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異世界へようこそ  作者: 澄葉 照安登
第五章 認めたくない現実
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いつからか無くなった飾り 5

 がしゃんという音が聞こえた瞬間、俺とイズミは弾かれた様にキッチンに目を向けた。

 そして瞬く間もなくイズミが全速力でキッチンへと駆けていく。その先にいるのが最愛の相手だとわかっているから、イズミは一瞬たりとも迷うそぶりを見せなかった。

 その様に焦りを掻きたてられた俺も早足にキッチンへと向かう。

「ねえ!」

 悲痛な叫び声をあげるイズミ。しかし彼女の姿は俺の目には映っていない。俺が駆けだしそうとしたその瞬間にはその声が響いていたのだ。

 普段無表情なイズミのらしくない悲痛な声音に焦らされた俺は意味もなく息を吐く。

「ウミ、大丈夫か?」

 それから努めて冷静に、しかし駆け足のせいで呼吸は不規則なままキッチンを覗き込む。

 視線の先にあったのは、床に転がった泡だらけのフライパンと、それに見向きもせずただ泡だらけの自分の手の平をおかしなものを見るような目でじっと見つめているウミの姿だった。

 こちらに目を向けることもなく、手の平からひじに向かって流れていく泡にも目もくれず。ただ自身の手を見つめ続ける黒いローブを身に纏った少女。

「ウミ?」

 フリーズしている彼女の姿に戸惑いつつ今一度その名を呼べば、ウミは一瞬おびえるように肩を震わせた。

 俺と目が合い、その口元がにへへという。それまでの間、ウミの手の平は流れ落ちていく泡をそのままにずっと同じ位置にいた。

「落としちゃった」

 苦笑気味に言ったウミは足元のフライパンに手を伸ばす。

「あっ」

 指をかけ待ちあげようとした彼女は、しかしそれを取りこぼした。

 泡と一緒に、フライパンが床の上に転がる。先ほどよりかはおとなしい音。けれど金属特有の脳に響く不快な音がしっかりと耳に届いた。

 間が空くのは必定だった。泡で手を滑らせたのだろうと、そんな風に解釈できればよかったのに、俺はウミの今までなかった失敗に強烈な違和感を抱いていた。

「ウミ、お前――」

「ねえ、もう休んで」

 俺の問いに答えをくれたのは、同じく黒いローブに身を包んだイズミだった。

 彼女は姉の取りこぼしたフライパンを拾い上げ、珍しく表情を悲痛に歪めて言う。

「ねえ体調悪い。無理しないで」

 その言葉を聞いた瞬間、いや予期したその瞬間から俺の足は一歩前に踏み出されていた。

「ウミ、どういうことだ」

 不安に駆られ出た声は、自分でもいら立っているように感じられた。実際はただ心配でしょうがなかっただけなのに、心配があり得ない熱量で出力されたせいで、怒りに近い何かに変質してしまっているらしかった。

 俺のとげとげしい声を受けたウミは一瞬びくりとし、それからやっぱり笑った。

「にへへ」

 たったそれだけだった。言い訳も説明もなく、ウミは苦笑いを浮かべただけ。

 それを見て俺は、体の芯が冷えていくような感覚に襲われた。不安と心配だけではない、それに乗っかって罪悪感がやってきた。

「いつからだ」

 なおもとげとげしい声で言えば、ウミは小首をかしげる。

「一昨日くらい」

 俺が風邪を引いたすぐ後だ。

「なんですぐに言わなかった」

「ちょっと変かなって思うくらいだったから」

「ウミ……」

 俺は問答がじれったくなって踏み出した足をそのままにウミに近づいていく。床に広がった食器用洗剤の泡など気にならなかった。足の裏に感じる冷たさよりも、首の内側に感じる寒気のほうがよほど気にかかった。

「アオイ、隠してたのはごめん。でも怒らないで」

 ウミが何か言うが、そんなもの耳に届いていなかった。俺は彼女と抱き合えるほどの距離まで近づくと腰を落としてその顔を覗き込んだ。

「熱は?」

「……無い、よ」

 言いよどむということは自覚症状があるということだ。

 俺は手を伸ばし、彼女の前髪を指でなぞる。ウミが後ずさろうとしたが、そんなもの抵抗にもならない。俺は手の平を彼女の額にくっつけ目を瞑る。

「……熱があるようには思えないな」

 温かくはある。しかし熱いとまでは感じられなかった。自身の額にも手の平を当てるが、大きな差はないように思えた。

 もしかすると異世界人の平熱はこちらの人間を基準に考えてはいけないのかもしれないが、顔色を見てもそれほど辛そうにも見えなかった。

「…………」

「…………」

「…………いや、赤いな」

 先ほどまではそうでもないと思っていたが、改めて彼女の顔をじっと見つめてみれば確かに頬が少し赤くなっているようにも思えた。それこそ寒さに当たった時のような些細な変化だが、今はまだ冬と呼ぶには早すぎる。肌寒くなり始めたが夏の気配は消えていない。

