聞こえた足音は 1
「葵君。ウミちゃんの体調はどう?」
後日、マンションの廊下で茜さんにそう呼び止められた。
彼女は今から大学に行くところなのか、はたまたバイトへ向かうのか。口元や頬、目元には化粧のあとがある。元々彼女の容姿が整っていることもあって一目見ただけでは気付きにくいが、手を握り合えるほどの距離にもなれば肌の色味で見て取ることができた。
「茜さんも知ってたんですね。ミサキに聞いたんですか?」
「そうだよー」
茶色のパンツに白のシャツ。ヒールの付いた靴というカジュアルでびしっと決まった姿からはやや不釣り合いな寝起きのような声が安心を誘う。彼女にだらしがないイメージがあるとは言わないが、その気の抜けるような声こそが彼女らしくて俺は身構えそうになった心をほどくことができた。
「なんかミサキが深刻そうにしてたからね。インフルにでもかかったの?」
「いや、風邪とも言えないくらいの軽いやつでした」
一時は辛かったとウミは言っていたが、数日のうちに完治までこぎつけることができたのならばミサキの心配も杞憂でしかない。体温を測っても熱もなく、食欲だってあったのだ。
風邪未満、という言葉が適当と言える症状だった。
「もう治った感じ?」
「今朝になったらもう元気って感じでした」
「そっかならよかった。なんか葵君も風邪ひいてたみたいだから、うつってうつされてみたいな感じなのかと思ってたよ」
「どうなんですかね、症状も二人とも違いましたし」
ウミの容態ははっきりとは把握していない。昨日の会話を信じるのならばウミが辛いのを隠していたからだ。だから同じ症状ではなかったとは言い切ることはできないけれど、発熱のあるなしだけで言うのならば全く別のものだったと言える。
俺はちらりと真横のドアに視線を送る。ドアの向こうには、今朝朝食を用意してくれたウミとその姉にべったりなイズミがいるはずだ。
「ミサキにうつったりはしてないですか? お見舞いに来てくれたんですけど」
「全然。まあ深刻そうな顔はずっとしてたけど、それは基本いつものことだからね」
「いつもなんですか」
「そういつも」
ミサキのことはよく知らないが情緒不安定なのだろうか。いや感受性豊かといったほうがいいのかもしれない。初めて会った時もウミたち相手に軽いパニックを起こしていたようにも見えた。
礼儀正しい、ともすれば警戒心の強いともとれる彼女はもしかするとイズミ以上に面倒な女の子なのではないのか、なんて益体もないことを思う。
そんな女の子と一緒に暮らしているアカネさんは一つ息を吐くと安堵の笑みを浮かべた。
「まあでもたいしたことないならよかったよ。それが聞きたかっただけなんだけど、呼び止めてごめんね」
「気にしないでください、気にかけてもらってありがたいですし」
言いながらどちらからともなく足を動かす。今しがた自室から出てきた二人はそのまま帰宅するはずもなく廊下を抜けるまでは自然と肩を並べた。
「これから大学ですか?」
気まずい沈黙を忌避した俺は、何の気なしにそう問いかけていた。
すると彼女はんー、と歯切れの悪い返事を返してきた。
「進路の話しなきゃいけなくてさぁ」
「あー、進路。……茜さんって今大学三年生とかでしたっけ?」
「二年だよ。三年だったら今の時期に唸ってたら大変じゃない?」
残暑も消え、時折一つ飛ばしの冬が顔を覗かせるようになった十月中旬。この時期に悩むそぶりを見せるということは来年度で大学生活が終わるのかと思ったがそうでもないらしい。
「そういうものですか?」
「そういうものだよ。葵君も高校卒業したら進路とか……あれ? そういえば葵君いくつ? もしかして今年受験だったりするの?」
「受験は来年度なのでまだ何も考えてないですね」
「あ、そうなんだ。……何も考えてないはちょっとやばくない?」
