はないぞ?」
それを見た男は気を遣ったのか口を挟む。
そんなことはわかっている。けれど、別れを済ませるといっても何すればいいのかわからないのだ。何をしていいのか、わからない。
ただ焦りだけが募っていく。男が寝室へ消える姿を意味もなく見つめる。
そのまま一人だけ元の世界に帰ってくれればいいのに。そんなことを思いながら。
そんな俺の胸中を察したわけではないだろうが、男は今一度振り返り言った。
「それとも、別れの時間は必要ないか? それならミサキを――」
「意地悪なこと言うもんじゃないわよ、ミナモ」
しかし男の声は最後まで発せられることはなかった。割り込んだ声がこの場を硬直させた。
男――ミナモは弾かれた様に声のほうへと目を向ける。俺もまた、寝起きのようなゆっくりとした動きで声のほうへと目を向けた。
玄関へと続く廊下。ウミの真後ろ。そこにいる人物を見て、俺は目を見開いた。
「店長?」
この場にいるはずもない人物。いるべきではない人物がそこにはいた。
ウィンクをかました彼は腰に手を当て、我が物顔で歩み寄ってくる。
ウミの横を素通りし、ウミたちの師匠――ミナモの前を陣取る。
「久しぶりね、ミナモ。また会えるとは思わなかったけど」
「…………」
ミナモは、明らかに警戒心をむき出して店長をにらみつけていた。その様子を見て、二人が初対面でないこと、ただの顔見知り程度の関係ですらないことを悟った。
二人の間には、何かがあるのだと。
ミナモは目を細め店長をじっと睨む。対して店長は笑みをたたえて涼しい顔をしている。
対決をしているわけではないが、優位性は店長のほうにあった。その様子を困惑半分、期待半分に見守っていると、ミナモは小さく息を吐いた。
それから自身よりも背の高い店長をにらみ付けながらこう言い放った。
「お前は誰だ」
どうやら、二人は初対面のようだった。