 俺は今一度彼女の額に手を当てる。心なしか先ほどより体温が上がったように感じられる。

 そう思って彼女とまっすぐに目を合わせると、ばつが悪いのかウミはその群青色の瞳を明後日の方向へとむけた。

「逃げんな」

「そういうつもりじゃないんだけど、にへへぇ」

 窘めるように言うがウミにそれが響いているようには思えない。それどころか今のにへへはいつもよりも更に間の抜けるような空気を孕ませていた。

「お前反省してないだろ」

「そうじゃないって。そうじゃないけど」

「いやいい、お前に反省してもらいたいわけじゃないしな」

 言いにくそうに言葉を探した彼女を見て、俺は溜息を一つ吐いた。

 そうだ。俺は彼女を窘めたかったわけでも責め立てたかったわけでもない。俺は彼女に八つ当たりをしたいわけではなかったのだ。

 深く息を吸い、苛立ちに似た何かがにじみ出てしまわぬようにと声を落とす。

 それからようやく彼女の額から手を離し、中腰だった背筋を伸ばした。

「気付かなくて悪い。看病してもらったせいだな。洗い物はいいから休んでくれ」

「大丈夫だよ……多分」

「多分じゃだめだ。イズミもそう思――」

「ねえ休んだほうがいい」

 同意を得るのが目的ではあったが、そう食い気味に言われてしまうとこちらのほうが気圧されてしまう。

 けれど効果は覿面。多数決の観点から見てもウミに勝ち目はない。彼女はなおもキッチンにとどまり続けるつもりだったようだったが、観念したのか苦笑いを浮かべた。

「わかった。ごめんねアオイ」

「ウミが謝ることじゃない。俺のほうこそ無理させて悪かった」

「ううん、アオイは悪くないよ」

 言いながらウミは手についた泡を流していく。元々白いウミの手から色素が流れ出ていくような光景をしばらく見つめていると、俺は気付いた。

「ウミ、手どうした」

「にへへ、さっき火傷しちゃった」

「さっきっていつ」

「夕飯作ってるとき」

 そう言われて自身の観察眼の鈍さを痛感した。

 夕食時、彼女が箸を落としたのを見た時に気付くべきだった。体調不良に陥っていることも、手の火傷のあとも、気付けるタイミングはあったのに。

 自身の不甲斐なさを呪っていると、ウミは泡を流し終えていた。

「アオイごめんね。明日からは大丈夫にするから」

「いやいい。そんな一日や二日で治ったら苦労しないだろ」

 俺自身が風邪をひいたときは丸一休めばほとんど回復したものだが、そんなものは参考にならない。俺の風邪がうつったのだと考えても病魔の度合いは人それぞれだ。

 やや過保護気味にウミにしばらく休んでいるようにと伝えると、彼女も自身の体調がすぐに回復してくれるとは思っていなかったらしく苦笑いを浮かべた。

「ごめんねアオイ」

 謝ってばかりのウミを見ているのは気分が悪い。それならばいつもの気の抜けるようなにへへのほうがましだ。そう思った俺はしばし思案する。

 それから小さく息を吐いて、彼女に手を伸ばした。

 ああ、そういえばこれももはや恒例になったなと一人微笑む。

 伸ばした手は彼女の頭に向かう。しかしそれは彼女の額にも、脳天にも触れることはない。その先の空気を摘まむように伸ばされた手は彼女の首の後ろにあるそれをとらえる。

「びへっ」

 ウミのわけのわからないうめき声ももう聞き慣れたものだ。力づくでかぶせたフードの中で頭を振る彼女のおかしな姿をしばし堪能してから、フードの縁から覗きこむように見上げられた瞳と目を合わせる。

「家族なんだから、当たり前のことだ」

 もはやそれも決まり文句になっているように思う。キザったらしい言い回しに羞恥心が顔を覗かせるが、気にかかるほどでもない。

 けれどそのままウミと見つめあっていてはその些細な羞恥心が自己主張を始めてしまいそうで、俺はそそくさとシンクの隅に追いやられていたスポンジを手に取った。

「休んでろ。イズミ、ウミを頼む」

「頼まれなくても。ねえはイズミに任せていい」

 淡々とした声だが、その言葉以上に信頼できるものなどありはしない。

 俺は呻き声にも似た相槌を打ち、洗い物に取り掛かる。

「アオイ。ありがと」

 去り際、ウミがにへへと笑いながらそんなことを口にした。いささかこそばゆかったが、謝られるよりかは気分がよくて俺はちらりと振り返った。

「にへへぇ」

 目のあったウミは間の抜けたというよりはだらしのない笑みを浮かべていた。

 わずかに紅潮した頬は、もはや熱を隠すことができていない。俺は早く休めと手で追い払うようなしぐさをする。

 それを見てウミはまたにへへと言ったが、俺はもう振り返らなかった。

 代わりに手の平で泡が際限なく膨らんでいく様を意味もなく見つめていた。


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