さして感情を顔に出すこともなく口添えをしてくれる茜さん。もしもこれが学校の担任教師だったら不機嫌をあらわにしていてもおかしくなかったが、茜さんの自分には関係ないと言いたげな雑談感覚の空気のおかげか神経を逆なでされることもなかった。
俺は相槌代わりの苦笑を返しつつ廊下の先を見据えた。
「いや受験勉強とかそういうのは考えてないって言うだけで、どうするかはもう決めてますよ」
「どこ受けるの?」
当然のように問いかけてくるから、俺は苦笑いのまま答えた。
「就職ですよ。進学はしないので」
「あ、まじで」
けだるげな声に少しばかり色が混ざった。誰に言っても同じような反応をされるのは目に見えていたとはいえ、そんなに驚かれるのは心外だった。
「いやまぁ、俺みたいなのがすぐに社会に出るのもどうなんだって気持ちはわかりますけど」
「いやそうじゃなくて、大学行かないっていう人あんま見ないから意外だった」
自虐的に言ってみたものの茜さんは興味なさげに話を進めた。
「なんか理由あるの? 早く働きたい理由」
「理由ですか。……独り立ちしたいからですかね」
大雑把に言えば、そういうことだ。
細かく理由を並べていけばいくらでも出てくる。早く親元から離れたいとか、島崎さんにこれ以上迷惑をかけるのは忍びないとか、そもそも俺が出ていくことを母親が望んでいるとかそういうことが。
その色々を一言に集約するのであれば、自然とそういう言い方になった。
これに関しては環境が俺に強いたことではなく、俺自身の意思の問題もあったから。
「大学に行っても勉強したいこともないですしね」
勉強が嫌いだからとは言わないけれど、好きだともいえない。学校での成績はそれこそいい部類に入るとはいえ、それは必要だからやっていることであって義務感からくるものだ。極端に言ってしまえば、やらなくていいのであればやりたくなどない。
そんな俺だから、勉学に励みたいという気持ちなどみじんもない。大学は人間関係を構築するための場という考え方もできるだろうが、そんなもの求めていないし、社会に出るまでの時間稼ぎをしたいとも思わない。
だから必然、俺は高校に入学した時点で進学はしないと決めていた。
世間の普通とはもしかすると少し違っているのかもしれないが、俺はそうする以外の道を選べるような動機を持ち合わせていなかった。
そんな俺の自虐的な胸中を察してか、茜さんはちらりと俺を伺いみた。
「そっか、まあ大学行くとお金かかるしね。奨学金とかとんでもない額だし」
「ですよね。それもあって大学に行く気はないです」
「そっかぁ」
きっぱりと言い切れば、茜さんは嘆息気味にそうこぼした。
ただの相槌にしては何かおかしいと思い様子を伺えば、彼女とばっちりと目が合った。
茜さんは言いにくそうに空を仰ぐ。見えるのはコンクリートの天井だけだが。
「いやさ、葵君が同じ大学来たら、それちょっといいなって思ってさ」
「あ、はい?」
あまりに予想外の言葉が出てくるものだから子犬の鳴き声みたいな音が喉から出ていた。
そんな俺に対して茜さんは飄々とした様子で、しかし苦笑気味に続ける。
「いや、気分の問題というかさ。お隣さんだし、これからも仲良くなれる気がしてるしさ」
「あー、そうですか……」
自分が大学に行くビジョンを持たない俺には、彼女の言いたいことがいまいちよくわからない。隣人との関係などないのが当たり前だと思うし、同じ大学に通っていたからと言って仲良くなれるかと言われたらきっとそんなことはない。事実として俺は同じ学校に通っているクラスメイトの名前をほとんど覚えていない。
だから仲良くなれる気がしていると言われてしまうといたたまれなくなってしまう。
きっと隣人でも、大学の知り合いでも、そんな程度のことで俺は他人と仲良くなんてできないだろうから。今茜さんとこうして親しくさせてもらっているのはウミたちがいたからで、その縁がなければ俺と茜さんは今も前と同じように挨拶も交わさない知り合い以下の隣人だっただろう。
眠たげな眼をした彼女はうめき声を上げつつ声音の明度をいくらか上げた。
「ま、うちが勝手にそんな想像してただけだよ。そうしてほしいとかそういうのじゃなくてさ」
「それはまあ、自分の進路なので」
誰に言われても俺は進学しないだろう。俺にはその利点がないのだ。
「そっかぁ」
けだるげに、けれど残念だと言外に醸し出しながら茜さんは廊下を歩く。もしも彼女がそれを楽しみにしているとしたら、少し申し訳ないことをしたかもしれない。
なんて、どうにもならない罪悪感を抱えつつ、お詫びと言っては何だが今度は俺のほうから彼女に問いかける。
「茜さんは大学院とか行くんですか?」
「行かないねぇ。就職先もある程度目処つけてるしね」
「そうなんですね。じゃあ三年生になったら就職活動……四年制の大学じゃなかったですか?」
「そうだよ、だから三年生の年明けくらいから動く感じかな。丸一年後くらい」
「茜さん、結構余裕あるじゃないですか」
茜さんの先ほどまでの言い方だと、まるで来年度から動いていたのでは間に合わないということかと思っていたが、案外そうでもないらしい。まあそれもそうだろう。大学三年生の時に就職が決まったとしても翌年から働けるわけではないのだから、それでは勇み足が過ぎるというものだ。
俺はじゃあ俺のほうが先に就職活動をすることになるのだろうなと思って未来の不安に思いをはせていると、茜さんが体を伸ばす猫のような声を上げた。
「んー、そうなんだけどねぇ」
心ここにあらず、という具合に彼女は中空を見据える。元々眠たげな眼をした彼女だが、今のそれはいつもとはどこか違って見えた。
「なんか不安があるんですか?」
相談に乗りますよ、なんてとても言えなかったのでそう問いかけるだけにした。年下の男にそんなことを言われても頼りないだろう。
しかし彼女は相槌とも言えないうめき声を惰性的に上げ続けると、意を決したとばかりに俺をまっすぐ見詰めた。
「葵君は就職したら引っ越すの?」
「え、いやどうなるかはわかんないですけど多分」
「そっかぁ、じゃああと一年ちょっとだね」
「そうですね。それまでの間は隣人としてよろしくお願いしたいです」
そう畏まって会釈を向けてみれば、茜さんはくすりとした。
「違う違う。それはまあお願いしたいけど、そうじゃないよ」
的をはずされたとでも言いたげな茜さんは肩を震わせくすくすと笑う。
あんまり笑われてしまうから頭を下げたことがだんだん恥ずかしくなる。笑みを抑えようと歩調を落とした彼女に対して俺は歩調を上げそうになってしまう。
「あと一年の間に、あの子たちどうにかしないとね」
けれど俺の足は止まってしまった。ふいに発されたその言葉に脳が硬直した。
どうにかする。その言葉の意味することを理解して、俺は今更ながらに思い出した。
仮初の家族だった。インスタントな関係だったんだ。
期間限定という言葉をいつから忘れていたのだろう。
俺は天地がひっくり返るような衝撃を受けていた。
いつからだろうか。俺はいつから勘違いをしていたのか。
いつから、ずっと一緒にいられると勘違いをしていたのだろう。
俺たちの出会いは、別れが前提であったはずなのに。
「ずっとこのままってわけにもいかないし、自分の人生があるしね。この部屋を出ても連れて行くっていうのは、ちょっと現実的じゃないもんね」
そんなことを考えていたわけではない。部屋を出てもあの二人と一緒に暮らしていこうと、そんな気持ちでいたわけでもない。かといってあの部屋に一生住み続けると考えていたわけでもない。
けれど、その二つが別れに結び付いていなかった。
ずっと一緒にいると考えていたわけではない。
離れ離れになることを考えていなかったのだ。
「だから、あと一年の間にあの子たちをちゃんと元の場所に送り返してあげなきゃねって話」
茜さんがふいに提示したその期間は俺からすればあまりにも短くて、短いとすらいえなくて。
永遠だったはずの時間に、唐突につけられた期間だった。




